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2012年8月 5日 (日)

野生の科学

中沢新一の最新作「野生の科学」(2012年8月、講談社)は画期的な本である。この本の帯には、「諸科学を統一する深層の言論(エレメント)を求めて」、「とうとう探し出したぞ。何を? 未来を開く鍵を!」、「野生の科学が世界を変える!」と書いてあって、中沢新一にこの本に寄せる自信というものがなみなみならぬものであることがわかる。彼は、本の中で次のように述べている。すなわち、

『「野生の思考」の世界は、たしかに「不思議な環」に満ちあふれている。「野生の思考」は「飼いならされた思考」とは違って、外に向かって閉じられた均質空間の中では活動できない。異質なレベルに属する多様な物事を差別することなく巻込んで、それらを全体性の中で思考するのである。そのためそこでは種々雑多な「不思議な環」の構造が、論理や音楽や造形や身体の運動を通して、活動を行う。
物質と生命のプライマルな過程に触れながら、それを抑圧してしまわない思考や表現は、このようにすべて自分の内部に「不思議な環」の構造を含むのである。したがってそれを人間の心の「唯物論的基底」と呼ぶことができる。どんな思想もこの環の構造を自分の重要な部分に組み込んでいないかぎり、唯物論的であるとは呼ぶことはできない。この観点に立つとき、これまで存在した唯物論のほとんどが、本物の唯物論のレプリカにすぎなかったことになる。科学を野生化する必要は、じつはここから生まれているのである。』

『私たちは現代の科学に「不思議な環」を組み込むことによって、経済学の例に典型的に現れているような、人間科学の危機に立ち向かおうと考える。20世紀の後半に出現した「構造主義」がはじめて組織的に、人間の科学に「不思議な環」を取り込む試みを行った。しかしその当時、人文科学者の利用できた数学には大きな限界があったために、その試みは必ずしも目的地にたどり着くことができなかった。
私たちは構造主義の試みを継承する。そして現代の人間の危機に真に立ち向かうことのできる「新構造主義」の創造を目指そうと思う。構造主義は人間中心主義からの脱却を語り続けた。私たちの新構造主義も、この世界が人間だけのものではなく、「不思議な環」によって結ばれた動物や植物や鉱物や大気とともにあり、それら人間以外の諸存在も、等しく地球上に生きる主権者(コモンズ)であることを語りつづけるであろう。』・・・と。

さあここで「不思議な環」という数学上での概念について説明をしたいと思うが、その前に「層」という概念について説明しなければなるまい。中沢新一は、「野生の科学」(2012年8月、講談社)の中で次のように説明している。すなわち、

『ヨーロッパ人の発達させてきた数学は、自然過程を超越した真理として自分を示すことを求めるあまり、矛盾を含まない整合的な体系の構築を目指してきました。その結果、岡潔の言い方では、「情緒を失う」はめになったのでした。岡潔はそこで、自然過程を自分の内部に組み込んで自らが「不思議な環」としてできているような文化をつくっていた日本人の能力を最大限に発揮することによって、「不思議な環」そのものであるような新しい数の概念を、「不定域イデアル」のちの「層」として創造してみせたのでした。
「層」には、数と言語を貫いて働いている喩(ゆ)的な作用が生き生きと動いています。喩(ゆ)は二つの対象の間に感じ取られる「似ているところ」と「それぞれ独自なところ」を、同時にとらえることを可能にするメカニズムです。「似ているところ」は認識の背景に沈むので、いわば地の部分にあたります。これに対して「それぞれ独自なところ」は図にあたり、喩(ゆ)は二つの図にあたる部分を、地を介して繋いでいることになります。「層」の考えでは、数というものも、その自然な姿では(ということは、言語と一体になって人類の心=脳のプライマルな土台において現れている限りでは)、喩(ゆ)的な働きを通して働きをおこなうととらえるのです。』・・・と。

お判りになりましたか? 私などはこの説明を読んでも「層」という概念を理解することはできません。数学における層とは、位相空間上で連続的に変化する様々な数学的構造をとらえるための概念でありますが、私流に日常使っている言葉で判りやすくいえば、「層」とはままおおざっぱに言って「似ているもののグループ」のことである。私流の説明を続けよう。

「フィロソフィア・ヤポニカ」(中沢新一、2001年3月、集英社)に田辺元の多様体哲学における「分有の法則」というが出てくる。これについても中沢新一の説明はやはり哲学的で一般の人には判りずらい。そこで「分有の法則」について、私流の説明をしたい。

