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2012年8月 8日 (水)

「野生の科学」の将来

「野生の科学」の将来

「野生の科学」の必要性なり可能性についてはすでに述べた。しかし、「不思議な環」など最新の数学によってどのような科学の姿に変貌するかについては、現在ではまったく判らない。したがって、中沢新一もその著「野生の科学」(講談社)の中で新たな科学の姿についてはいっさい触れていない。現在人工知能の研究も行われているが、私は、人間の脳の本質的なものはそう簡単には解明できないと感じている。しかし、それでは「野生の科学」に対する私の強い期待というものがみなさんに伝わらないであろう。したがって、ここは私の未熟さというか勉強不足をさらけ出し、恥を忍んで「野生の科学」の将来を考えてみたい。私の説明に間違いがあるかもしれない。それはひとえに私の勉強不足のゆえであるので、その点あらかじめお断りしておく。

では始めよう! まず、最新の量子脳力学で「心」というものがどこまで判っているか、私の勉強内容を紹介したいと思う。

1、はじめに
 「記憶」、「学習」、「体験」という言葉は、量子脳力学では同じものだと考えていた
だきたい。私はこれから「脳と心の量子論・・場の量子論が解き明かす心の姿」(治部眞
理、保江邦夫、1998年5月、講談社)にもとづいて心の実態を求めて必要な勉強を進
めていくのだが、適宜「記憶」という言葉を使ったり「学習」という言葉を使ったりする
であろう。そのときの文脈で「記憶」といったり「学習」といったりするというわけだ。
 拙著「祈りの科学」シリーズ(1)で、『「 100匹目の猿(以下において頑固猿と呼ぼう。)の脳の波動はどうして起こるのかを考えてほしい。子供の猿が海水で芋を洗う状況は(以下において芋洗い状況と呼ぼう。)何度も見ている。その「記憶」は頑固猿の脳に保存されている。芋洗い状況に応じた波動特性が保存されているということだ。』・・・と申し上げたが、例えばこの文章では「学習」というより「記憶」といった方が良いと思って「記憶」という言葉を使った。
 私たちの「こころ」は記憶があってはじめて存在するものでしかない。「こころ」は新
たなる記憶に絶え間なく変わりつづける変化でしかない。したがって、「こころ」の実態
というか本当の姿を理解するにはまず「記憶」とか「学習」というものの理解が必要であ
る。以下において、量子脳力学では「記憶」というものをどう説明するのか、その勉強
から始めよう。「記憶」とはどういう現象なのか?


2、水の電気双極子とは?
 記憶のメカニズムを知るには、まず水の電気双極子というものを知らねばならない。量子脳力学では、外界からの刺激やそれに対する意識の印象も含めた内的な刺激も、最終的に細胞骨格や細胞膜のなかに作られる大きな電気双極子の形にまで変形された後、その近くの水の電気双極子の凝集体として安定に維持されると考えているからである。 そういわれてもさっぱり判らないと思う。水の電気双極子というもののイメージがつかめないからだ。まずはその辺の説明をしよう。
 双極子とは、物理学の専門用語であるが、磁石を頭に描いていただけば理解しやすい。
磁石はどんな小さなものでも片側がN極、反対側がS極になっていますね。それと同じよ
うに、細胞のなかでは、水の分子の片側がプラス、反対側がマイナスになっている、その
ようなものを電気双極子と呼ぶのです。水の分子の真ん中には原子核があって、その周り
に2個の電子がぐるぐる回っていますが、単なる水の場合はただそれだけのことで何の不
思議も起こりません。しかし、細胞のなかの水の場合は、細胞膜の影響で、電子の動きに
変化が起こります。その電子の動きがくせ者で、マクロの世界では不思議な現象が起こっ
てきます。その不思議な現象で水の電気双極子ができるのです。その辺の詳しいことは教
科書のp53あたりを読んでください。不思議は水の電気双極子ができるということだけ
ではありません。その凝集体ができるのです。凝集体とは読んで字のごとく水の電気双極
子がたくさん集まったものです。水の電気双極子どうしがくっつき合うのです。何故水の
電気双極子がくっつき合って凝集体ができるか?そのメカニズムはやはり教科書(上記の本。以下に同じ。)を読んで勉強してください。ここでは省略します。
 ここで大事なのは水の電気双極子が互いにくっつき合う場合、くっつく相手がめまぐる
しく変わっているということです。実は、水の電気双極子の形は、大きな耳を付けたミッ
キーマウスのような形をしているので、水の電気双極子をミッキーマウスの顔と呼ぶとこ
れからの説明が判りよいかもしれません。凝集体では水の電気双極子がめまぐるしく変化
しているということは、例えていえば、凝集体のなかの多くのミッキーマウスが絶えず
あっちこっち向きを変えているのです。物理学の最前線では、水はむしろめまぐるしく変
化する電気双極子が、ある範囲の空間の隅々まで満ちている場というものだと考えるよう
です。すなわち電気双極子の凝集場と呼ぶらしい。教科書ではミッキー場と呼んでいま
す。
 ところで、先ほど「 細胞のなかの水の場合は、細胞膜の影響で、電子の動きに変化が
起こります。その電子の動きがくせ者で、マクロの世界では不思議な現象が起こってきま
す。その不思議な現象で水の電気双極子ができるのです。その辺の詳しいことは教科書の
p53あたりを読んでください。」といいましたが、実は、ほかにも不思議な現象が起
こっている。細胞膜はリン脂質からできていますが、その分子も電気双極子になってい
て、水の電気双極子に電気的な影響を与えているらしいのです。この辺の事情につても、
p53~p58あたりを読んでください。
 なお、先ほど「 量子脳力学では、外界からの刺激やそれに対する意識の印象も含めた内的な刺激も、最終的に細胞骨格や細胞膜のなかに作られる大きな電気双極子の形にまで変形された後、その近くの水の電気双極子の凝集体として安定に維持されると考える。」と申しましたが、これも判りにくいですね。今、「 細胞膜はリン脂質からできていますが、その分子も電気双極子になっていて、水の電気双極子に電気的な影響を与えているらしいのです。」と言いましたが、細胞骨格も細胞膜と同じ働きをしていて、外部からの刺激は、ここで大きな電気双極子の形に変形されるらしい。そして、その影響で水の電気双極子の凝集体ができるらしい。
 さあ、ここで、今まで勉強したことの整理をしておくと、『細胞内の水の本当の姿は
ミッキー場、ある範囲の空間の隅々にまで目に見えないほど小さな電気双極子が並べられ
たものである。』ということです。
 ところで、脳細胞の外側にはもちろん別の脳細胞があるのですが、細胞膜と細胞膜がじ
かに接触しているのではなく、細胞間隙と呼ばれるわずかな隙間に細胞間液、つまり水が
満たされているのです。この細胞間の水は、大きな電気双極子を持つ細胞膜や細胞外マト
リックスと呼ばれるマイクロフィラメントの網目構造がすぐそばに分布しているため、水
の電気双極子場がダイナミカルな秩序を形成しやすくなっています。
 しかも、細胞間隙の水の総量はわずかではあっても、膨大な数の脳細胞の間を縫うよう
にして大脳全体にわたってひとつのつながりになっているため、広範囲での脳細胞の活動
と強く関連していると考えられます。
 さあ、先に申し上げたことをもう一度申し上げる。量子脳力学では、外界からの刺激やそれに対する意識の印象も含めた内的な刺激も、最終骨格や細胞膜のなかに作られる大きな電気双極子の形にまで変形された後、その近くの水の電気双極子の凝集体として安定に維持されると考える。

