ネオゲルマン異教とニューエイジ運動
ネオゲルマン異教とニューエイジ運動
ネオゲルマン異教やニューエイジ運動については、シュヌーアバインがその著書「現代社会のカルト運動・・・ネオゲルマン異教」(翻訳書、2001年9月、恒星社厚生閣)に詳しく書いている。現在、ネオゲルマン異教と深い繋がりを持ちながら、ニューエイジ運動が世界的な潮流となりつつある。ネオゲルマン異教もニューエイジ運動も新しい運動であり、宗教、経済、政治、生活文化の面でいろいろな動きを見せている。これらの運動はまだ始まったばかりであるので、ある部分を捉えて浅はかな批判をしてはならない。私に言わせれば、ネオゲルマン異教も「グノーシス」の一部であって、これが今後どのような展開をしていくかは予断をゆるさない。8月1日に中沢新一の最新作「野生の科学」が発刊されたが、私は、これを読んで、中沢新一の「野生の思想」が今後世界を変えていくに違いないと感じている。中沢新一の動きもニューエイジ運動のひとつであって、今後日本にも彼の同調者が数多く出てくるであろう。ニューエイジ運動も今後どのような展開をしていくかは予断を許さない。
したがって、ネオゲルマン異教もニューエイジ運動も、一部の動きを捉えて矮小化してはならないのである。
シュヌーアイバンは、ネオゲルマン運動について次のように言っている。すなわち、
『ネオゲルマン異教が、いわゆる健全なゲルマンの過去に回帰することを主旨としているので、これは文明批判の運動全体から見ると、この一部であると理解できる。この信奉者は、古い神話の再生あるいは新しい神話の創造から、宗教の革新のみではなく、文化全体の改革も期待し、それとともに、「救いがたい現代」を救済しようとしている。』・・・と。
今ドイツでは、「ドイツ民族固有の信仰」を重視し、さらにユダヤとローマの影響から解放されることが重要であるとする・・・「キリスト教のゲルマン化」の動きが出てきているようである。ゲルマンの神的世界は、「理性に対し感情を、精神に対し魂を」という非合理主義であるといえるが、ドイツ的キリスト教こそ本物のキリスト教であって、故に「ゲルマンの神々の教えに回帰しよう」という訳だ。
日本においても、ホワイトヘッドのプロセス哲学と西田幾多郎の哲学との親和性に着目し、「キリスト教の日本化」を模索する動きも出てきている。広がりとしてはキリスト教が世界最大の宗教であるが、民族固有の信仰との綜合を目指す「グノーシス」の動きはドイツに引き続き日本でも大きな動きになるかもしれないということだ。
さらに、レヴィナスの哲学がひろく理解されていけば、ホワイトヘッドの哲学や中沢新一の「野生の思想」と相まって、カソリックにおいてもキリスト教の変革が起こるかもしれないと、私は感じている。そういう期待を持ちながら、私は、世界の辺境で「グノーシス」の動きが始まることを切望している。
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