「ジキル博士とハイド氏」という小説は、イギリスの小説家・スチーブンソンが1886年に書いた有名な小説である。人格者ジキル博士が薬を飲むと極 悪非道なハイド氏に変身するという、・・・言うなれば、二重人格者の悲劇を描いたものだが、人間の善悪の葛藤を取り扱った・・・大変哲学的な課題を秘めた 小説である。
 いうまでもなく、ジキル博士とハイド氏は同一人物である。したがって、ハイド博士はジキル氏であるとってよい。こういう二重人格者は世の中にそう珍しいことではないが、現在、十六重人格者まで確認されているという。
「群盲象を撫でる」というたとえがあるが、一人の人間にもいろんな人格がある。通常は、それらがバランスよくコントロールされているので、悪い人格 はそう表にでてこない。そのコントロールされているさまを、河合隼雄さんは「アイデンティティー・ネットワーク」という概念で説明されておられる(「日本 人の心のゆくえ(岩波書店)」)。岡野憲一郎さんの理論(「脳と心の多重理論・・・心のマルチ・ネットワーク(講談社)」)もおおむね同じような概念のも のと考えてよい。いろんなアイデンティティー(人格)がネットワークで繋がっている。ある人格が何かの拍子で力を得て巨大化すると、その繋がりが切れる。 その繋がりが切れると、その巨大化した人格が表面に飛び出してくる。それがたまたまジキル氏であったりするのである。 
人間は誰でも善人といえば善人であるし、悪人といえば悪人である。善人にもなるし、悪人にもなる。確認されているのは十六重人格者であるが、世の中 にいろんな人がいることを考えれば、一人の人間の中に存在するアイデンティティー(人格)は、数えきらないぐらいの種類があるのではなかろうか。それらア イデンティティーの中心が「自己」である。

 現在存在するものは全て宇宙のビッグバンから始まって、極めて複雑な過程を経て生成されてきたものである。そして大事なことは、生命体が細胞分裂 を起こして成体が出来上がる間にかっての進化の過程を辿るという事実だ。進化の過程を辿るということは生命体の細胞分裂の原初の段階で生命体のビッグバン が起こっているということだ。生命体のビッグバンから始まって、生命体の細胞分裂がものすごい勢いで進んでいくのだが、それはいままでの生物の進化を目の 当たりに見るようだ。
 最新の発生学による科学的知見によれば、動物の発生過程はひとことで細胞分裂というだけでは説明し切れない誠に複雑な現象を辿るのであるが、ここで は分裂という現象、つまりものすごい数のアイデンティティーが分裂によって発生するという事実だけに注目して、細胞分裂という言葉を使っている。しかし、 動物における成体の発生過程というものは、まるで生物の進化を辿っているような複雑極まる現象であることはいうまでもない。なお、ここでは判りやすくいう ために、以上の表現は私流にかなりデフォルメしていることをお断りしておく。
 生命体の細胞分裂、すなわち生命体の進化の過程に応じて、それぞれアイデンティティーが無限と言っていいほどの数で出来上がっていくのだが、そこ には「葦性」のアイデンティティーもあるし、「鯰性」のアイデンティティーもあるし、「金剛インコ性」のアイデンティティーもあるし、「カンガルー性」の アイデンティティーもある。「種」と「個」というときの「種性」と「個体性」というものは、要するに、そういった無数のアイデンティティーの分類であっ て、そういう「種性」と「個体性」は、生命体のビッグバンから始まり、細胞分裂の過程を経て出来上がっていく。哲学では、これを原初の絶対否定を媒介にし て「種性」と「個体性」というものが発生したという言い方をする。原初の絶対否定なんて言われると何のことか判らなくなってしまうが、要するに、ビッグバ ンが始まる前の絶対的な無の状態を言うのだろう。それが生物の誕生の過程で生じている。
 アイデンティティーはある波長で震えている運動体である。「種性」というものはアイデンティティーに関するグループとしての性質であり、「個体性」というのは個体としての性質をいうが、いうまでもなく「種性」に分類されたアイデンティティーは「個体性」に分類されたアイデンティティーとは波長が あわないので互いに反発しあっている。哲学的には「否定」という言葉を使うが要するに波長があわないのである。「種性」としてのアイデンティティーは、お 互い波長があうが、「種性」のアイデンティティーと「個体性」のアイデンティティーとは波長があわない。波長があえば互いに引き合うし、波長があわなけれ ば互いに反発しあう。これは「共振の原則」である。
 「分有」とは同じようなアイデンティティーあるいは同じ波長のアイデンティティーを共有しているということである。原初の絶対否定から総てのアイ デンティティーが発生し、それは自ずと「種性」と「個体性」に分かれるのだが、各アイデンティティー単位で見ると、引き合うのもあるし反発するのもある。 「種性」、「個体性」の分類別で見れば・・・・引き合うか反発するかどちらかである。
 人間が有する数多くのアイデンティティーの中に「葦性」を持ったアイデンティティーもある。したがって、人間は、総体的には人間であるが、「葦 性」に着目すれば「葦」である。人間が有する数多くのアイデンティティーは「種性」か「個体性」のどちらかに属するが、「葦性」や「鯰性」や「金剛インコ 性」や「カンガルー性」など・・・他の生物と「分有」するアイデンティティーはおそらく「種性」に属するのであろう。「他者」との違いを特徴付けるアイデ ンティティーはおそらく「個体性」に属するのであろう。
 いずれにしろ無限と言っていいほどのいろんなアイデンティティーがあって、それらは固有の波長を持ってピクピクと自己振動している。ものすごい速さで震えているのだ。相手によって引き合うか反発するかの鋭敏な運動体である。
 響きあいというのは、外からの波(リズム)に自己のアイデンティティーのどれかが共振することであるが、共振は必ずしも外からの波(リズム)だけではない。自ら発する波(リズム)によって共振することもある。

