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2012年9月17日 (月)

八ヶ岳とアースダイバー

八ヶ岳とアースダイバー

最近は、ネットのコンテンツも充実してきて、黒曜石についても北海道の遠軽町がとても良いホームページを作っているので、まずそれを観てもらいたい。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=uvbFLrMBAb0

遠軽
町では白滝を中心とした地域を世界の「ジオパーク」にしようと熱心に取り組んでおられ、このようなホームページもできているのだが、アムール川を通って北海道にやってきたバイカル湖あたりの人々が白滝の黒曜石を発見し、「湧別技法」という非常に高度な黒曜石の加工技術を生み出す。そして、その高度な技術は日本列島を席巻するのである。おおむね3万年前は氷河期の最氷期で間宮海峡のところでサハリンとシベリア大陸は陸地でつながっていた。これを陸橋という。海面が今より140メートルほど低かったのである。氷河期にはシベリア大陸の緑地はどんどん狭まって、マンモスは草地を求めて暖かい南の方に移動を開始する。アムール川に氷が張ったとき、それは格好のマンモスの通り道になった。そのマンモスを追って人々も北海道にやってくる。いわゆるマンモスハンターである。バイカル湖の近くに「マリタ遺跡」があるが、その遺跡調査により、マンモスを倒すのに細石刃が既に使われていたことが判明している。
ここで細石刃の使い方を説明しておこう。細石刃とは、もう少し大きいものもあるし小さいものもあるが、ここでは一応、幅5mm、長さ2cmほどの黒曜石の小さな刃であると考えておいてほしい。これを木製の槍の先に、例えばの話であるが、四方向に十文字にはめ込む。一方向に三ないし四個の細石刃をはめ込めば良い。槍の先に12個ないし16個の細石刃がはめ込まれていることになる。いろんなケースがあったと思われるので、これは単なるイメージであるが、そんなイメージが湧きましたでしょうか。その槍をマンモスに突き刺す。細石刃がはめ込まれているので、槍はマンモスの身体の中にずぼずぼっと入っていく。その槍を引き抜いた時、細石刃はマンモスの身体の中に残こり、出血せざるを得ない。その程度でマンモスが直ちに倒れるということはないが、出血しながら逃げるマンモスを氷の上に垂れた血をたよりに、時間をかけてゆっくり追っていけば、やがて倒れているマンモスにたどり着くだろう。こうしてマリタ人たちはマンモスを倒していたのである。マンモスを一頭倒せば、家族全体の一年間の食料になったと言われている。氷河期だから肉は腐りませんからね。
さて、バイカル湖辺りの人々がアムール川を通って、白滝にやってき手、湧別技法を生み出したのはいつの頃か正確には判っていないが、ここでは便宜上、おおむね1万年前頃と考えておこう。また、バイカル湖辺りからアムール川を通って白滝にやってきた人々を、ここでは便宜上、「湧別技法集団」と呼ぶことにする。「湧別技法集団」は、1万年前頃、津軽海峡をわたって日本列島を南下し始める。その集団は、鳥取県の人形峠付近にある恩原遺跡まで遊動していくが、湧別技法そのものは九州まで影響を与えるようである。なお、日本列島を席巻する湧別技法というのは、白滝型、札骨(さつこつ)型、峠下(と

うげした)型、蘭越(らんこし)型、忍路子(おしょろこ)型、幌加(ほろか)型、射的山型、紅葉山型などいろいろなタイプがあり、「湧別技法集団」は、必ずしも白滝、すなわち湧別川流域の人々とは限らないので、ここでは北海道の人々と考えてもらっても良いし、アイヌの先祖と考えてもらっても良い。
私は以前に、「湧別技法のひろがり」と題したホームページを書いたことがあるので、湧別技法が日本列島を席巻する様子については、是非、それを見てもらいたい。ここではそれを前提として、「八ヶ岳とアースダイバー」の話を進めて参りたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hirogari.html


しかし、その前に、日本列島に人々が住み始めた頃の様子がどのようなものであったのか、旧石器時代は4〜5万年前頃の代表的な遺跡を説明した私のホームページを紹介しておきたい。それらの人々は黒潮に乗って日本列島にやってきた、いわゆる南回りのモンゴリアンの子孫である。その後対馬海峡と間宮海峡が陸橋であった頃、北回りのモンゴリアンが多数やってくる。現在の日本人はその混血であるが、特に私は「湧別技法集団」に注目しており、現在の日本の技術の源泉はそこにあると考えている。「湧別技法集団」を語らずして、日本の技術の世界に冠たる所以を語ることはできない。それほど「湧別技法集団」の存在は大きかったのであるが、後ほど述べるように、相異なる文化がぶつかり合って、あのすばらしい御子柴型石器が誕生するのである。

