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2012年9月29日 (土)

山本玄峰と四元義隆

電子書籍・祈りの科学シリーズ(7)
http://honto.jp/ebook/pd_25231960.html


第六章 「野生の思考」と政治・・・「外なる神」の作用

 国の権力、国権は行政、司法、立法に分かれているが、立法府には、行政の長である総理大臣の罷免権もあり、司法の長である最高裁判長の弾劾裁判権もあるので、国権の最高機関は立法府である国会である。したがって、国会議員の責任は実に大きく、国会議員の総意で国家の姿が決定される。国論がまっぷたつに分かれている時、その行く末を決定するのは国会議員の総意である。「万機公論に決せよ!」というが、公論、すなわち国論も大事だが、最終的に決定するのは国会議員の総意である。今、国論がまっぷたつに分かれている問題というのは、軍備問題と原子力発電の問題であろう。
 今特に国会の大問題として浮上してきていない軍備問題を何故真っ先に取り上げるかというと、中国の急速な軍備拡張に対応し、日本も今後それなりの軍備拡張が必要であるし、日本は憲法第九条第二項を改正して、自衛隊を軍法会議が行えるような正常な軍隊に作り替える必要があると考えるからである。なお念のために言っておくと、私は、憲法九条第一項は改正する必要はなく、その意味で平和憲法は堅持すべきと考えている。また、軍備拡張は必要だが、それは日米同盟を基軸としてアメリカの核の傘の下に考えるべきで、日本が独自に核兵器を持つようなことがあってはならないと考えている。その点もはっきり申し上げておかねばならない。
 さて、TPPの問題や沖縄問題では、アメリカの意向を気にする議論が多く、日本独自の主張がほとんど見られないが、日米同盟の正常な姿が見えなくなっている。私は親米派であり、日米同盟はさらに進化させなければならないという立場であるが、日本の軍備について国論がまっぷたつに分かれており、ややもするとアメリカ従属を前提とした議論が横行している。日本が正常な国になるには、軍備について国論の統一がまず必要である。軍備問題は、そもそも「戦争」というものの認識次第で考え方が違って来る。そこでまず、「戦争」というものの認識はどうあるべきなのか、「戦争」というものの認識について述べてみたい。

 「戦争」というものをどう認識するか。そのことに関連して、ここで、山本玄峰の血盟団事件の被告の特別弁護、その陳述を紹介しておきたい。涙なくして聞けないもの凄い内容である。山本玄峰は白隠禅師の再来といわれた名僧で、第二次大戦の終結を天皇に進言し,さらに玉音放送(敗戦の詔勅)の有名な一節「忍び難きをよく忍び、行じ難きをよく行じて・・・」を進言したと言われている。山本玄峰の陳述内容は以下の通りである。

 玄峰はまず、大声でこう断(ことわ)った。
 
「第一、井上昭(日召)は、長年、精神修養をしているが、その中でもっとも宗教中の本体とする自己本来の面目、本心自在、すなわち仏教でいう大圓鏡智を端的に悟道している」と。
 次に玄峰は、「人、乾(けん)、坤(こん)――宇宙の本体のあらわれが我が国体である」と、指摘し、「仏教信者がなぜかかることをなしたか? 仏は和合を旨とし、四恩を基としている。百三十六の地獄があるが、悪をもってすれば蟻一匹殺しても地獄行きとなる。和合を破り、国家国体に害を及ぼすものは、たとえ善人といわれるとも、殺しても罪はない、と仏は言う。仏の中で、阿弥陀如来のほかに一つとして剣を持たぬものはない。道ばたの地蔵菩薩でさえ、小便をかけられても、黙々としてこれを受けているが、やはり手には槍を持っている」「法は大海の如く、ようやく入ればいよいよ深い。日召が真の仕事をするのはこれからと思う。万一死刑となって死し、虚空は尽きても、その願は尽きぬ。日本全体、有色人を生かすも殺すも日本精神ひとつである。これを知らぬ者は一人もないはずだ」
そして最後に、「胸に迫ってこれ以上申し上げられぬが、鏡と鏡、仏と仏との心にかえって、なにとぞお裁き願います」と言って合掌した。


 山本玄峰の特別弁護の陳述内容は以上の通りである。ここで注目して欲しいのは、「 仏の中で、阿弥陀如来のほかに一つとして剣を持たぬものはない」ということである。仏の心境に達した井上日召のような人物でないと暗殺なんてものはやってはならないということは当然だとしても、山本玄峰が井上日召ような人物なら暗殺をやっていいと考えていたのかどうか、それは陳述内容を注意深く読んでもはっきりはしない。しかし、私は結盟団事件の被告でありその後山本玄峰の直弟子となった四元義隆(よつもとよしたか)さんから「暗殺なんてものはやってはならない」ということをはっきりと聞いた。四元義隆さんのことは第2章第2節で書いた。今西錦司とは肝胆相照らす仲だったのである。四元義隆さんは私を今西錦司の系譜に連なる者と見ておられて,たびたび酒の席に呼んでいただいた。松尾稔君が今西錦司の直伝弟子であるので同席することが多かった。四元義隆さんは私らに暗殺はイカンと仰ってた。このことは皆さんに是非お伝えしなければならないだろう。四元義隆さんの言葉の意味は実に重い。