3、ミッキーたちのシンクロナイズスイミング
 それでは、外界からの刺激や内的な刺激によって、どれがどのようにして電気双極子の
形にまで変形されるのか、問題の核心部分に入っていこう。 教科書によれば、水の電気凝集体はいちどできると安定的に維持されるという。外部の刺激や内的な刺激は常に変化していますが、その変化に応じた水の電気凝集体が安定的に維持されるとはどういうことか。教科書では、「ミッキーたち(膨大な数の水の電気凝集体)は、シンクロナイズスイミングのように、華麗な集団演技をしており、それが調和のとれたまとまった動きの中の秩序なのです。」と言っているが、「外部の刺激や内的な刺激は常に変化していますが、その変化に応じた水の電気凝集体が安定的に維持される」とはどうもこのことらしい。外部の刺激や内的な刺激に応じて、ミッキーたちはシンクロナイズスイミングのような華麗な集団演技をやっているらしい。
 ミッキーたちが何故そのような動きをするのか?それはどうもミッキーたちの存在する場所が量子力学でいうひとつの「場」になっているかららしい。上述のように、外界からの刺激や内的な刺激は、細胞骨格や細胞膜のなかに作られる大きな電気双極子の形にまで変形されるが、その電気的な力がミッキー場に作用し、ミッキー場に「場の力」が発生するらしい。ミッキーたちのシンクロナイズスイミングのような華麗な集団演技は、その「場の力」によるようだ。つまり、水の電気凝集体は量子力学的な「場」であり、教科書では、「ミッキー場」とか「凝集場」という言葉が使われている。

4、生命の実体
 驚くべきことに、このようなミッキーたちの動きというものは、脳の中だけではなくて、お尻の細胞であろうと、あるいは他の動植物や単細胞生物の細胞であろうとも、一般的に行われているという。そして、そういう生物が死んだ場合、ミッキーたちの動きがだんだんとバラバラになっていき、だんだんとダイナミカルな秩序が消えていってしまうらしい。このことから、次のような極めて重要な結論が導き出される。すなわち、
『生命とは、細胞のミクロな世界に広がるミッキー場が隅々まで張り巡らしたダイナミカルな秩序、小さなミッキーたちが集団で演技する、調和のとれた華麗なシンクロナイズスイミングそのものである。』

 私の教科書「脳と心の量子論」(治部真理、保江邦夫、1998年5月、講談社)では以上のような考えについて次のように言っている。すなわち、
『もちろん、これは場の量子論によって理論的に考え出された一つの理論にすぎず、実験によって実証されたものではありません。それでも、本質に迫る理論だという確証があるのです。
 いったい、なぜでしょうか?
 実は、生命のない物質の性質を調べるために用いられた範囲では、場の量子論の理論的考察はすべて正しい結果を導いてくれたのです。いまでは、場と量子という概念によってミクロのスケールでの物質のなりたちを説明することに、全く疑問をはさむ余地はありません。
 だからこそ、生命のある物質の場合にも、きっと正しい結論を与えてくれるはずです。
それに、万が一最終的な答えになっていなくとも、少なくとも、そこから何か生命の本質に迫るきっかけがつかめるのではないでしょうか。
 世界で最初にこう考えた理論物理学者が、梅沢博臣と高橋康なのです。時に1960年代から70年にかけてのことでした。
 しかも、アメリカやカナダ、ヨーロッパで多くの優秀な物理学者の弟子たちを育てた二人だけあって、そのあとにつづく研究も盛んになっています。(中略)キーポイントは、細胞の中の水、ミクロの量子の世界でのミッキー場の秩序ある運動でした。それまでだれひとりとして顧みることのなかった、場の量子論でしか理解することのできない細胞内外の秩序運動に目を付けたのは、場の量子論の大家としての「勘所」にちがいありません。』・・・と。
 理論物理学者・梅沢博臣と高橋康によれば、「生命とは量子論的な秩序」なのである。

