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2012年10月11日 (木)

「天皇と鬼と百姓と」第2章

第2章 天皇制が危ない

 昔から、天皇は、宮中の祭祀を最優先とされてきており、現在も天皇自らが祭典を行われ、御告文(おつげぶみ)を奏上される「大祭」が少なくない。

 早朝に天皇が神嘉殿南庭で伊勢の神宮の山陵および四方の神々をご遙拝になる年中初の行事・元旦の四方拝、 年始に当たって皇位の大本と由来とを祝して国家国民の繁栄を三殿で祈られる祭典・1月3日の元始祭、 三殿で行われる年穀豊穣祈願の祭典・2月17日の祈年祭、 神嘉殿の前で皇族をはじめ国民のために行われるお祓いの行事・6月30日及び12月31日の大祓、 天皇が神嘉殿において新穀を皇祖はじめ神々にお供えになって神恩を感謝された後に陛下自らもお召し上がりになる祭典・11月23日の新嘗祭(にいなめさい)などはつとに有名だが、その他にも大事な「大祭」が少なくない。
 その他に、掌典長が祭典を行い,天皇がご拝礼になる「小祭」や「旬祭」もたくさんある。

 宮中祭祀は、「天皇が私的に行なう儀式」ではあるが、それらは全て日本国民統合の象徴である天皇の最大のお仕事であるのだと思う。未来永劫、継承されていかなければならないと私は思う。

 戦後、 旧皇室祭祀令が廃止された際、宮内庁は、内部通牒を出し、引き続き宮中祭祀を旧皇室祭祀令に準じて実施することを確認している。現在の宮中祭祀も旧皇室祭祀令に基づいて行われているが、この慣例を以下の観点から早急に改める必要があるのではないか?
 今の慣例では、三殿に昇殿できるのは皇太子までであり、秋篠宮文仁親王は昇殿できない。これでは、皇太子が天皇になられた時、秋篠宮文仁親王は、皇位継承順位第一位であるにも拘わらず、皇太子ではないので、三殿に昇殿できないという状態が続く訳で、宮中祭祀が途絶える虞れが生じてくる。
 「天皇制が危ない!」と「祈りの科学」シリーズ1ではこのことを書いた。「祈り」に焦点を当てていたためである。しかし、実は、「天皇制が危ない!」のはこのことだけでなく、日本にはなくてならない皇室がなくなる虞れがあるのである。前章で皇室の お仕事の重要性を書いたが、宮中祭祀が途絶える虞れの他に、皇室がなくなる虞れというのもまさに国家の根幹に関わる重要な問題である。

 2011年11月26日の報道によると、宮内庁の羽毛田信吾長官が、女性皇族による宮家の創設を「火急の案件」として野田首相に検討するよう要請していたことが分かった。藤村官房長官は「国民各層の議論を十分に踏まえ、今後検討していく」との考えを示した。

 現在、30歳以下の皇族は秋篠宮さまと紀子(きこ)さまのお子さま悠仁(ひさひと)さまをはじめ9人で、そのうち8人が未婚の女性だ。皇太子家の愛子さま、秋篠宮家の眞子(まこ)さまと佳子(かこ)さま、寛仁(とも)親王家の彬子(あきこ)さまと瑶子(ようこ)さま、憲仁(のりひと)親王家の承子(つぐこ)さまと典子(のりこ)さまと絢子(あやこ)さまの8人である。これらの女性はいずれご結婚されると、現在の皇室典範では皇室を離れられることになっている。皇室がなくなっては大変だ。
したがって、皇室典範の改正は火急速やかに検討されなければならないのは当然である。しかし、そこには 大変難しい問題が横たわっている。天皇及び皇室の継承を今まで通り男系にこだわるべきなのかこだわらなくても良いのかという問題だ。私は、「天皇は男系にこだわるべきだが、皇室の場合は男系にこだわらなくていい」・・・と考えている。しかし、天皇の継承は男系でなければならないが、皇室は男系でなくても良いという理屈がはたして成り立つのかどうか?

