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2012年10月10日 (水)

私の電子書籍「祈りの科学シリーズ(8)」第6章より

第6章 地域の芸能

 この第4章で、『今後日本がビジター産業を育成していく上で「野生の精神」を身に付けた芸術家や芸能家の役割は大きい。』と述べたが、その真意は、一般の人々には見えない日本文化の心髄「違いを認める文化」など隠された日本文化の凄いところを見いだすためには、「野生の精神」を身に付けた芸術家や芸能家の役割は大きいというところにある。
 しかし、一方で、地域におけるアマチュアの芸術家や芸能者も観光客誘致には必要である。前章で述べたように芸術も大事だが、ここでは芸能に焦点を当てて話をしたい。「祈りの科学」シリーズ(4)の第9章で述べたが、梅棹忠雄のいうとおり、近代において、人々は、神々に遠慮することなしに、歌や踊りを楽しみはじめた。そして、私は、この「祈りの科学」シリーズ(8)の第1章で、次のように述べた。すなわち、
『「リズムの時代」,そういう時代に入ったと、私は思う次第である。「トイレの神様」は「リズムの時代」の幕開けを示すものではないか? 私はそう思えてならない。』
・・・と。

 私は、これからの地域づくりにおいて、観光客誘致のためのソフトな対策としては、地域の「リズム」というものが重要であると考えている。地域の「リズム」、それは、 地域のいたるところであるいは年がら年中「祈り」の声や「ことだま」が響いている、 かつ、その地域の伝統的な歌や踊りに加え、現在の歌舞音曲を創作する、或は世界からその地域との繋がり(縁)によって海外の歌舞音曲(古典芸能)を地域に導入する、そういうものをイメージしている。要するに観光客誘致に必要なのは「リズム」だ。

 それではまず「ことだま」について述べておこう。「ことだま」については、梅棹忠雄はその著「美意識と神さま」のなかで次のように述べている。すなわち、
『ヨーロッパ人が言語的心霊主義者であるとすれば、日本人は、言語的無神論者である。日本人にとっては、言語をどのようにもてあそんでも、たたりもなく、害もない存在である。俳句のような言語遊戯が、民衆の、もっともポピュラーなあそびとなるゆえんである。俳句は、とにかくにもひとつの詩であろうが、そこには、詩神のやどり場所もない。』
『「ことだまさきはう」古代から、言語喪失の現代までのあいだに、何が、どう変化したのであろうか。』
『「ことだま」のやどり場所としての言葉というのは、じつは音声言語のことではないだろうか。声が大事なのである。』
『「のりと」はすべて、よみあげなければならないし、場合によっては、大声をだすだけでもよい。』
『スコットもバイロンも、自作の詩を劇場のステージに立って、朗々と朗読したのである。その伝統は、いまなおヨーロッパ各地にいきている。』・・・と。

 「祈り科学」シリーズ(4)の第9章に紹介したが、古代人の住んでいた「場所」に野宿した主人公が、先人たちの供養祭(イチヤルパ)を行うとき、祝詞(のりと)の声が朗々と原始林の中に響き渡る場面が印象的である。私たちが何かに祈るときも、大きな声で唱えごとを発するが良い。
 宗教については、どの宗派が良いとか悪いとか軽々に言うことはできないが、私の「リズム論」からすれば、日蓮宗の「リズム性」は注目に値する。禅宗の托鉢僧は、4、5人が一定の距離をとった列を作り、口々に「おーー おーー」と唱えながら道を歩く。 私は京都育ちだからそういう姿を良く見かけたし、そういう托鉢僧が定期的に私の家にも寄ってごく粗末な昼ご飯を食べるのが習わしであった。しかし、それは修行僧に限ってのことで、一般信者にはそういう托鉢の行(ぎょう)はない。本堂で般若心経などのお経を唱えるだけだ。日蓮宗には特にお題目を唱える修行法として唱題行(しょうだいぎょう)というのが一般信者にもある。他宗では体験できない日蓮宗独自の修行法だ。太鼓の音に合わせ南無妙法蓮華経を大きな声で唱える。リズムにあふれている。私の家は禅宗であり、お墓は京都の妙心寺大心院というお寺にあるが、私は妙見信仰には大いなる関心があって、かって、勝海舟ゆかりの寺・本所の能勢妙見堂に、毎日曜日、欠かさずお題目を唱えに行っていたことがある。日曜日以外は家の近くの等々力不動や金剛寺で真言を唱えるのを日課にしていたが、多忙すぎて最近はそれも滞りがちである。ぼちぼち余裕を作って再開せねばなるまい。
 個人的なことはさておき、ここで大声で祈ることの重要性を強調しておきたいし、古代がそうであったように、和歌を大きな声で謡うことの重要性を指摘しておきたいのだ。是非、地域のおける「ことだま」を復活させよう。「リズム」は文化である。

