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2012年10月12日 (金)

私の電子書籍「女性礼賛」の「はじめに」

はじめに

 今回の大震災は津波被害はいうに及ばず福島電発の放射能汚染の被害も重なって,まさに未曾有の国難である。私は,戦後の国難よりはるかに困難な事態であると考えている。戦後の復興に当たっては,アメリカという国の指導があったし,また国が目指すべき方向もはっきりしていたのではなかったかと思う。しかし今回は違う。世界のどこにもないまったく新しい価値観で立ち向かわなければならないのである。パラダイムの転換が不可欠であると思う。
 パダイムシフト,そこにはもちろん哲学に裏打ちされた思想が必要だ。地域づくり,国づくりについても,今までにない方法で人々に希望と勇気を与えながら,国民みんなが力を合わせてこの国難に立ち向かうことが何より大事なことだ。私は今こそ,「平和な国づくり」に邁進することが肝要だと考えた。平和の哲学,今こそ実践すべき時だ。そう考えると,今までの哲学や思想では何かが欠けているのではないかと思わざるを得ない。私がつらつら考えるに、私の勉強不足でそう思うのではなく、そもそも今までの哲学や思想が平和の時代に合わないのである。その一つの重要な例として男女の問題がある。男女の問題というのは家族の問題でもある。民族間のあるいは国家間の争いが絶えない昔というか今まではそれで良かったのかもしれないが、これからは平和の時代である。否、そうでなければならないし、きっとそうなる。だとすれば、これからの哲学や思想は、「男尊女卑」ではなく、「女性礼賛」でなければならない。私はパラダイムシフトの根底にこの男女の問題があると考えており、この本を書くことに決めたのである。この本を書いた動機は、世に一石を投じ、平和の哲学や思想の再考を促すところにある。

 私たちは母親から生まれる。しかし、神話などでは必ずしもそうでない。日本神話では、イザナキ(男の神)が左の芽を洗うときに、天照大神(アマテラスオオミカミ)が生まれ、右の目を洗うときにツクヨミ、鼻を洗うときにスサノオが生まれる。男性から三貴子(三人の尊い神)が生まれているのである。旧約聖書では、原初のとき(この世が始まったとき)女性が男性の一部から創られたという話がある。ユダヤ・キリスト教の人たちは今でもそう信じているらしい。女性も男性から生まれる。何故そんなことが語られなければならなかったのか?
 原初のときはむしろ子供を生み出す「母」が一番大切なことは当然であり、人々の認識は尊い神と言えば、大母神(偉大なる女性の神)であった。それがいつのころか、ウソを語るようになった。いつのことからか「男尊女卑」の思想が広まったのである。何故か? 争いに勝つ力とか、自然の猛威に対処する力とか、何か一つのことに集中する力とか、男性特有の能力が社会的に重要になったからである。確かに、「テロや戦争」の時代は男性が重要視されて当然である。しかし、平和の時代はどうか? 平和の時代は女性が重要視されなければならない。私の問題提起はそういうことである。

金のトランペット吹き鳴らせ!

 私は、「祈りの科学」シリーズ(1)「100匹目の猿が100匹」の第7章で、量子脳力学の立場から「学習」について述べ、「体験」にも触れたが、「学習」や「教育」も「体験」に含めて考えるならば、人の人格とか能力というのは「体験」にもとづくところが大きい。「体験」には、胎児体験と幼児体験、そして少年時代、青年時代、壮年時代、老年時代の体験がある。胎児や幼児の体験は、母親に負うところが大きい。青年時代や壮年時代や老年時代は、母親や父親の影響のほか、社会的な影響が加わってくる。少年時代は、母親からの乳離れが済んでいないとどちらかと言えば母親の影響を強く受けるが、母親からの乳離れが済んでしまえば、どちらかと言えば父親の影響を強く受ける。もちろん友達や先生など社会的な影響も強く受けるだろう。ここで私が強調したいのは胎児体験や幼児体験である。子供の場合、この時期の体験がその後の体験に非常に強い影響を及ぼすからである。三つ子の魂百までなどと言い、幼児教育の重要性を昔から言い習わしてきているが、それと同じぐらい胎児体験がその後の体験に非常に強い影響を及ぼすのである。ひどい胎児体験をした子供は良い幼児体験をすることができない。その影響が老年時代まで残るのである。そういったことを量子脳力学の立場からいろいろ考えていくと、女性の役割というものはすこぶる大きい。

 私たちの生きる目的は何か? 私たちは生きるために生きているのだと思う。人間誰でも最後は死ぬので、死というものを大前提として私たちは生きているので、死ぬために生きているという言い方もできない訳ではないが、私は死が目的ではないと思う。時がくれば死ぬが、その死に方はどうでも良い。安らかに死んでも苦しんで死んでも、そんなことはどうでも良い。どうせ死ぬのだから・・・。死ぬまで生きているのであって、その生き方が問題なのだ。生き方というものは生きる目的がきちっと認識されていないと、生き方というものは定まらない。私たちは生きるということは何かをきっちり認識しておかなければならない。では生きるとは何か? 良い子供を作り、良い文化を作ることである。   

 なお、ちょっと横道にそれるかもしれないが、このことだけは言っておかねばなるまい。死に直面している場合、大事なことは死ぬまで生きているのであって、その間の生き方が問題である。子供の幸せを願い、家族の幸せを願い、人類の平和と発展を願い、ただひたすら祈ることである。「祈りの科学」シリーズで説明したように、「祈り」は必ず天にまします神(外なる神)に届く。

 さて、良い文化を作るということに関しては、もちろん男女の区別はない。女性でも曾野綾子や白州正子などのすばらしい人もおり、文化の作り手は男性の専売特許ではない。しかし、良い子供を作るという点に関しては、もちろん男性の役割もあるにはあるが、何と言っても女性の役割が大きい。

 このような観点からも、私は「女性礼賛」を唱えている。女性にその役割の大きさを十分認識してもらいたいからである。そして女性には将来の社会に大いなる希望を持ってもらいたい。



私の電子書籍「女性礼賛」は、電子書籍ショップで購入していただけると誠にありがたいと存じます。
http://honto.jp/ebook/search.html?athid=1001816269

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