 天皇の継承を男系にこだわった場合、新天皇の後継者は秋篠宮文仁親王となるが、その場合に宮中祭祀が無事継承されるかという問題が生じるが、まずその問題を考えてみよう。

 新しい天皇の御遺志で、皇位継承順位第一位である秋篠宮文仁親王が、皇太子でなくても昇殿できるように今の慣例を改めることはできるかと思う。しかし、今の皇室は常に国民の世論を気にかけておられるので、私たち国民は、皇室が安心して今の慣例を改
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めることができるようして差し上げる必要があるかと考える。したがって、 私たち国民の世論によって、宮中祭祀が途絶えないよう、 掌典長が然るべき上奏をすることが肝要かと思う。 その上奏を誰に行なうのか、またいつ行なうのか或はその内容についても、すべて掌典長の判断に任せるのが良いと思うが、ともかく今は、私たち国民がこぞって宮中祭祀が未来永劫続くことを願っている、そのことを掌典長にアッピールする必要があるのではないか?

 これで宮中祭祀の問題は解消されるとして、天皇の場合と同様に皇室の継承を男系にこだわった場合、旧宮家の復活の問題が出てくるが、「覆水盆に返らず」の喩えのとおり、これはあり得ないことだと思う。民法ではあるが親族とは叔父、叔母までであり、天皇といえども旧宮家の方々と親族的なおつきあいをすることはないと思われるからである。したがって、問題の焦点は、 天皇の継承は男系でなければならないにもかかわらず皇室は男系でなくても良いという、そんな理屈がはたして成り立つのかどうかに尽きる。 以下においてそのことを考えてみたいと思う。

 皇室の役割は、公式のお仕事で天皇の代りをすることと、私的であっても皇室にふさわしい権威というか名誉あるお仕事を行うことである。宮中祭祀は天皇のお仕事であり、皇室は行い得ない。皇太子といえども天皇の新嘗祭では天皇の「祈り」を覗くことすらできないのである。年間30ほどある宮中祭祀の中でもっとも重要な儀式が新嘗祭である。毎年11月23日に行われる。

 ここで新嘗祭について説明しておこう。
 まず天皇は「潔斎所(けっさいしょ)」でお湯で身を清めた後、白衣を一枚だけ身につけ、裸足のまま神嘉殿(しんかでん)に向われる。そこで桐でできた木の沓(くつ)を履かれ、昇殿される。神嘉殿(しんかでん)内での天皇は、冠に純白の絹の袍(ほう)、純白の袴、右手に木製の笏(しゃく)を持った「祭服」と呼ばれる出で立ちにおなりになる。そして、用意された台に、その年に収穫された新米で作ったご飯やお酒、鮮魚、野菜、果物などを一品ずつ捧げていかれる。その後に天皇も自ら新穀を召し上がる。この間、具体的にどういう所作をし、どんな言葉を発するかは、秘儀として明らかにされていないのである。皇太子や宮内庁の掌典長も 神嘉殿(しんかでん)には入るけれど、中は御簾で仕切られていて、皇太子といえども天皇のご様子を窺い知ることはできないのである。薄暗い灯明の中、天皇はこれらの所作を「祈り」を込めながらゆっくりゆっくりなさっていくので、これだけで1時間以上はかかるという。
 それが終わると、外で待機している秋篠宮殿下をはじめとする男性皇族や総理大臣、閣僚など総勢50〜60名が順々に 神嘉殿(しんかでん)の前に進み出て、深々と拝礼をする。全員がこれを終わるまで1時間ほど要するので、儀式は2時間を要するのである。この儀式は午後6時と11時の二回にわたって執り行われる。前者を「夕(ゆうべ)の儀」後者を「暁(あかつき)の儀」という。もちろん神嘉殿(しんかでん)には暖房はないので、寒さは尋常ではない。今上天皇は、毎年新嘗祭が近づくと儀式の練習をなされ、その際、皇位後継者の皇太子のみに所作をお見せになるのだそうである。