 5、電磁場の「光の音楽」
 以上は、脳だけでなく、お尻の細胞であろうと、あるいは他の動植物や単細胞生物の細胞であろうとも、一般的にいえる現象でしたが、これからはいよいよ脳の中の話に移ります。
 私は、上記3の中で、『教科書では、「ミッキーたち(膨大な数の水の電気凝集体)は、シンクロナイズスイミングのように、華麗な集団演技をしており、それが調和のとれたまとまった動きの中の秩序なのです。」と言っているが、「外部の刺激や内的な刺激は常に変化していますが、その変化に応じた水の電気凝集体が安定的に維持される」とはどうもこのことらしい。』・・・と申し上げましたが、実は、そう単純ではないらしい。ミッキー場(凝集場)におけるミッキーたちの動きだけでなく、ミッキー場の近くにある電磁場の中でもミッキーたちの動きを引き起こすもともとの動きがあり、ミッキー場の波動と電磁場の波動が共振を起こしているらしい。ここでいう秩序とは、どうもその波動の共振が形成する秩序のことらしい。
 私は、上記2の中で、『量子脳力学では、外的な刺激や内的な刺激が細胞骨格や細胞膜のなかに作られる大きな電気双極子の形にまで変形された後、その近くの水の電気双極子の凝集体として安定に維持されると考える。』・・・という趣旨のことを申し上げましたが、実は、 外的な刺激や内的な刺激が電気双極子の形に変形されるのは、最終骨格や細胞膜のなかに存在する電磁場でのことらしい。
 教科書では、次のように説明している。すなわち、
『ミクロの世界にも電磁場が存在する。そしてそこでは電磁波が発生している。』
『小さなミッキーたちのまわりには、量子電磁場があり、その電磁場の波がたえず大自然の調和を奏でているのです。
 量子の世界での調和のとれた美しい波動は、とても繊細で霊妙な光となって、小さなミッキーたちを照らしています。
 そして電気双極子は量子電磁場の波で簡単にゆさぶられるのです。ですから、でたらめな波がくれば、電気双極子もでたらめにふりまわされますし、きれいに整った波がくれば、電子双極子のほうも整然とした動きになるのです。量子の世界のミッキーたちは、量子電磁場の調和のとれた美しい波動、華麗な光の「音楽」にあわせて、素晴らしいシンクロナイズスイミングの集団演技を披露してくれるのです。
 電磁場の調和のとれた美しい波動、華麗な光の音楽にあわせてシンクロナイズスイミングをするミッキーたちは、その秩序あるそろった動きにより、逆に量子電磁場の中に秩序ある波を生み、霊妙な光を放つことになるのです。そして、このようにして生まれた電磁場の波は、もともとの電磁場の波動と重ね合わされ、より調和のとれた美しい波となります。
 このように、細胞の中のミクロのスケールの量子の世界で、量子電磁場と水のミッキー場とが、場の量子論の法則にしたがって互いにくり返し影響をおよぼしあい、しだいに調和し協力していくことにより生まれる、秩序ある波動、これこそが、ダイナミカルな秩序なのです。』・・・と。

 私は、この説明の中の「電気双極子は量子電磁場の波で簡単にゆさぶられる。でたらめな波がくれば、電気双極子もでたらめにふりまわされるし、きれいに整った波がくれば、電子双極子のほうも整然とした動きになる。』という部分に注目しており、最初の外的な刺激や内的な刺激というものは、美的なものが望ましく、醜悪なものはできるだけ避けた方が良い、と思っています。自然の奏でるリズムは美しいものです。だから、私たちは自然と一体になるとき、自然のリズムは、ミッキー場と量子電磁場の中に秩序ある波を生み、霊妙な光を放つことになる。これは「生命」そのものが、霊妙な光を放ち、イキイキとしてくることを意味している。
 すなわち、「生きる」とは自然と一体になって、生命の本体がイキイキすることではないかと思うのです。民話に「見るなのタブー」というのがありますが、見てはならないものは極力見ない方が良い。醜悪なものはできるだけ見ない方が良い。かたちはリズムですから、美しい絵画や彫刻はできるだけ頻繁に見た方が良いし、美しい写真もできるだけ多く見た方が良い。音楽や自然の奏でる音楽はリズムそのものですから、良い音楽を聴き、自然とはできるだけなじんだ方が良い。相手が人間の場合も、心に響くような人とできるだけ接し、醜悪な人とはできるだけ付き合わない方が良い。リズムの共振、リズムの協和、響き合いが人生をイキイキと生きるコツではないでしょうか。

6、 記憶とは?
 記憶の特質として、「記憶の安定性」、「記憶の大容量性」「記憶想起の容易性」、「記憶の連想性」の4つの特性が考えられています。
 今までもっとも有力視された記憶の理論は、ニューロンと呼ばれる脳細胞が細胞膜の一部を放射状にのばしていって他のニューロンの細胞膜に接している神経回路の網目構造が、細胞膜の内外でのいろいろなイオン濃度差による電位変動を伝搬させる電気回路に記憶されるというものでした。
 しかし、神経回路のシナプスの可塑性で記憶が与えられているとすると、記憶の容量はたかだか脳のすべてのシナプスの数ぐらいのものにしかならず、とても実際の人間の記憶容量の膨大さには及ばないと考えられています。上記の考え方には「記憶の安定性」という観点からも致命的な欠点があるようです。かといって、大脳生理学や分子生物学の範囲の中では、いまのところこれといった新しい記憶の理論はないようで、そこで唯一新たな地平を切り開いているのが、量子場脳理論ということらしい。これは、1960年から70年代にかけて、二人の日本の物理学者・梅沢博臣と高橋康が場の量子論における「自発的対称性の破れ」という斬新な記憶の理論を提唱し、現在の研究に引き継がれているものです。その素人向けの解説書が私の教科書「「脳と心の量子論」で、今そのご紹介をしているという訳です。内容はなかなか複雑で難しいので、みなさんにわかりやすく説明するのも容易ではありませんが、まず梅沢博臣と高橋康が得た結論を先のように述べ、追々必要な解説をしていきます。二人の結論は、教科書のp236に書かれているように、
『脳細胞のミクロの世界に存在するコーティコン場とスチュアートン場という量子場があり、コーティコン場の量子であるコーティコンの凝集体が記憶を形づくる。』・・・というものである。
 ここで、二人のいうコーティコン場とは、先の説明したミッキー場(水の電気双極子の凝集場)であり、スチュアートン場は先に説明した量子電磁場のことであろう。
 私は、上記5の中で、『ミッキー場(凝集場)におけるミッキーたちの動きだけでなく、ミッキー場の近くにある電磁場の中でもミッキーたちの動きを引き起こすもともとの動きがあり、ミッキー場の波動と電磁場の波動が共振を起こしているらしい。』・・・と申し上げましたが、ミッキー場の波動は電磁場の波動と共振を起こして、その共振の結果、ミッキー場の波動は安定的に維持される。安定的に維持されるとは、波動は量子であるから、ミッキー場でコーティコン量子として保存されるということなのであろう。これが記憶である。ミッキー場に保存されている。では、その保存されている記憶が人間にどうやって意識されるのか。すなわち、記憶の想起はどのように行われるのか。そういう疑問が次に湧いてくる。