 「ジオパーク」であろうがなかろうが、地域の「リズム」というものが重要である。地域の「リズム」、それは、 地域のいたるところであるいは年がら年中響びいている「祈り」の声や「ことだま」であるし、その地域の伝統的な歌や踊りである。創作された現在の歌舞音曲もそうだ。さらには、海外の歌舞音曲(古典芸能)も是非地域の「リズム」に加えて欲しい。観光客誘致のためには、そういった地域の「リズム」が大事である。

 それでは次に現在の歌舞音曲の創作について述べよう。
 言の葉(ことのは)という言葉は、古代語であり、単に言葉という意味で使われたり、和歌のことであったりした。私は、「ことだま」が「こと」であり、それには神が宿っているのだと考えている。「ことのは」が言葉という意味で使われるときは、「は」は端(はし)の意味であるから、神が宿っているようなことはない。しかし、「ことのは」が和歌を意味する場合は、「言霊」のことであり、神が宿っている。したがって、和歌は、声大きく謡って神と交信するのである。お題目を大きく唱えるときも神との交信があり、禅宗の修行僧が托鉢のとき「おーー おーー」と唱えるときも神との交信がある。ここでは、話の都合上、言の葉(ことのは)を狭義に解釈し、和歌のこととする。一応、以下においては、言の葉(ことのは)には神との交信があると考えて貰いたい。
 中村恵子さんは、言の葉をもじって「おとのは」というプロジェクトを考えておられるが、「おとのは」には神との交信があると感じておられるようだ。最近、志しのある女の子が増えている。彼女らには故郷や地域のためにお役に立ちたいという志があるらしい。中村恵子さんは、彼女らに歌と踊りを教えて、ふるさと親善大使に育てあげたい考えておられるようだ。歌と踊りによって地域の再生に寄与することができるかもしれない。彼女らは、「外なる神」に願いを込めて「祈り」を捧げる。ヨーロッパ伝統の朗々たる詩の朗読には神との響きあいがあるのと同じように、彼女らの歌と踊りには神との響きあいがある。歌舞音曲という言葉は古典芸能をいうが、もともと歌舞音曲には神との響きあいがあったのだ。彼女らの歌や踊りは現在の歌舞音曲である。

 次に海外の歌舞音曲(古典芸能)の導入について述べる。古典芸能が神との響き合いであることは世界共通であるようだ。日本で海外の古典芸能を演ずる場合、芸能者は自国の神と響きあっているかもしれない。しかし、歌舞音曲というものは「リズム」であるから、言葉と違って、異神に捧げる歌舞音曲であっても、多くの観光客の心にも響く筈である。異神とも響きあうことができる、それが「リズム」の良いところだ。これからは、国際交流が重要であるが、言葉より「リズム」が大事だだと思う。それもできるなら歌舞音曲が良いと私は考えている。

 以上縷々述べたが、これからの観光客誘致において、地域の伝統的な歌や踊りに加え、現在の歌舞音曲を創作し、或は世界からその地域との繋がり(縁)によって海外の歌舞音曲(古典芸能)を地域に導入する、そういうものを私が特に重視する所以である。地域にすばらし風土があっても、それだけでは多くの観光客がやってくるということはない。地域の芸能が必要である。「リズム」が必要なのである。

私の電子書籍「祈りの科学シリーズ(8)」は、電子書籍ショップで購入していただけると誠にありがたいのですが・・・。
http://honto.jp/ebook/pd-series_B-MBJ-27435-9-124989X.html

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