 さて、このような宮中祭祀独特の作法がいつ頃に定着してきたのか、私には判らないが、歴史とともにそれぞれ歴代の天皇から伝わってきたもので、誰もそれを知ることはできないのである。すべてが今の天皇が行われている所作が語っているのだが、それも皇太子しか知り得ないのである。
 作法というものは表面上の形だけでなく、その所作の中に込められている「心」が大事である。所作は教えることができるけれど、「心」は先天的なものに日頃の立ち振る舞いが加わって作られていくものである。先天的なものを先祖からどのように受け継いできているか、天皇の「祈り」には通常の説明では説明しきれない凄さがある。それをこれから説明しようと思う。
 私の著書「祈りの科学」シリーズ(1)「<100匹目の猿>が100匹」をじっくり読んでもらわないと到底理解できないのであるが、その第6章の「シェルドレイクの<形態形成場>」の譬え話でいえば、宇宙に重力場や磁力場などがあるように、心の中にもそして天にも形態形成場というものがあって、心の中にも天の中にもすべての先祖が波動の形で存在している。それらの存在が天皇の発する声や「祈り」によって、共振を起こすのである。形態形成場の共振は共時性を有している。時間を超越しているということだ。したがって、天皇の発する声や「祈り」はすべての先祖の発した声や「祈り」と共振するのである「共振」、これは「響きあい」と言ってよい。つまり、天皇の発する声や「祈り」はすべての先祖によって強化され、超越的存在である宇宙の大いなる神に届くのである。この大いなる神は天皇の願いを聞き届けてくれる。この神が指し示す方向は天皇のみぞ知るで私たちには到底計り知ることはできないが、天皇が宮中祭祀として大いなる「祈り」を捧げておられる以上、日本は間違いなく良い方向に向う筈である。私はそう考えている。
 さて、歴代天皇の中には女帝もおられた。しかし、そのほとんどは男帝である。男帝の歴代天皇はそれぞれ先祖である天皇と響きあってきたのであり、その「共振」のパターンというのは男帝のパターンとして定着してきているのである。今後科学学的にこういうことが解明されていくと思うが、今のところは科学的であってもひとつの仮説であるから、皆さんに納得いただけたかどうか、はなはだ心もとないが、もっと判り易い言い方でいうとこういうことになる。
 「祈り」というものは「心」がこもっていなければならない。その「心」というものは先祖伝来のもととして遺伝子として継承されていく。私たちは、すべての先祖の遺伝子を持っている。ここでは「祈り」に焦点を当てているので、便宜上、「祈り」の遺伝子という言葉を使おう。天皇の大いなる「祈り」の遺伝子は男帝にしか伝わらない。「祈り」の遺伝子、これこそ「伝統・文化」の重みというものを考えねばならないキーワードである。天皇は祈る人である。大いなる「祈り」を捧げる人である。大いなる「祈り」を捧げるためには、「祈り」の遺伝子が伝わっていないといけない。「祈り」の遺伝子は男帝にしか伝わらない。

 宮中祭祀は男子でないといけないのである。しかし、宮中祭祀を司らない皇室は男子でなければならない理由はない。女性の皇室継承を一日も早く実現したいものだ。

 私は、京都生まれ京都育ちであるので、京都人がそうであるように天皇には自ずと親しみを持っている。また、旭日重光章(きょくじつじゅうこうしょう)の叙勲のときと、国土交通省の副大臣の辞令のときと都合併せて二回天皇から直接それらを拝受しているので、天皇には特別な畏敬の念を持っている。親しみと畏敬の念、それが私の天皇観であり、天皇のいやさかを心からお祈りしている次第である。


私の電子書籍「天皇と鬼と百姓と」は、電子書籍ショップで購入していただけると誠にありがたいと存じます。
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