7、記憶の想起(意識の発生)
 記憶の想起ということは、そこに意識が発生するということであるから、記憶の想起と意識の発生ということは同じである。この記憶の想起(意識の発生)がどのようになされるのかを簡単にわかりやすく説明することは非常にむつかしい。「自発的対称性の破れ」という量子脳力学の理論ばかりでなく、ヒッグス・メカニズムという量子脳力学の理論も説明しなければならないので、ちょっと私の手には負えない。是非、私が教科書にしている「脳と心の量子論」を勉強していただきたい。ここでは、極めて重要な南部・ゴールドストーン量子(俗称:ポラリトン)とか隠れ光子(以下単に光子という。)の説明も省略して、結論的な部分のみ紹介させていただく。
 上記6で触れたスチュアートン場(量子電磁場)にポラリトンと俗称される南部・ゴールドストーン量子が発生するらしい。その量子電磁場におけるポラリトン量子とミッキー場におけるコーティコンとが共振を起こして、記憶の想起(意識の発生)が生じるらしい。次に、記憶の想起について、教科書では次のように述べている。すなわち、

『ある記憶を形づくったときの刺激とは異なる刺激に対しても、その記憶を保持している水の電気双極子の凝集体のある部位の細胞骨格や細胞膜の生体分子にわずかながらの電気双極子が生じることがあり、それによってその記憶の凝集体に固有な南部・ゴールドストーン量子が生み出されるのが連想なのです。(p241〜p242)
 もちろん、記憶に強く関連した刺激であれば、それにより発生する生体分子の電気双極子も大きなものになり、多くの南部ゴールドストーン量子が生み出されます。したがって、記憶は明確に思い出されることになります。』

『脳細胞のミクロの世界で記憶の実態の役割を果たしている水の電気双極子の凝集体は、理想的には最大50マイクロメートルというマイクロのスケールにまで拡がったものになることもできました。この拡がりであれば、脳細胞よりも大きくなり、いくつかの脳細胞にまたがったものになります。

 ということは、脳の組織の中には、形態としては複数の脳細胞の集団なのですが、機能的には一塊の水の電気双極子の凝集体の中に有機的に取り込まれていると考えられる組織で、50マイクロメートル程度の空間的な拡がりを持つものがあり、記憶を含めた高度な脳の機能を生み出していると考えられます。(p242)』

『いったん記憶が凝集体の形で持続しているようなときには、新たな刺激のよりその凝集体のある部位の細胞骨格や細胞膜の生体分子が電気双極子を持つようになった場合に、凝集体の中に南部・ゴールドストーン量子であるポラリトンが発生するのです。これが記憶の想起の物理的な素過程である云々(p244)(中略)
 記憶を担っている水の電気双極子の凝集体から南部・ゴールドストーン量子が生み出されることにより記憶が想起されるというのですが、ではその記憶を想起する主体とは、一体何なのでしょうか。もちろん、思い出し他を意識する主体は「こころ」に決まっていますが、ここで問題視しているのはそのような単なる言葉のお遊びではなく、「こころ」の物理的な実態とはいったいどんなものなのかということです。(p244)』・・・と。

 では、記憶に関する説明がここまで進んだこの段階で、「こころ」の物理的な実態に迫っていきましょう。

8、「こころ」とは?・・・物理的な実態
 私の教科書「脳と心の量子論」では、「こころ」の物理的な実態を次のように説明している。すなわち、
『それぞれの凝集体が記憶の基本的な要素となり、どの凝集体からも固有の南部・ゴールドストーン量子であるポラリトンがたえず生み出されているために、記憶の要素が存在することを意識することができる。そして、このポラリトンの生成を意識する主体こそが「こころ」と呼ばれるものの実態なのです。(p245)』
『「こころ」のほんとうの姿は脳の中に拡がる無限個の光子のそのものであり、「こころ」が記憶を意識するということは、記憶の要素である水の電気双極子の凝集体からたえず生み出される無限個のボーズ凝集体に参入し、その運動状態が変わるということとして理解できる。(p252)』

『膨大な数の電子と核子が集まってできた物質としての脳組織そのものの中にははじめからなかったもの、物質とはちがう存在として考えられてきた電磁場の量子、光子が無限に集まってできた凝集体だったのです。だからこそ、私たちにとって心は自分自身の身体を形づくる物質から遊離して存在する一塊のものであるかのように意識できるのです。
 まるで、1リットル程度の拡がりの脳の中に、無限の光子を蓄えた無限の宇宙が重なっているかのようではありませんか。(p254)』・・・と。