 以上が「分有の法則」に関する私の説明である。如何であろうか。
 中沢新一いわく。原初の絶対否定を媒介にして、「種性」と「個体性」というものが、発生したのである。この「個」と「個体性」が互いに媒介し、否 定しあいながら、宇宙の中における人間の世界がつくられていく。そして、これらすべての過程を突き動かしているのが、「分有の法則」にほかならないの だ・・・・。
 何故ビッグバンが起こるのかは問うまい。これはそのまま真実として受け入れればいい。同様に、なぜ細胞分裂が起こったり、なぜそういう原初の絶対 否定(ビッグバン)を媒介にして「種性」と「個体性」というものが発生するのかは問うまい。これらもそのまま真実として受け入れて、そういう現象を生ぜし めている法則が「分有の法則」であることをそのまま率直に認めればいいのだ。
「野生の思考」による人々は、個の意味をまずその個を包括する全体とのつながりや絆を通して、理解しようと欲したのである。そこでは、個人は全 体に対して「異にして同なる矛盾」として、まず理解される。それをひとつの統一として表現しようとすると、たとえば南ニューギニアのマリンド・アミム族の 描いた鯰とも人間とも似つかぬ絵、そのような絵がつくられることになるのである。
 マリンド・アミム族の人々は、人間の祖先は鯰のような魚であった、と言う。この場合彼らは、宇宙的自然に内包された「鯰性」の分有として、人間と いう存在はある、と考えようとしていると考えてもいいし、この「鯰性」の共有を通して、人間は宇宙的自然との絆を保ち、その巨大な一族の成員として、地上 に生きているのだと、考えているのだと言ってもいい。
 しかし、たとえ「鯰性」の分有によって、宇宙的自然に「有即」しているのが人間であるとしても、その人間は宇宙的自然に対して、同時に対立や異和 をもはらんで、その生活をつくりだしているのである。この「全と個との異にして同なる矛盾の統一」を、どのように表現したらよいのか。調査者にスケッチ ブックを渡されたマリンド・アニム族の男は、そこで鯰とも人間とも似つかぬ絵を描くことになる。つまり、宇宙的自然との絆を保ったままの状態にある人間と いう存在は、鯰と人間との「ハイブリッド」として、表現されることになった。これが「分有の論理」の働きにほかならない。
 「分有の法則」の働きによって、鯰的人間は、論理回路が作動して「ハイブリッド」として表現される。この「ハイブリッド」としての理解というものがミソであって、そういう理解が可能となるのは、「分有の論理」というものが働いているからなのである。
 ニューギニアなどの未開社会の人々は、生まれながらにしてシュールレアリストであり、自然を技術的操作の対象とは認めないという点において、独自のエコロジストでもあり、思考における詩的言語の実践者でもあったのだ。
 「私は金剛インコである」と言うポロロ族の表現なども、「種の論理」の立場から新しい光を投ぜられることになる。この表現について、レヴィ・ブリュルはこれがトーテミズムの「分有の論理」的思考に特有の表現であると語った。