最初の日本人が八ヶ岳山麓にやってきた。おおよそ5万年前頃から4万年前にかけてのことである。もちろん他の地方の文化の影響もあって、八ヶ岳山麓独特の文化が出来上がる。また、野尻湖湖畔の人々の交流が契機となって、飯綱高原においてこれまた一種独特の文化を作り上げる。飯綱権現のことである。ではこれから「最初の日本人のひろがり」ということで、空間的なひろがりと時間的なひろがりをお話ししたいと思う。私の次のホームページをご覧戴きたい。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/usoinada.pdf

「八ヶ岳とアースダイバー」を語る前に、さらにもう一つ、旧石器時代と縄文時代の石刃文化について、日本列島の様子を外観しておきたい。
後期旧石器時代の日本列島は、大雑把にいって、二つの文化圏に分かれていた。一つは本州、四国、九州のナイフ形石刃を中心とした石刃文化であり、二つは北海道の細石刃文化である。北海道では、部分的な影響は見られるものの、基本的にはナイフ形石器文化が発達しない。そのかわり細石刃文化の出現が本州、四国、九州よりずっと早い。本州、四
国、九州の石刃文化は、3万5000年前頃からおおむね縄文時代に入る頃まで続くが、北海道の細石刃文化の影響を受けて、大変容を遂げるのである。この二大文化のぶつかり合いというか、融合によって、日本列島は世界に冠たる縄文文化の時代に突入すると考えてよい。石人技法とは、細長くて薄い規格的な石刃を多量に作り出す技法で、長さが幅の二倍以上になる剥片と定義されている。したがって、広義には細石刃も石刃ではあるが、特に高度な技術であるので、狭義には石刃と呼ばないで細石刃と呼んでいるようである。
本州、四国、九州の石刃文化は、朝鮮半島から九州を経て全国に広がっていったと考えられており、したがって、東北地方に石刃文化が伝わったのは3万5000年前より相当遅れた時期との印象を受けられる人が多いと思うが、私の考えでは、最初の日本人が黒潮に乗ってスンダーランドから日本列島に到達してから後に、船で東北地方にやってきたのは、おおよそ4万年前頃と考えられるので、東北地方の石刃文化を考える場合、このことを考慮に入れなければならないと思う。もし、波状的に「海の民」の到来があったとすれば、石刃文化の到来も案外早かったのかもしれない。珪質頁岩の産する東北地方では、関東・中部以西とは異なり、特徴的な石刃が発達したといわれている。 東北の石刃文化については、今後、私は、もっと勉強をしなければならないと思っている。
なお、本州、四国、九州の細石刃文化は、約1万4000年前に円錐形・角柱形細石核(野岳・休場型細石核とも呼ばれる)をもって始まる。と同時に、ナイフ形石刃は姿を消す。このあと、北海道から「湧別技法」が津軽海峡を超えて入ってくるので、東北地方の細石刃文化は、西日本の細石刃文化から北海道の細石刃文化に取って代わられることになる。したがって、そののち、縄文時代は、関東・中部地方を境にして、南西日本細石刃文化と北東細石刃文化が対峙することになるのである。

では、以上で一応の準備ができたので、いよいよ「八ヶ岳とアースダイバー」の話に入っていきたいと思う。これがこの小論文での主題である。

旧石器時代の湧別技法という最先端技術が北海道からこの日本列島をどのように南下していった か。下北半島から、鹿角、角館、大曲、横手、湯沢、新庄、山形、米沢、会津に行く場合、うまく山脈を避けながら、野山を比較的容易に歩くことができる。会 津からが大変なのだ。私がいろいろなところでたびたび申し上げているように、集落のまだ発達していない旧石器時代は、河川のほとりに船があるわけではないので、大河川はその上流でし か渡れない。これは旧石器時代の人びとの往来を考える際の基本であって、すこぶる大事な点である。湧別技法集団が日本列島を南下するには、会津から越後に出るのがもっとも良い。そして、千曲川の右岸を遡(さかのぼ)り、八ヶ岳は野辺山に向 かうのである。その難所が只見川の源流ということになる。したがって、会津は北の文化の集中するところとならざるを得ない。私は、会津は旧石器時代から東北でもっとも進んだ地域であったと思う。阿賀野川
の右岸の河岸段丘にある塩坪遺跡と笹原山遺跡は福島県を代表する旧石器時代の遺跡であり、今から15,000~14,000年前のものと考えられている。笹原山遺跡は、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、奈良時代、平安時代のものが重層的に出土している全国的にも数少ない複合遺跡 である。