9、脳の中の小宇宙
 私は6の中で、『梅沢博臣と高橋康の結論は、教科書のp236に書かれているように、
『脳細胞のミクロの世界に存在するコーティコン場とスチュアートン場という量子場があり、コーティコン場の量子であるコーティコンの凝集体が記憶を形づくる。』・・・というものである。
 ここで、私は、二人のいうコーティコン場とは、先の説明したミッキー場(水の電気双極子の凝集場)であり、スチュアートン場は先に説明した量子電磁場のことだと理解している。』・・・と述べた。そういう理解にしたがって、「1リットルの宇宙論・・量子脳力学への誘い」(治部眞里、保江邦夫、1991年3月、海鳴社)の中から関連部分をピックアップして、今紹介している私の教科書「脳と心の量子論・・場の量子論が解き明かす心の姿」の補足説明にしたい。「1リットルの宇宙論」は 「脳と心の量子論」の7年前に書かれたものである。
 「1リットルの宇宙論」では梅沢博臣と高橋康がスチュアートン場と呼ぶ電磁場について、次のように述べている。すなわち、
『細胞膜を貫通するように存在する膜タンパク質の中には、内側の部分で細胞質の細胞骨格とつながり、また外部の部分では細胞外マトリックスとつながっているものがある。』

『細胞骨格や細胞外マトリックスと呼ばれるタンパク質フィラメントは、大脳皮質の中に織りなす網目状の立体構造をしており、これが梅沢先生のいう「大脳皮質自由自在」である。その中を伝搬する何らかの波動運動の存在が考えられます。』

『ミクロの世界における波動運動は、場の量子論によって正しく記述できる。そこでは、一般的にいえることだが、一定の振動数を持った電磁場の波動運動によって、光子というエネルギー量子が飛び回っている。大脳皮質自由度の中の波動運動についても全く同じことがいえる。場の量子論の教えるところによれば、大脳皮質自由度の波動運動も何らかのエネルギー量子の運動と考えられる。』・・・と。

 これがスチュアートン量子、つまり南部・ゴールドストーン量子であるポラリトンにほかならない。「1リットルの宇宙論」での説明によると、ポラリトンは、ニューロン内部だけでなく外部にも存在し、大脳皮質全体にあまねく拡がっているらしい。このことについて、「1リットルの宇宙論」では次のように言っている。すなわち、

『このポラリトンガ、宇宙における光子のように直接に見ることができるならば、脳の表層を覆う大脳皮質はポラリトンの集団が飛び交う、まばゆいばかりの宇宙として写るのではないでしょうか。ポラリトンは1リットルの宇宙、脳の中に輝く満点の星に譬(たと)えられるのです。』・・・と。

 実に良い譬(たと)ですね。美しい。この満天の星に譬えられるポラリトンが引き起こす物理現象が、どうも記憶や意識のもとになっているらしい。このことを「1リットルの宇宙論」では次のように言っている。すなわち

『大宇宙の中で電子が引き起こす現象といえば、超伝導、オーロラ、ファイヤーボールの生成など、どれをとってみても光子が重要な役割を果たしています。実は、光子と電子は互いに密接に関連していて、ことに電子は光子をやり取りすることによって互いに作用し合うという性質を持っています。』・・・と。

 「1リットルの宇宙論」では、光子が脳の中でも重要な役割を果たしていると言っているのだが、この点については次のように説明している。すなわち、

『わが国の現代物理学の父と謳われている仁科芳雄の研究や、ノーベル物理学賞をとられて朝永振一郎の研究は、電子と光子についての不思議な性質を解き明かす研究だったのです。光子があってはじめて、電子は多様な物理現象を生み出し大宇宙を美しく飾ってくれるのです。いくら場の量子論をもってきたとしても、もし電子なら電子だけ、あるいは光子なら光子だけしか存在しないのであれば、そこには何も起こらないといってよいでしょう。これもまた場の量子論からの帰結なのです。
 朝永振一郎やアメリカのファインマン、それにスイスのスチュッケルなどにより、電子と光子の間の素過程を記述するための量子論である量子電磁力学が完成したのは20世紀の中頃のことでした。その時点から、われわれは電子の運動の背後には必ず光子が存在し、宇宙の中を駆け巡る電子たちは光子によって互いに強く結びつけられることを知っています。このような電子と光子のつながりがあってはじめて、一つの電子は他の電子と関わった運動を見せることができるのです。
 これと同じことが1リットルの小宇宙、脳の中を駆け巡るポラリトンたちの運動についてもいえるのです。』・・・と。

 場の量子論というのは、宇宙全体に適用される一般的かつ普遍的な理論体系だが、脳の中のミクロの世界にも適用できる統一的な物理法則であり、脳に関する物理的な学問は量子脳力学と呼ばれている。今まで縷々説明してきた私の説明では、私の説明不足もあって、すんなり理解できなったかと思う。しかし、ともかく量子脳力学という学問があり、量子脳力学では、生命というもの、記憶や意識というもの、そして心の実態というものが、物理的に理解されるようになってきているということだけはご理解いただけたのではないかと思う。私のつたない説明をきっかけとして「脳と心の量子論」や「1リトルの宇宙論」を読んでいただければ、私としては大変ありがたいと思う。

10、今後の希望・・・量子脳力学の新たな進展

私は先に、「野生の科学」の可能性に関する中沢新一の説明とは別に、その補足説明として、直観について今西錦司の考えを紹介したが、さらに、人間の脳の本質を考える上で大事な視点を述べたいと思う。

  人間の脳は三階建て構造になっており、恐竜型脳の上に原始哺乳類型脳があり、その上に新哺乳型脳がある。そして大事なことは、その三階の脳はまだ一割ぐらいしか使われていないのであって、あとの9割の脳は未使用状態である。今後人間が発達していくとその未使用の脳は少しずつ使われていく。そのとき、人間はどのような存在になっているかは「神のみぞ知る」のである。現在の最新科学を知らないニーチェがそこまでは知る由もないが、「人間とは動物から超人に向う間の存在であり、人間そのものではまだダメで人間を超えていかなければならない。」というニーチェの認識は、現在の最新科学からも正しいのである。脳の未使用領域が全部使われるようになった段階の人間をニーチェの言い方にならい「超人」と呼ぶならば、これから人類は「超人」に向うのである。彼は、ツゥラトゥストラをして、「超人にはなれなくても、超人のために超人を用意すべく努力して死んでいけ。自分のあとに超人が生み出さればいい。」と言わしめている。ニーチェは「超人」と言われているが、ここでいう「超人」とはとは違う。ニーチェはまだ現在のままの人間である。したがって、私の、言葉の使い方に混乱が生じないように、ニーチェのことを今後「巨人」と呼ぶことにしよう。

