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2012年10月 2日 (火)

日本語の特性・・・日本文化の基盤

日本語の特性・・・日本文化の基盤


日本語には訓読みと音読みがある。音読みも、さらに、漢音と呉音とがある。同じ柔でも、柔道(じゅうどう)と読むのは漢音で、柔和(にゅうわ)と読むのは 呉音です。こんな複雑な国は、世界で日本だけでしょう。しかし、このことが日本人の感性を豊かにし、能力を高めているのかもしれませんね。
「生」の訓読み。「いきる」「はえる」「なま」「おう」「き」「うむ」「うまれる」「いかす」「うぶ」「いのち」など・・・・。一説では150 種類の読みがあるとか。
私は漢文を習っていませんが、漢文を訓読みができるように、学生のときに、漢文を勉強しておけば良かったとつくづく思います。漢文を訓読みで理解することは凄いことなのです。これができてはじめて日本文化の深いところが理解できるようです。しかし、その逆もない訳ではない。
髯と鬚と髭は、訓読みでは全部(ひげ)ですが、髯の音読みはゼンであり英語ではsideburn、 また鬚の音読みはシュであり英語ではbeard、さらに髭の音読みはシであり英語ではmustacheである。髯と鬚と髭をともに「ひげ」と読んでいたのでは中国の文化や西洋の文化の深いところは理解できないのかもしれない。言葉というものは語彙(ごい)が多い方が文化に深みがあるということになる。
奈良時代になると、遣唐使がさかんとなり、漢語学習熱が高まります。それまで日本に伝わっていた呉音は、当時の留学先である都・長安(支那北部)とはだい ぶ違う読みでした。そこで、奈良時代から平安時代にはじめにかけて、唐の中央の言葉が輸入され、それが 日本国内での正式な音読みとなります。
遣唐使が廃止されると、日本と支那の間には正式な国交がなくなりました。それが復活するのは鎌倉時代から室町時代にかけて。この時代には特に禅宗のお坊さ んや書籍が日本に入ってくるようになります。この時期に支那本土ではかなり発音が変化していて、それらを「唐音(と うおん)」と呼びます。
「行」という字の場合、呉音は「ギョウ」であって、修行(しゅぎょう)、行者(ぎょうじゃ)などの例がある。また、漢音は「コウ」であって、旅行(りょこ う)、行軍(こうぐん)などの例がある。さらに、唐音は「アン」であって、行燈(あんどん)、行脚(あんぎゃ)などの例がある。

ところで、日本と世界との間に始まった国際交流はの深まりは、結局、西洋人を「日本化する」ことに帰着するであろう。私はそう思っています。つまり、これからの世界文明は、日本が創り出していくのである。http://bit.ly/SNSWVr
今後、日本が世界文明を作り出していくであろうという根拠は、一言でいえば、日本文化は深みがあるというところにある。21世紀になり世界は、日本人の美意識である「わび」、「さび」などといった感受性の重要性に注目し始めた。私は、現代社会において・・・そういった「日本人の感受性」が世界平和をつくり出していくし、未来の世界文明を切り拓いていくと考えている。http://bit.ly/SNTKtn
中沢新一のいう概念に「対称性知性」というのがある。「対称性の知性」とは何か? 例えば、神話のなかで、山羊を人間とみる、熊を人間と見るなど、人間と自然のモノを同じように見る思考が「対称性思考」であ る。「野生の思考」と言ってもいい。これは、日本では「縄文の思考」と言っても良い。文明が進むにつれてその抑制をうけ、「対称性思考」というか「野生の思考」は影が薄くなっているが、今も私たち日本人はそういう思考能力を持っているのである。
右脳は音楽脳とも呼ばれ、音楽や機械音、雑音を処理する。左脳は言語脳と呼ばれ、人間の話す声の理解な ど、論理的知的な処理を受け持つ。ここまでは日本人も西洋人も一緒である。しかし、西洋人は虫の音を機械音や雑音と同様に音楽脳で処 理するのに対し、日本人は言語脳で受けとめる、ということが、角田教授の実験であきらかになった。日本人は虫の音を「虫の声」として聞いているということ になる。日本人でも外国語を母語とし て育てられると西洋型となり、外国人でも日本語を母語として育つと日本人型になってしまう。母音、泣き・笑い・嘆き、虫や動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川のせせらぎ、邦楽器音などは、日本人は言語と同様の左脳で聴き、西洋人は楽 器や雑音と同じく右脳で聴いている。
人も虫もと もに「生きとし生けるもの」として、等しく「声」や「思い」を持つという日本人の自然観、そして「日本人の感性」も同様であるということがうかがえる。虫の音だけでなく、そのほかの動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川のせせらぎまで、日本人は言語脳で聞いているという。これまた山や川や海まで、ありとあらゆる自然物に神が宿り、人間はその一員に過ぎないという日本古来からの自然観であり、日本人特有の感性である。親が犬を指して「ワンワン」と教える。同様に猫は「ニャーニャー」、牛は「モーモー」、豚 は「ブウブウ」、小川は「サラサラ」、波は「ザブーン」、雨は「シトシト」、風は「ビュウビュウ」。自然物はすべて「声」をもってしゃべっている。虫の音 は、同時に虫の声なのである。単なる音ではない。