そして、特に注目すべきは、只見川の流域は縄文文化のメッカであるということだ。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/aitenkai.html


会津は、このように 旧石器時代から東北でもっとも進んだ地域であり、ここを中心として北の文化が日本各地に拡散していったし、稲作文化もここを中心として東北各地に拡散していった。会津は日本文化にとってかけがいのない地域である。その会津から越後、すなわち阿賀野川流域から信濃川流域にどのように抜けていくのか、それが問題である。千曲川を含めて信濃川は右岸を行く。すなわち、会津から信濃川の左岸には行けない。信濃川が渡れないのだ。したがって、会津から信濃川流域には、ともかく魚津川流域にでて、魚津川の上流で左岸に渡り、魚津川と信濃川の合流点・荒屋遺跡のある越後川口に出て、旧石器時代から縄文時代のひとつの拠点であった津南町に行く。津南町から菅平を通って上田に出れば、そこはもう浅間山山麓であり、佐久は近い。八ヶ岳は目の前であるが、それを渡ることはできないので、八ヶ岳山麓に行くには、千曲川の右岸をともかく川上村まで行くのである。川上村は、知る人ぞ知る、旧石器時代と縄文時代の遺跡の宝庫である。川上村と野辺山は隣接しており指呼の距離にあるが、野辺山はもう八ヶ岳山麓である。

さあ、ここで、富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏の話に移ろう。富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏については、かって私の書いたホームページがあるのでまずそれをご覧戴きたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/wa/enayana.html


要点を言うと、富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏とは、諏訪湖を含む八ヶ岳山麓の南側を中心として、東側は甲府から武蔵野台地と相模原台地を含む地域である。西側は問題の神子柴遺跡を含む。この文化圏は今の東京を含む一大文化圏をなしていたのである。

シリーズ「遺跡に学ぶ」(新泉社)No25の「石槍革命・・・八風山遺跡群」(2006年3月、須藤隆司)という名著がある。そこには湧別技法の広がりを示した図が示されて



おり、その図から、湧別技法集団と在地の石槍製作集団との接触が読み取れるのである。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hirogari.html


すなわち、その図を見てまず思うのは、富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏に は湧別技法集団が来ていないということである。しかし、誤解のないようにに言っておきたいのだが、武蔵野台地や相模野台地の多くの遺跡に見られる ように、湧別技法によって作られた細石刃はもちろん富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏でも一般的に使われている。湧別技法集団は来なかったかも知れない が、湧別技法自体は伝播しているのである。すなわち、私は、野辺山はまさに富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏と湧別技法集団の遊動域の接点であり、そのことを強調したい。



野辺山はまさに異文化がぶつかり合ったところである。私のいう「アシンメトリー史観」に よればそういうところ文化なり文明が飛躍的に発展するのである。湧別技法集団と在地の石槍製作集団との接触によって、旧石器時代における世界最高の芸術品と言えそうなあの神子柴型石器が作られるのである。神子柴型石器の素晴らしさとその謎については、私がかって書いた一連のホームページがあるので、それをご覧戴くとありがたい。少々長くなるが、是非、ご覧ください。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/mikosi01.html

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/mikosi02.html

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/mikosi03.html

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/mikosi04.html

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/mikosi05.html

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/mikosi06.html

野辺山に「湧別技法集団」がやってきて、在地の旧石器文化とぶつかり合い、 旧石器時代における世界最高の芸術品と言えそうなあの神子柴型石器が作られる。実は、「湧別技法集団」は、荒屋遺跡を残した別の集団とつかず離れずの関係を保ちながら、常に一緒に遊動してと言われている。これはほぼ定説になっていて私は事実そうであったと考えている。彼らも、多分、アムール川からやってきた北回りのモンゴリアンであって、「湧別技