 ニーチェは、私のいい方では、超人ではなく、巨人だ。多くの人が直観を働かすことができるようになれば、人類は今の人間を超越した本当の意味の「超人」となる。まだほとんど未使用のまま残されている状態の新哺乳型脳が、驚くべき発達を遂げて、 人類は今の人間を超越した本当の意味の「超人」となるのである。その発達の原動力は、巨人の直観力である。

 直観と直感とは違う。直感は、感覚的に物事を瞬時に感じとることであり、「感で答える」のような日常会話での用語を指す。他方、直観は五感的感覚も科学的推理も用いず直接に対象やその本質を捉える認識能力を指し、直感的な洞察力のことです。発達した第六感のことである。直観,すなわち直感的な洞察力で有名なのはプロ棋士の直観力だ。これは凄いのです。その科学的な研究も行われているが,プロ棋士の直観力による判断は正しく、そこに出来上がりの局面が頭の中に見えているという。今はないけれど局面が進むにつれて出来上がっていくずっと先の局面が見えているというのだ。今ないものが見えていて,先々そのとおりになっていく。直観というのはそういうものだ。いい加減なものではない。よほど経験と修練を重ねていけばそういう直観力は身に付くのである。逆に,普通の人は直観力がなく、あるのは直感だけである。直観と直観は違う。違うけれど,直観力というものは科学的に存在する。今私がここで言いたいのは直観の科学性である。

 宇宙の彼方から「波動」がやってくる。「外なる神」が発する「波動」、それを私たちは見るのだが,目には見えない。音楽家は「天空の音楽」としてそれを聞くことができるが,普通の人間の耳には聞こえない。しかし,第六感すなわち直観を働かせば見える。 キリストやマホメットやお釈迦さんなどいわゆる聖人と言われる人には見えていたのだ。そう考えるのは決して非科学的ではない。私はそのことを主張したい。

 ところで、「外なる神」を科学的な立場から理解するには、浜野恵一の「脳と波動の法則・・・宇宙との共鳴が意識を創る」(1997年3月,PHP研究所)が一番良い。関係する図書はいくつかあるけれど,一度はこの本を是非読んでもらいたい。ここではその真髄部分を補足説明しおこう!

 私たちの脳は,三層構造になっている。は虫類型脳と原始ほ乳類型脳と新ほ乳類型脳というのだそうだが,は虫類型脳と原始ほ乳類型脳はほぼ一体的に機能するので,私はそれらをまとめて「活力の脳」と呼びたいと思う。新ほ乳類型脳は,知恵と大いに関係があるので,それを「知恵の脳」と呼びたい。「活力の脳」は赤ちゃんの時からどんどん発達していくが,「知恵の脳」は青年期を過ぎて成人になってはじめて力を発揮する。成人になると「知恵の脳」は「活力の脳」を十分コントロールできるようになるのだそうだ。しかし,この「知恵の脳」は,未知の部分が多く,またほとんど未使用の状態だと言われている。直感力の発揮できる人はこの「知恵の脳」を普通の人より多く使っているが、私たち凡人はおおむね10%ぐらいしか使っていないのだそうだ。90%が未使用だというのは まったくもったいない話だ。人によって悪知恵を働かせるために「知恵の脳」を使っている人もおりケシカラン話である。詐欺師などはもってのほかだ!「知恵の脳」は良い方向にどんどんつかって、大いに発達させていかなければならない。それが人類に与えられたこれからの大いなる課題である。

 ところで,私は、「祈り」の科学シリーズ(1)で、脳の中では、ともかく波動の共振が起っているという点と、共振を起こす波動の元は外からのものであり、それを受けるのは脳の内部の波動であるということを申し上げたが,これは「外なる神」と「内なる神」との共振(共鳴,響きあい)を述べたものである。「外なる神」も確かに存在するし,それと共振する「内なる神」も当然存在する。

 直観力というものは科学的に存在する。今私がここで強調したいのは直観の科学性である。今西錦司は、「野生の人」であり、まさに直観の働く巨人である。
 「祈り」の科学シリーズ(1)で紹介した「黒もじの杖」の話を例にして、量子脳力学の立場から直観の説明をしておきたい。今西錦司は黒もじを必死になって探し求めた体験が過去にたびたびあったに違いない。そういう「野生の体験」が「学習」として「波動粒子B」に保存されていた。あるとき黒もじの杖が欲しいと強く願いなら下山していたとき、その強い願いが「外なる神」と共振を引き起こした。そして、突然、「波動粒子A」も共振を起こし、彼は何か異常を感じたのに違いない。直観が働くには過去の必死の体験と強い願いが必要だが、まちがいなく 直観力というものは科学的に存在する。
 「活力の脳」によって「ひらめき」(霊感)を感じ、「知恵の脳」によって「直観」を得る。普通の人にも「祈り」によって「外なる神」の働きかけが起こるが、直感力のある人は「外なる神」の特別の働きかけがある。

今後、「不思議な環」など最新の数学によって量子脳力学がどのような革新を遂げるであろうか? 現在、量子脳力学では、今まで縷々勉強してきたとおり、「こころ」が波動現象であるところまでは判っている。すなわち、「こころ」は、波動方程式によって数学的に解明が進んでいるのである。しかし、その波動方程式が「直観」とどう関係するのかはまったく判っていない。そこで、私としては、「不思議な環」など最新の数学によって量子脳力学が大いなる革新を遂げることを期待しているのである。岡潔は数学に「情緒」を求めた。中沢新一は、自然過程を自分の内部に組み込んで自らが「不思議な環」としてできているような文化をつくっていた日本人の能力というものに着目しており、それを最大限に発揮したのが岡潔だと言っているのだが、岡潔のような日本人がこれからも量子脳力学の世界でも出てくる可能性がある。波動方程式に「直観」を求めて・・・。大いに希望を持とうではないか。