ところで、内田樹の「日本辺境論」という本がある。これは非常に示唆に富む本だ。皆さんも是非この本を読んでいただきたい。この本の中で、特に、第4章の「辺境人は日本語と共に」という論考は重大な内容を含んでいると思う。私は、内田樹によって日本語の素晴らしい特質が語られていると思うので、その要点を以下に紹介することとしたい。

『日本人の日本人性の根本をなしているのは日本語という言葉そのものだ。』

『私たちの国の政治家や評論家たちは政策論争において、対立者に対して、「情理を尽くして、自分の政策や政治理念を理解してもらう」ということにはあまり努力を向けません。それよりはまず相手を小馬鹿にしたような態度を取ろうとする。テレビの政策論議番組を見ていると、どちらが「上位者」であるかの「組み手争い」がしばしば実質的な政策論議よりも先行する。うっかりすると、どちらが当該論件について、より「事情通」であるか、そのポジション取り争いだけで議論が終わってしまうことさえあります。』

『(本来)私と聞き手の間に原理的には知的な位階差がないという擬制をもってこないと説得という仕事は始まらない。けれども、私たちの政治風土で用いられているのは説得の言語ではありません。もっとも広範に用いられているのは、「私はあなたより多くの情報を有しており、あなたよりも合理的に推論することができるのであるから、あなたがどのような結論に達しようと、私の結論の方がつねに正しい」という恫喝の語法です。自分の方が立場が上であるということを相手にまず認めさせさえすれば、メッセージの真偽や当否はもう問われない。』

『日本的コミュニケーションの特徴は、メッセージのコンテンツの当否よりも、発信者受信者のどちらが「上位者」かの決定をあらゆる場合に優先させる(場合によってはそれだけで話が終わることさえある)点にあります。そして、私はこれが日本語という言葉の特殊性に由来するものではないかと思っているのです。』

『日本語のどこが特殊か。それは表意文字と表音文字を併用する言語だということです。(中略)漢字は表意文字です。かな(ひらがな、カタカナ)は表音文字です。表意文字は図像で、表音文字は音声です。私たちは図像と音声の二つを並行処理しながら言語活動を行っている。でも、これはきわめて例外的な言語状態なのです。』

『漢字と「かな」は日本人の脳内の違う部位で処理されている。(中略)日本人の脳は文字を視覚的に入力しながら、漢字を図像対応部位で、「かな」を音声対応部位でそれぞれ処理している。記号入力を二カ所に振り分けて並行処理している。(中略)言語を二カ所で並行処理しているという言語操作の特殊性はおそらくさまざまなかたちで私たち日本語話者の思考と行動を規定しているのではないかと思います。』

『日本列島はもともと無文字社会です。原日本語は音声でしか存在しなかった。そこに漢字(真名)が入ってきて、漢字から二種類の「かな」(ひらがなとカタカナ)が発明された。(中略)もともとあった音声言語は「仮」の、すなわち「暫定」の座に置かれた。外来のものが正当の地域を占め、土着のものが隷属的な地位に退く。それは同時に男性語と女性語というしかたでジェンダー化されている。これが日本語の辺境語的構造です。土着の言語=かな=女性語は、当然、「本音」を表現します。生な感情や、むき出しの生活実感はこのコロキアルな土着語でしか言い表すことができません。(中略)ですから、列島住民が文字を持つようになってから1500年以上が経ちますけれど、私たちがいまだに読み継いでいるのは実は、「仮名で書かれた文学作品」が中心なのです。』

『コロキアルな生活言語の中に「真名」的な概念や述語を包み込んで、コーティングして、服用し易くする。このような努力は日本人にとっては本能的なものだと思う。まさに私たちの祖先はそのような仕方で外来の文化を取り込んで「キャッチアップ」してきた。けれども、私の知る限り、学術的論文をコロキアルな語法で展開するということに知的リソースを投じるという習慣は欧米にはありません。(中略)母語で哲学している人たちには、それをいちいち土着語に翻訳しないと、読者に「話が通じない」という辺境人の苦労はわからない。』

『明治の日本が中国や朝鮮を取り残して、すみやかな近代化を遂げ得た理由はこの日本語の構造のうちに読み取ることができるだろうと私は思います。』

『かって岸田秀は日本の近代化を「内的自己」と「外的自己」への人格分裂という言葉で説明したことがありました。世界標準に合わせようと卑屈にふるまう従属的・模倣的な「外向きの自己」と、「洋夷」を見下し、わが国の世界に冠絶する卓越性を顕彰しようとする傲慢な「内向きの自己」に人格分裂するという形で日本人は集団的に狂ったというのが岸田の診断でした。この仮説は近代日本人の奇矯なふるまいをみごとに説明した理論で、現在に至るまで有効な反証事例では覆されてはいないと思います。
岸田の理論に私が付け加えたいと思うのは、この分裂は近代日本人に固有のものではなく、列島の「東夷」という地政学的な位地と、それが採用した脳内の二カ所を並行使用するハイブリッド言語によって、「外」と「内」の対立と架橋は私たち文化の深層構造を久しく形成していたというアイディアです。』