法集団」とは親戚のような人たちであったのではないか。言葉から何から何まで似ていたのではないかと思われる。ただ違うのは、彼らは黒曜石ではなく他の石材を加工する石刃技術を身につけ、両者の技術は互いに補完しあっていた。だから、常に一緒に行動したであろう。二系統の北回りのモンゴリアンが野辺山にやってきた。そして、 旧石器時代における世界最高の芸術品と言えそうなあの神子柴型石器を作るハイテクを開発したのである。そこで、私は、これら野辺山で発展した新たな技術集団を、ここでは、「新石器ハイテク技術集団」と呼ぶこととしたい。問題は、この 「新石器ハイテク技術集団」が何のためにあのような素晴らしい神子柴型石器を作ったのか、ということである。実は、神子柴型石器は菅平の「唐沢B遺跡」からも出土している。そこで、神子柴と菅平の共通点を考えてみなければならない。豊の水に恵まれているということもあるが、そういう場所は他にも沢山あるので、何故神子柴と菅平に神子柴型石器が出土するのか? 二つの場所とも交通の要衝であったということなのである。神子柴が中部地方から西日本に行くまさに交通の要衝で、そのことについては先に紹介した神子柴遺跡に関する一連のホームページに書いたので、是非、それをご覧戴きたい。ただひと言補足しておくと、木曽三川以東の濃尾平野、つまり今の名古屋には、飯田から設楽をへて豊橋に出て西に向かうのである。この点だけ申し上げて、ここでは菅平が何故交通の要衝なのかを考えてみたい。もちろん古代、それも旧石器時代の「道」を考えてみよう。上述したように、 集落のまだ発達していない旧石器時代は、河川のほとりに船があるわけではないので、大河川はその上流でし か渡れない。それを大前提に旧石器時代の「道」を考えねばならない。

そのために、まずは、「唐沢B遺跡」と菅平を紹介しておきたい。私の一連のホームページがあるので、それをご覧戴きたい。
www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/karaiwa.pdf

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/karaB.html

www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sugamizu.pdf

これらのホームページを見てある程度は菅平が歴史的に相当古いところだということはご理解いただけたかと思うが、石器時代における交通の要所であったということをさらに説明しておきたい。

日本の石器時代の考古学は赤城山麓の「岩宿」から始まる。1949年(昭和24年)以前、日本における人類の歴史は縄文時代からとされており、旧石器時代の存在は否定されていた。特に火山灰が堆積した関東ローム層の年代は激しい噴火のため人間が生活できる自然環境ではなかったと考えられており直良信夫などによる旧石器の発見が報告されることはあったが、激しい批判にさらされていた。

そうした時代背景の中で、1946年(昭和21年)、相沢忠洋は、岩宿の切り通し関東ローム層露頭断面から、石器(細石器)に酷似した石片を発見した。ただし旧石器と断定するまでには至らず、確実な旧石器を採取するため、相沢忠洋は岩宿での発掘を独自に続けていった。

1949年(昭和24年)夏、相沢忠洋は岩宿の関東ローム層中から明らかに人為と認められる槍先形石器を発見した。この石器を相沢から見せられた明治大学院生芹沢長介(当時)は、同大学助教授杉原荘介(当時)に連絡した。これを受けて同年秋、明治大学が岩宿遺跡の本格的な発掘を実施し、その結果、旧石器の存在が確認され、日本における旧石器時代の存在が証明されることとなった。

しかし、当時この重大な発見について、学界や報道では相沢の存在はほとんど無視された。明治大学編纂の発掘報告書でも、相沢の功績はいっさい無視さ れ、単なる調査の斡

旋者として扱い、代わりに旧石器時代の発見は、すべて発掘調査を主導した杉原荘介の功績として発表した。さらには、相沢忠洋に対して学界の 一部や地元住民から売名・詐欺師など、事実に反する誹謗・中傷が加えられた。この頃の郷土史界は地元の富裕層(大地主、大商人などいわゆる旦那衆)や知識層(教員、医師、役人などいわゆる先生方)などで構成されており、岩宿遺跡の存在する北関東も例外ではなかった。このため、これといった財産も学歴も有しない相沢忠洋の功績をねたみ、「行商人風情が」などと蔑視し、彼の功績を否定する向きもあったという。

だが、相沢忠洋の考古学への情熱は冷める事はなく、地道な研究活動を続け、数多くの旧石器遺跡を発見した。次第に相沢忠洋への不当な批判は消えていき、日本の旧石器時代の存在を発見した考古学者として正当な評価がようやくなされ、1967年(昭和42年)には吉川英治賞を受賞した。晩年は、最古の旧石器を求めて夏井戸遺跡の発掘に精魂を傾けた。
相澤忠洋のことについては、赤城山麓に記念館ができているので、機会があれば是非お出かけ下さい。
http://www15.plala.or.jp/Aizawa-Tadahiro/index.html

