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2012年10月12日 (金)

私の電子書籍「書評<日本の文脈>」終章

おわりに

 この「日本の文脈」を読んで私が痛切に感じるのは「男のおばさん」の重要性である。私たちは、今こそ、プラトンのエロス論は日本の文脈に合うように書き換えなければならない。そのためにはまずニーチェの哲学を日本人の感覚に合うように書き換えなければならない。そのように感じている。

  私は拙著「祈りの科学」シリーズ(4)の第1章で中沢新一の「モノとの同盟」という哲学について、その重要性を指摘した。中沢新一のこの新しい哲学のことを、私は「光と陰の哲学」と呼んでいるが、その要点は次のとおりである。
 ものごとには何ごとも両面がある。光があれば陰もあるし、物があれば「モノ」がある。「モノ」とは心のこもった物のことである。物とは単なる物質のことだ。
 私は「両頭截断(りょうとうせつだん)」とよく言っているが,これはそういうものごとのには必ず両面があるので、それにこだわっていてはいけないということを言っている。 哲学的には二元論というが、そういう二元論を超えた世界、つまり一元論的認識の世 界、それが陰陽の世界である。両頭を截断した、つまり相対的な認識を超えた絶対的な認 識(一元論的認識)の世界である。私たちは陰陽の世界を生きているし、またそのことを日頃から十分認識しておく必要がある。
 中沢新一の「光と陰の哲学」、それは、ハイブリッド思想を支える哲学であり、モノ的技術を支える哲学である。おそらく田邊哲学の系譜に属するものではないかと思う。新しい「種の論理」ではないかと考えている。
 中沢新一は、その最新の著書『精霊の王』(2003年・講談社)のなかで、田辺元 (はじめ)の哲学を「後戸(うしろど)の哲学」として絶賛している。輝かしい光を放っている前面の哲学者は、いうまでもなく西田幾多郎(きたろう)である。しかし、田辺元 という「後戸の哲学者」がいないと世界を変えるエネルギーは発生しない。世界を変える 実践のためには「後戸の哲学者」が不可欠なのである。そのように説く中沢こそ、これか らの世界をリードする「後戸(うしろど)の哲学者」であろう。私たちはもう一度「日本哲学」の源流である西田哲学と田辺哲学をしかと見直して、中沢新一の「スピリット論」 を発展させていかなければならない。
 私たちは今こそエロスの神を信じて正しい人生を歩まないと「個人の幸せ」はおろか「種の保存」すら危なくなる恐れがある。イギリスの医学ジャーナリストであるロイ・リッジウェイという人の言うところによれば、「多くの子供から助けを求める悲鳴が聞こえてくる」のだそうだ(「子宮の記憶はよみがる」1993年1月、めるくまーる)。彼はこのように訴えている。すなわち、

『 自分ではどうしようもない「死の恐怖」におびえているのだ。考えてもみたまえ!母親が、女性が、そして多くの識者が、女性の身体の秘密を知らなさすぎる。懐妊の前のタバコや飲酒、あるいは情緒不安的な生活は、知能の低い子供とか五体不満足な子供を出産する可能性が高いと言われているのに、若い女性でタバコを吸い酒に飲まれている人あるいは生活が乱れている人が少なくないではないか。』と。

 子供は社会の宝である。プラトンの「エロス論」はそのことをいちばん訴えているのだが、その子供はどんどん悪くなってきている。非正常な子供がどんどん増えているのだ。
 出産後の育児も問題だらけではないか。例えば、蛍光灯は幼児に良い影響を与えないようだし、少し大きくなってのパソコンゲームなんてものはもってのほかだ。コミュニケーションがうまく出ない子供が増えているのではないか。 子供は社会の宝である。私たちは今こそ「エロスの神」を祀り、正しい人性を歩む努力をしなければならないのではないか。
 私は皆さんにエロスについて考えてほしいと思う。拙著「女性礼賛」の第1章の「恐竜の脳」、第2章の「胎児の世界」、第3章の『シェルドレイクの「形態形成場」』、第4章の 『結婚とは「神と人とのインターフェースである」、第7章の「女性リーダー待望論」を読んでいただければありがたい。
 私は今、日本における「エロスの神」というものを意識しながら、ニーチェの哲学を勉強しているところである。ニーチェのいう「力への意思」は正しいと思う。ニーチェは超人といわれるだけあって、ニーチェの哲学は巨大は体系をなし、私など哲学者でないものがその批判をすることなどは許されないかもしれない。しかし、私は、ニーチェはやはり間違っているのだと思う。ニーチェの最大の間違いは「神は死んだ」と言っていることである。神は死んではいない! 彼は「神は死んだ」と言って非業の死に至った。彼の魂は浮かばれず今だにこの世を漂っているようだ。彼の間違いを正して、彼の復活を果たせば、彼はきっと浮かばれるに違いない。
 補筆で述べるように、 記憶とは、自分でいろんな人の話を聞いたり自分なりにいろいろ考えることもそうであるが、その他に体験による記憶がある。すなわち、記憶とは、体験のことである。 記憶や意識というもの、そして心というものは、物理現象以外の何ものでもない。ということは、体験というものがすべての始まりであるということだ。胎芽時代の体験、胎児時代の体験、幼児時代の体験、子供時代の体験、青年時代の体験、壮年時代の体験、老年時代の体験それぞれが大事である。それぞれの体験によって心というものが形成さて育っていく。はじめから心というものがある訳ではない。

 いろいろな体験のうち、「野生の感性」とか「野生の精神」というものとの関連からいえば、野性的な体験が非常に大事である。ニーチェのいう「力への意思」によって「高み」に近づくためには直観がはたらくようになるまで野性的な体験を積むことが必要だ。そのことは、量子脳力学を勉強し、「こころ」の物理的な実態をしっかり認識してはじめて明言できる。

私の電子書籍「書評<日本の文脈>」は、電子書籍ショップで購入していただけると誠にありがたいと存じます。
http://honto.jp/ebook/search.html?athid=1001816269

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