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「心は脳からどのようにして生まれるのか?」を読んで

今の科学では「心」の仕組みは解明できない。この論文は、「心」を直観によりとらえることを試みている。さらには、その直感そのものも、重要な「心の要素」であり、成長し続ける神経幹細胞に基づいている、としている。

初めに、私は脳についての知識が殆どないことから、この論文を理解するきっかけになればとグリア細胞や生長点細胞等の言葉をインターネットで探索してみた。学術的なサイトでは専門用語に阻まれたが、初学者向けのサイトではイラストや写真もあり、自分の首の上にあるブラックボックスが、呪文のような名前の様々な物質が動物のように活躍する不思議な場所であることに、楽しい気持ちになった。

ただし、「脳と心」で探索すると、その内容は心理学や精神疾患、哲学に流れてしまい、要約で論者が述べている通り、今の科学では脳の機能の場所は特定できても、心の場所は特定できない段階であるとわかる。

この論文では、心の働きを、動物の大脳にある神経幹細胞を植物の生長点細胞に比較してとらえている。この、植物の生長点細胞が幹と枝に成長するイメージは、私の「脳」に関する、バラバラの知識を統合し、脳と心の働きを直観的にとらえる助けとなると感じた。

論者の持つ感性のうち、注目すべきは、植物と動物、最近までも含む生物全般、同じ生命体としてとらえている眼差しである。これらが生物として基本的に変わらない理由として、遺伝子(DNA)からなる細胞が同じことをあげているが、さらに、「桜」という、日本人にとって特別な感情を抱かせる植物を例とした生き生きとした描写からは、読者に対して、植物が自分たち動物と近しいものと感じさせる効果を生じさせている。桜はまさに、八百万の神がやどると感じさせる第一の植物である。

植物でさえ、脳と心に比較できる機能を持っている。それならば、植物と動物の間で、いくつかの段階を経て神経節が高度になるにつれて、心のありようも人間に近づいていくことになり、特に脳幹以上をもつ魚以上の脊椎動物には脳があるのだから心があるという結論になる。
魚の心について、幼いころの思い出がある。10才の頃であるが、私は親にマスの釣り堀に連れて行ってもらい、マスを釣り上げた。ところが、釣り上げた魚の苦しそうな様子を見て、自分がその魚に与えてしまった痛みに気持ちが暗くなった。
さらに、魚の苦痛を気にかけている人がいないことも、その一部としての人間である事に、悲しく思った。

その後、20代になってから、テレビで、銛で突き刺した魚がもがく映像に対して「可哀想に見えますが、魚には痛覚がないので痛くありません」と解説されているのを視聴した。私は、釣り堀の記憶から、魚や昆虫にも、痛みや命を失う悲しみがあると「直観」により信じていた。そこで、このテレビの説明に驚いて調べてみたところ、確かに当時は魚に痛覚はないとする説が一般的であった。そして、私は、それを、微かに疑問を感じながらも、もう証明された事項として信じてしまった。
ところが、今年の4月に、BBCニュースにロスリン研究所とエジンバラ大学のチームが、魚の疼痛知覚が存在する証拠を得たという記事があった。私は、「やはり、魚は痛がっていた」という自分の感覚は正しかったと、その時にやっと気がついた。まさに論者が述べているように、科学的なものを盲信してしまう安易さであったが、「直観」がもつ力とはこのことかと納得した。

次に、私が興味を持ったことは、脳科学についての基本的な説明であった。

3.これまでの脳科学によるアプローチによると、「心が脳の働きによって生み出されている機能」である一元論的な考え方は確立していると説明されている。この、特に科学的な素養もなく、一般人として生活している私にとって、一元論は、飛躍するが、「死後の世界」はない、ことへの覚悟を意味している。

学校教育で培った知識では、当然のごとく否定する「死後の世界」である。ところが、今の日本では、幼稚園で与えられる「キンダーブック」に登場する、言葉を話す動物という超常現象から始まり、その後も、宗教やメディアから、神、伝奇、怪談、来世、ヒーローなど様々な、現実にあらざる現象を前提としたメディアに絶え間なくさらされ続けてしまう。芥川賞の小説も、村上春樹のベストセラーも、ありえない世界が描かれている。
私は、オウム事件で江川紹子氏が「腕をナイフで切れば血が出るように、洗脳からはすべての人が逃れることができない」と語っていたことを思い出す。例え、頭では一元論の正しさがわかっていても、いつのまにか二元論の安らぎを拒否できないことに気がつく。そして、米国でダーウィンの進化論を信じている人は40%である、のニュースに、宇宙に行く化学の国でさえ、「死後の世界」という、安全装置を捨てることができない、その人の心の弱さに共感する。

20代のころに読んだ、独立戦争前のアメリカを舞台にした小説に、奴隷を虐待する人物が「黒人は痛みを感じないから大丈夫だ」とつぶやくシーンがあり、同じ人間であっても僅かな違いを理由にして他者の痛みを無視することができる、と驚き、印象に残った。少しでも生物学の知識があれば、肌の違いから、痛みを感じる差が生じるという誤りに気が付くはずである。しかし、現実は、自分自身を振り返ってみても、科学を基にした考え方は、砂漠に水を撒くような作業であると絶望的な気持ちになる。未だ、「科学的根拠」を受け入れる、その前の段階でうろうろとしている。つまり、科学を基にした考え方で豊かになった社会に生きているにもかかわらず、科学を受け入れいるとは言い難い自分がいる。

心は、どこにあるのだろうか?科学ではまだ、心は解明できていないのだからと、それを免罪符にして思考停止をする。知ることを恐れている。生物としての「死」に直面せずに、今の道具を未練たらしくながめている。
しかし、心の底では、全てを明らかにしてほしい、なおかつ、心の平穏を得たいと渇望している。
私が、この論文にわずかな希望を見出したとすれば、それは「心が成長(生長)点」にある、という論者の直観である。
死の直前まで成長するという概念は、それが、砂漠にも川が流れるように、自分が納得し受け入れることができたとすれば、その概念は知識となり、私に平穏をもたらしてくれるかもしれない。

心は脳からどのようにして生まれるのか?