さて、道の話に戻るが、八ヶ岳山麓から関東地方に行く道は、旧石器時代には大きく四つの道がある。ひとつは、富士川の左岸を下って甲府に出て、相模川の左岸を八王子に抜ける道、二つ目は川上村から秩父に抜けたのち、山越えをして、荒川の右岸・比企郡に出る道と、荒川の左岸・寄居から行田市方面に出る道とがある。比企郡は頼朝の時代、絶大な権力を持つ引き一族の本貫地であり、行田市地域はかの有名な金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)が出土した古墳のメッカである。そして三つ目が、菅平から吾妻川の左岸を
下って、利根川の上流部を渡り、赤城山麓は岩宿遺跡の当たりに出る道である。そこから利根川と渡良瀬川に挟まれた地域に出ることができる。この地域はやがて坂東武士発祥の地・新田の庄となる。さらに、渡良瀬川の上流部を渡って、多分中禅寺湖の当たりを通って、日光に出ることができる。日光は、会津地方の玄関口であり黒曜石の山・高原山のある旧石器時代の拠点であるが、同時に、鬼怒川の右岸を下って房総半島の南端まで問題なく行くことができる。房総半島はやがて千葉一族の活躍する地域となる。鬼怒川の左岸を下れば、足利をへて茨城県に行くことができる。足利は、後年、言わずと知れた坂東武士の筆頭・足利一族を生み出す。このように日光は旧石器時代における関東の一大拠点であった。その日光と菅平は太い線で繋がっていたのである。なお、川の左右岸というのは、川の上流から下流を見てのことであるので、念のため申し上げておく。そして、四つ目の道が神子柴から権兵衛峠を超えて御岳山麓を経て長良川の右岸を下り、そして伊吹山山麓から西日本に向かう道である。なお、御岳山麓に出ないで木曽川の左岸を下っていけば岐阜にである。

さて、いよいよ本論の主題である「神子柴型石器」の性格について話をする段階となった。旧石器時代における世界最高の芸術作品と言えそうな、あの素晴らしい石器が何故神子柴と菅平にあったのか? 川上村と甲府は、八ヶ岳山麓の隣接地である。旧石器の古い時代から交流があったと思われるし、また、天竜川の下流・豊橋と浜松の人びととも。旧石器の古い時代から交流があったと思われる。したがって、西日本や関東地方を考えたとき、交通の要所としてきわめて大事なのは、神子柴と菅平である。神子柴と菅平は遠隔地にあり、野辺山の「新石器ハイテク技術集団」の長旅はそこから始まるのである。逆に、西日本と関東地方からはるばると長旅を続けて八ヶ岳山麓の一大文化圏にやってきた人びとは、神子柴や菅平にたどり着いてほっとしたことであろう。「新石器ハイテク技術集団」を中心とする八ヶ岳山麓文化圏の人びとはそれらの人びとを歓迎する「祭り」を行ったに違いない。「新石器ハイテク技術集団」を中心とする八ヶ岳山麓文化圏の人びとが出発するときもそうである。長旅の無事を祈って華やかな「祭り」を催したに違いない。私は、神子柴型石器は自分たちが行う重要な祭りの神具であったと思う。

安斎正人は、その著「旧石器社会の構造変化」(2003年10月、同成社)で、御子柴遺跡とその石器群についての林茂樹の所見を紹介している。林茂樹は、神子柴遺跡とその石器群の発見者である。彼は、「石器群の出土状況については墳墓説,祭祀説,デポ説などが提出されているが,現状では,これを決定づける根拠を見出すことはできない」と公式発表していたが、安斎正人によれば、林茂樹自身としては、「泉の上で大猟を祝う祭りが盛大に開かれた。彼らは石器を種類別にまとめて、槍は穂先をそろえて、石刃や石の中に獲物を積み重ねて祝いの歌と踊りが繰り広げられる」、そのような光景を想像していた

らしい、と述べている。確かに、神子柴型石器の性格については、まだ定説がないが、私は、林茂樹が直感的に感じていたように、神子柴型石器は大事な「祭り」の神具であったと考える。すなわち、これは同じ文化圏に属する人たちの「威信財」であったの考えるのである。黒曜石そのものは「回帰的威信財」であったが、この神子柴型石器だけは、野辺山の「新石器ハイテク技術集団」だけしか作れない特別の威信財であって、回帰的な機能はない。その特別の威信財を神具として、華やかな「祭り」を催して自分らの文化圏の人びとを鼓舞し、また他の文化圏の人びとの贈与的な接待を催したのではなかろうか。

以上、神子柴型石器は贈与財としての「威信財」であった、というのが私の結論である。

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