 私も暗殺はイカンと思う。第2章第3節に述べたように、私たちの生きる目的は、「生きるために生きている」ところにある。死んではならぬ。相手に襲われ死の危険があるときは、なんとしてでも相手を殺さなければならない。しかし、 どんな純粋な気持ちからであろうと主義主張で暗殺をしてはならない 。五・一五事件の決行者(海軍の士官たち)の法廷陳述が始まるや、彼らの純粋な気持ちに国民の多くが感動。彼らは英雄視されていく。そしてそういう雰囲気の中で、民主主義は崩壊し、国は次第に軍国主義に傾いていくのである。二・二六事件はそれを決定的なものにした。軍の幹部は軍の論理を通すため天皇を利用するまでに腐敗していたのであって、事件を決行した陸軍士官の連中の純粋な気持ちなどが通る状況ではなかったのである。事件を決行した陸軍士官の連中は甘かったというか間違っていたのである。どんな純粋な気持ちからであろうと、やはり主義主張で暗殺をしてはならないのである 。 むやみやたらに人を殺してはならない。それが今西錦司がいうプロトアイデンティティであり、種の保存の原理であると思う。平和の原理であると思う。日本文化の心髄「違いを認める文化」を生きることだと思う。インディアンの崇高な哲学もそうだ。

 三・一五も二・二六も井上日召の血盟団事件に端を発しているので、井上日召の話に戻る。以上縷々述べてきたように、暗殺は絶対に避けるべきなのである。だとすれば、井上日召のどこが間違っていたのか。暗殺という武力行使を避けるべきだとしたら、井上日召のできることは、「外なる神」に助けを求めることとその「祈り」の仲間を増やすことぐらいしかない。

 戦争も殺人も自己防衛の場合は特に問題はない。山本玄峰が言うように「 仏の中で、阿弥陀如来のほかに一つとして剣を持たぬものはない」のであるから、国家の場合も軍備を持たねばならない。国家は、どのような国から戦争を仕掛けられても、それに対抗できるよう、充分な軍備を持たなければならない。問題はこちらから仕掛ける場合である。戦争と暗殺は、こちらの意志で武力を行使すると点では哲学的に同じである。戦争が勃発しようという場合、外交でこれを食い止めることは容易ではない。しかし、こちらから仕掛けてはならない。それが憲法第九条第一項の趣旨である。したがって、戦争を回避するための外交を全力を挙げてやらねばならないが、そのほか、井上日召の場合と同様に、偉大な僧が「外なる神」に助けを求めることが肝要である。国家存亡の危機にある時は、やはり国家安泰を願っての大法要が必要である。それは各宗派ごとに多ければ多いほど良い。「祈り」の仲間を増やし、相手国に「100匹目の猿現象が起れば、おおいに外交のバックアップになるだろう。


 では、次に脱原発問題に移ろう。私は,この度の東日本大震災によって,日本は未曾有の国難に直面していると思う。この歴史上最大の危機を乗り越えるには,何よりもパラダイムの転換が必要である。従前の価値観では,この国難を乗り越えることはむつかしい。パラダイムシフトには、いろいろなむつかしい課題があるが,その最大の課題は「原子力発電」からの脱却であろう。原子力発電については,現在,反対派と推進派に別れているが,これからもそう簡単に世論がまとまるとは思えない。そこで,政治哲学としてまず問題になるのが,「正義論」をもとに、脱電発を主張できるかという問題だが、今の政治哲学では「正義論」では原子力発電をなくすことはできないと思う。ではどうするか?

 活動家の原発反対運動は大いにやって欲しいし、ソーシャルネットワークを通じて 活動家でない人たちの声も大いにあげて欲しい。しかし,それだけでは戦争や原子爆弾や原子力発電をなくすことはできないと思う。やはり、多くの政治家の気持ちが脱電発に傾いていくためには、もっと大きな力が必要ではないか。幸い中沢新一の哲学が誕生したので、これを中心に多くの識者にはどんどん意見を言って欲しい。また、山本玄峰や井上日召のような偉大な僧は今も少なくないと思うので、そういう偉大な僧には、脱原発問題に対して積極的に意見を言って欲しいし、「外なる神」に大いなる「祈り」を捧げて欲しい。また、私たち一般庶民も、楽しげな太陽の祭りをやりながら、太陽の恵みに感謝する一方で、人工の太陽を生んだことの反省を唱えることも大事である。私たちは太陽の子供である。子供が親を産むなんてことはおかしいではないか。太陽の祭りにおける「祈り」の声を「外なる神」はきっと聞いていてくれる。
 反対運動だけでなく、ソーシャルネットワークと中沢哲学及び偉大な僧の声、並びに太陽の祭りなどが相まって、大いなる協和(響きあい)が起り、多くの政治家の気持ちが脱電発に傾いてくるものと私はかたく信ずる。


 私は冒頭で、「 軍備拡張は必要だが、それは日米同盟を基軸としてアメリカの核の傘の下に考えるべきで、日本が独自に核兵器を持つようなことがあってはならないと考えている。 」と申し上げたので、最後に原爆の話をしておきたい。 サンデルはその「正義論」でアメリカの原爆投下の正当性を語ったことがないが、サンデルは、多分、アメリカが行った広島や長崎の原爆投下もやむ得なかったと考えているのだと思う。今の「正義論」では、通常兵器ならいいが原爆はダメだという論理展開はできない。通常兵器による「戦争」を肯定し、原爆による「戦争」を否定するには別の哲学が必要である。別の哲学、それは、「日本の大転換」という中沢新一の哲学を端緒として、今後、世界の多くの哲学者によって語られていくのではないか。

第2章第3節でも述べたが、今西錦司はまさに「野生の精神」を身に付けた巨人であるが、ロールズやサンデルの政治哲学は、「野生の思考」というものがほとんど判っていないようである。やはりこれからの政治哲学には「野生の思考」が必要で、中沢新一の「野生の科学研究所」誕生の意義は極めて大きい。「野生の科学」がこれから世界の政治哲学者に大きな影響を与えることを切に期待する次第である。

http://sauvage.jp/

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