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2012年10月21日 (日)

治水対策と地域の歴史的人物

河川と人物

災害で気になるのは、災害の規模と頻度である。規模については、頻度と関係があるが、上限がないといえばちょっと語弊があるが、まあ切りがないのである。それ以上の規模の災害は絶対に起こらないというような限界線を引くことはできないのである。
東日本大震災は未曾有の大災害であった。しかし、今後日本列島においてあれを超える災害が起こりえないとは言えない。あれ以上の災害は起こりうる。宇宙から大きな隕石が落ちてこないとも限らない。もし東京に大きな隕石が落ちてきたらどのような大惨事になるだろう。しかし、そんなことは自分の一生のうちに起こらないと思うから、私たちは隕石の落下なんてものはまったく気にしないし、また気にする必要もないのである。しかし、毎年のように起こっている災害については、どうしても気になるし、何か対策を講じなければならない。おじいさんやおばあさんの時代に経験したことのあるような災害についても、話を聞いたり本で読んだりして、知り得たときには誰だって気になるだろう。要は、災害というのは、どんな頻度でどんな災害が起こるかという確率の問題である。
私たちは、50年確率とか100年確率とか、そんな言い方をする。50年確率とは50年に一度ぐらいは起こりうる確率を言う。100年確率とは100年に一度ぐらいは起こりうる確率のことである。治水対策というのは長年月を要するので、現在、直轄河川の場合は200年確率で、また都道府県管理の河川についてはおおむね50年確率とか100年確率で災害対策が行われている。都道府県の事情によってまちまちであるが、それは都道府県の考えによって決まっているので、それはそれで良い。国が決めることではない。国はいろいろ相談に乗ったり指導はするが、計画決定はあくまで都道府県知事の権限であり責任である。もちろん、知事が計画を決定するときは、市町村長の意見を十分聞く必要がある。市町村長は住民の意向を十分踏まえて知事に意見をいうことになる。直轄河川の場合も同様で、直轄河川の計画規模は知事の意見を聞くことになっているが、知事は市町村長の意見を十分踏まえて意見を言うし、また市町村長は住民の意向を十分踏まえて意見を言うことになる。
したがって、結局、河川改修の計画規模は基本的には住民の意向というものが十分反映されたものでなければならない。住民の意向が基本でなければならないということは他の行政でも同様だ。
治水事業というのは、上述したように、100年確率とか200年確率とか自分の一生に起こりえないような規模の災害を洪水対策を行うものである。それ以上の洪水が起こらないということではない。今まで経験したことのないような、いうなれば異常洪水は起こりうる。したがって、洪水対策としては、治水対策の他、警戒避難体制の整備とか、水害に強い町づくりを行う必要があるのである。津波対策の場合も同様である。治水工事も町づくりも長年月を要する。警戒避難体制の整備は比較的早くできる。ともかく、災害対策というものはできるところから着実にやっていくことである。手を緩めてはならない。常に最近起こった災害、或いはおじいさんやおばあさんの時代に起こった災害を念頭に、河川改修、警戒避難体制の整備、災害に強い町づくりを行っていく必要がある。

 そこで大事なのは、過去において、その地域で災害に尽力を傾けた「地域の歴史的人物」を忘れないことだ。地域の歴史的人物というのは、各地域におられると思う。それを顕彰し、感謝の気持ちを絶やしてはならない。今ここでは、杉田定一の話をしておきたい。全国的な大恩人でもあるからだ。
杉田定一は、1851年、波寄町の大庄屋、杉田仙十郎の長男として生まれる。杉田家は越前地方でも有数の大地主であり、代々社会のために尽くした篤志家でもあった。定一は、幼年時代に三国滝谷寺の住職道雅に、儒教、詩文、書道を学ぶ。明治政府ができると、定一は上京し、新聞社に入り、自由民権を主張し、同士と国会開設の運動に挺身した。定一の政治家としての主な経歴を示すと、
1、第1回総選挙に当選し、以後10回連続当選
2、北海道長官、伊東博文内閣の時の政友会の幹事長
3、明治39年、衆議院議長
4、郷土福井県のために尽くした功績により、明治44年、勅撰貴族院議員

郷土福井県のために尽くした功績とは、農民のための地租改正と織物工業発展に尽力されたが、私たちの関係では、九頭竜川、足羽川、日野川の河川改修に尽力されたことを忘れることはできない。

福井県内では、明治28年(1895)、29年(1896)と大洪水に見舞われ、九頭竜川改修の気運が高まったところへ、明治29年に河川法が公布され た。そのような世情のなか杉田定一は、九頭竜川・日野川・足羽川の治水事業を河川法第8条を適用して国事業として施工できるよう、その必要性とともに関係 者に対して力説し理解を求めた。その結果、明治31年(1898)3月14日に、内務省告示第22号をもって、他の日本の重要河川とともに、連続堤防を築 いて越流を防ぎ、あわせて河川水運のことも考慮した、「九頭竜川改修基本方針」のもとに工事実施することが決定された。
 杉田定一の誠意と熱意は関係者の心を動かし、他県の河川にさきがけて実施される運びとなった。このとき杉田定一は、千数百石もあったといわれる私財を投げうって、河川改修の実現のために奔走した。
 改修工事は、明治33年(1900)に始まり、11ヵ年にも及ぶ年月を要して完了した。引続き明治43年(1910)からは日野川の改修に着手し、大正13年(1924)をもって、初めの計画どおりの大改修が完了した。
 これらの改修工事の実現にあたっては、多くの人々が苦労し力を尽くしたが、なかでも衆議院議長となった杉田定一の功績が大きかった。西藤島には、杉田定一の徳を偲んで、治水謝恩碑が建てられている。
 また、足羽神社境内には、いかに画期的な大工事であったかを物語る九頭竜川修治碑が建てられている。

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