以上の「分有の法則」の説明で「種性」とあるのが「層」であり、先ほども申し上げたように、「層」とはままおおざっぱに言って「似ているもののグループ」のことである。

さて、「不思議な環」に関する中沢新一の説明に「喩(ゆ)」ということが出てくるので、「層」の説明に引き続いて「喩(ゆ)」の説明をしておきたい。

喩(ゆ)とは、他の例を引いてある意味・内容をさとらせる「たとえ」のことである。私は先に、「挙体性起(きょたいしょうき)」の説明の中で、「存在が花している」とか「存在が岩井國臣している」ということを申し上げ、ただいまは「層」の補足説明として「分有の法則」の説明をした中で「鯰的人間」ということを申し上げたが、人間が花にたとえられたり鯰にたとえられたりするのである。では、この「たとえ」はどのようにしてできるようになるのか? それが問題である。中沢新一は、「野生の科学」の中で、『言語には、対象を指示する機能と、別々の対象を重ね合わせて新しい意味を発生させることのできる喩(ゆ)の機能が、一体になって組み込まれています。・・・中略・・・喩は異なる階層間を環(ループ)でつなぐ働きをします。その結果、言語の場合ですと意味どうしに「不思議な環」がつくられて、そこから新しい意味が発生します。』と言っているが、その喩(ゆ)の機能が生ぜせしめるのが「不思議な環」なのである。つまり、「不思議な環」のお蔭で「たとえ」が生じる。「挙体性起」も「分有の法則」を成り立たせているものが「不思議な環」ということである。しかも、この「不思議な環」という概念は、最新の数学で使われ始めた概念で、科学的な根拠のはっきりしたものである。

以上、私は縷々「層」と「喩(ゆ)」の説明と「不思議な環」の説明をしてきたが、如何でしょうか。今度は中沢新一の説明がすんなり頭に入ってくるでしょうか? 中沢新一が「野生の科学」というものをどのように考えているか、冒頭に掲げた「野生の科学」に関する中沢新一の説明をもう一度掲げておきますので、是非、彼の思想をきっちりとご理解いただきたい。彼の思想は数学との繋がりを以て、新しい科学を作り出していくものです。中沢新一は自信を持って次のようにいう。すなわち、
『「野生の思考」の世界は、たしかに「不思議な環」に満ちあふれている。「野生の思考」は「飼いならされた思考」とは違って、外に向かって閉じられた均質空間の中では活動できない。異質なレベルに属する多様な物事を差別することなく巻込んで、それらを全体性の中で思考するのである。そのためそこでは種々雑多な「不思議な環」の構造が、論理や音楽や造形や身体の運動を通して、活動を行う。
物質と生命のプライマルな過程に触れながら、それを抑圧してしまわない思考や表現は、このようにすべて自分の内部に「不思議な環」の構造を含むのである。したがってそれを人間の心の「唯物論的基底」と呼ぶことができる。どんな思想もこの環の構造を自分の重要な部分に組み込んでいないかぎり、唯物論的であるとは呼ぶことはできない。この観点に立つとき、これまで存在した唯物論のほとんどが、本物の唯物論のレプリカにすぎなかったことになる。科学を野生化する必要は、じつはここから生まれているのである。』

『私たちは現代の科学に「不思議な環」を組み込むことによって、経済学の例に典型的に現れているような、人間科学の危機に立ち向かおうと考える。20世紀の後半に出現した「構造主義」がはじめて組織的に、人間の科学に「不思議な環」を取り込む試みを行った。しかしその当時、人文科学者の利用できた数学には大きな限界があったために、その試みは必ずしも目的地にたどり着くことができなかった。
私たちは構造主義の試みを継承する。そして現代の人間の危機に真に立ち向かうことのできる「新構造主義」の創造を目指そうと思う。構造主義は人間中心主義からの脱却を語り続けた。私たちの新構造主義も、この世界が人間だけのものではなく、「不思議な環」によって結ばれた動物や植物や鉱物や大気とともにあり、それら人間以外の諸存在も、等しく地球上に生きる主権者(コモンズ)であることを語りつづけるであろう。』・・・と。

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