『日本に限らず、あらゆる文化はそれぞれ固有の二項対立図式によってその世界を秩序立てます。とりあえず、それぞれのしかたで世界を対立する二項によって分節する。「昼と夜」、「男と女」、「平和と戦争」、こういう二項対立のリストは無限に続けることができます。ラカンは対立による秩序の生成について、こう書いています。「これらの対立は現実的な世界から導き出されたものではありません。それは現実の世界に骨組みと軸と構造を与え、現実の世界を組織化し、人間にとって現実を存在させ、その中に人間が自らを再び見出すようにする、そういう対立です。」
その点では、私たちがしてきたこともそれほど奇矯なふるまいではありません。ただ、私たちは華夷秩序の中の「中心と辺境」「外来と土着」「先進と未開」「世界標準とローカル・ルール」という空間的な遠近、開化の遅速の対立を軸にして、「現実の世界を組織化し、日本人にとって現実を存在させ、その中に日本人が自らを再び見出すように」してきた。その点が独特だったのではないか。そういうことだと思います。それが「いい」ということでもないし、それだから「悪い」ということでもない。』

以上、前半で述べたように、角田忠信が言うとおり、 西洋人は虫の音を機械音や雑音と同様に音楽脳で処 理するのに対し、日本人は言語脳で受けとめる。このことから、日本語には、「ワンワン」、「ニャーニャー」、「モーモー」、「ブウブウ」、「サラサラ」、「ザブーン」、「シトシト」、「ビュウビュウ」などという擬音が実に多いのである。そういう日本語の特性が、 ありとあらゆる自然物に神が宿り、人間はその一員に過ぎないという日本古来からの自然観というか日本人特有の感性のもとになっている。それは「野生の思考」というか「縄文の思考」とつながっており、日本語の特性と表裏一体のものである。したがって、私はこういう特性を「日本語の野生性」と呼びたいと思う。

実は、日本語の特性は「野生性」だけでなく、内田樹が言うように、日本語は「仮名」と「真名」という両義性をもっている。これもまことに重要な特性であって、これまでの西洋文明を大きく変える力を持っている。ここでいう両義性とは、「本音」と「立て前」というような二項対立的なもののことを言っている。「仮名」で表現する言葉は、古来から日常生活においてしゃべられてきた言葉であり、「本音」を表現するのにふさわしい。一方、「真名」は中国から入ってきた漢字の世界であり、権力者というか組織の指導的立場にある人が主にしゃべってきているものであり、庶民の生活実感とはかけ離れた「立て前」を表現するのにふさわしい。しかし、真実というものは、「本音」と「立て前」の間にあり、表面的には見えなくなっている。このことを以て、ラカンは「言葉では真実を語れない」と言うのであるが、これに関しては中沢新一や内田樹の「穴論(あなろん)」がある。日本語のように言語の両義性があると、二項対立的な認識を超えて、私が「両頭截断」と言っている絶対的な認識が可能になる。西洋では、ものごとの白黒をつけなければならないところがあり、判りよいが・・・真実とはほど遠いところでの認識とならざるを得ない。西田幾多郎のような絶対的認識にたっての哲学は、プラトンの「エロス論」やハイデガーの「根源学」を例外として、おおよそ西洋人には理解しがたいところであろう。こういうのも言語の特性に起因するのであって、日本人の場合は、諸般、矛盾したことを言っているようであるが、その方がむしろ真実に近いのである。なお、ちなみに申し上げれば、先の日本語の「野生性」という特性は、やはり哲学においても、田辺元の「多様体哲学」に繋がっているようである。

プラトンのエロス論については、
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/eros08.pdf

ハイデガーの「根源学」ならびに中沢新一や内田樹の「穴論(あなろん)」については、
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/eros15.pdf

を参照されたい。

なお、内田樹はその著「日本辺境論」(新潮新書)で、両義性もつ日本語の特質と「ジェンダー論」との関係について述べているが、この点についてはいずれ機会を見て私の考えを書きたいと思う。

内田樹はその著「日本辺境論」(新潮新書)でまことに重要なことを言っているので、最後にそれを紹介して筆を置きたい。すなわち、彼は次のように言っている。すなわち、

『私たちの言葉を厚みのある、肌理の細かいものに仕上げてゆくことにはどなたも異論はないと思います。でも、そのためには、「真名」と「仮名」が絡み合い、渾然一体となったハイブリッド言語という、もうそこを歩むのは日本語だけしかない「深化の袋小路」をこのまま歩みつづけるしかない。孤独な営為ではありますけれど、それが「余人を以て代え難い」仕事であるなら、日本人はそれをおのれの召命(しょうめい)として粛然として引き受けるべきではないかと私は思います。』・・・と。

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