―脳の神経幹細胞と植物の生長点細胞との対比による理論から考える―

南大谷クリニック 研究紀要 2012 著者 永井哲志


目次
1.はしがき
2.なぜ動物と植物を対比したのか?
3.心とは? ―― これまでの脳科学によるアプローチ
3.1 心はどこにあるのか?
3.2 心理学による心の解明
3.3 脳科学による心の解明
3.4 脳科学の問題点
4.脳と桜の成長
4.1 神経幹細胞の存在による新理論
4.2 脳の神経幹細胞と桜の生長点細胞
5.心はどのように生まれるのか?
5.1 -脳の発生過程からの推測-
5.2 形態と機能
5.3 時間の役割
5.4 自己意識
5.5 直観
6.心の発達過程
7.あとがき

要約

 機械は与えられたシステムで機能しているが、私たち人間は本能だけではなく心にも基づいて考え行動している.その心とは何か、脳からどのように機能として生まれるのかが依然として説明できていない.それを明らかにするために、心理学では心が細かくいくつかの成分に分けられた.そして脳科学では、その成分が脳のどこで起こっているかという機能局在をはっきりさせ、そこでどのよう数々の細胞が互いに活動しているかを調べれば、やがて心と脳の関係が明確になると信じられている.しかし、何らかの原因で脳のどこかの局所に欠損が生じても、自分の存在に気づくこと(自覚)ができる限り、それにともなう機能障害は認められるにしても、心の根底をなす直観はあくまで存在し続けている.つまり、これまでの脳の機能局在論による解釈の仕方だけでは心は脳のどこにもないことになり、機能局在論を積み上げても心そのものを説明はできない.脳によって生まれる心は、生物の各器官と同じように、ある種の幹細胞が分化してできるあらゆる生命現象の1つとして考える必要がある.
 植物、動物や生きているものすべてには、共通する仕組みがある.それは、必ず誕生から死まで常に遺伝子情報によって受け継がれた自己と非自己とを識別し、休むことなく成長し続ける未分化な成長点(時間の流れと共に成長する部分)を持っているということである.成長点は分化を終えると何らかの痕跡となって残り、また新しい成長点は生まれる.これを繰り返して記憶は積み重ねられ、個体の一生は常に変化している.この成長点と記憶のメカニズムが生命の基本と考えられる.
 植物は生長点細胞の分化によって環境の変化に反応して成長している仕組みを肉眼ではっきりと捉えることができる.桜の樹木「バラ科バラ属の落葉広葉樹林であるサクラ」(以下、桜と呼ぶ)を観察してみると、解剖学的な脳の発達構築は、桜の太い幹から大枝、小枝への枝分かれの派生に類似する.今まで注目されなかった数々の神経幹細胞の活動がどのような役目を果たして心という現象を生みだすのかを、桜の成長と対比しながら考察した.
 その結果、大脳に存在している数々の心の構成要素(桜の小枝にあたる)にあるそれぞれの神経幹細胞(桜の生長点細胞にあたる)が外部環境からの情報に対応して神経細胞やグリア細胞(つぼみや花、葉にあたる)へと分化することによって、新しい組織は記憶、システム(新しい茎にあたる)として積み重ねられる.一方では、再利用されない古い神経組織や何らかの障害を受けた神経組織は脱落して(日の当たらない枝が折れるのに相当する)、その部位の記憶はなくなる.こうして、脳も桜も生きている限り常に成長している.
 つまり、心とは大脳にある神経幹細胞群(桜の枝にある生長点細胞群)が外界からの情報と自己の記憶(桜の幹や枝)を基にして、未来に向かって分化している活動と考えられる.

1.はじめに

 脳は最近のテクノロジーの進歩をもってしても、その機能を生み出す仕組み、働き、病気、及び治療法についてはまだ不明な点が多く、解明できたことは氷山の一角にすぎない.これまでの研究が明らかにしたことは、脳のどこを探しても、たくさんの神経細胞(ニューロン)とそれを支え養うグリア細胞、それに縦横に走る血管しか見当たらないということである.
 水面下にはまだ根本的に理解できていないことが隠されている(伊藤正男、1998).例えば、ニューロンやグリア細胞だけでどのように記憶や思考、感情などを生み出すのかを説明しようと試みれば、見当がつかないことに気づく.だからといって、私たち人間がこれまで明らかにしてきた物理現象や化学反応、さらには最新式のコンピューターの仕組みでも到底説明できない.それは脳を構成している無数の細胞が、それぞれ個々に生命をもって変化・分裂している現象だからである.この根本的な問題に応えるための生命化学の研究も、目には見えない分子レベルの世界にまで入り込んで多大な成果をもたらしたが、脳と心の関係はなおはっきりしていない.
 人間の生命の営みと、植物例えばその象徴的な桜の木「バラ科バラ属の落葉広葉樹林であるサクラ」(以下、桜と呼ぶ)の成長には、同じ生物として「細胞から細胞へ分化し続ける」という共通する生命現象が存在する.桜にも自己を認識し環境の変化に対応できる、脳と似た仕組みがある.それは根や茎の先端にあって、活発に細胞分裂を行い、新しい組織を作るもとになる「生長点細胞」である.植物である桜には、外界の刺激に対して同時に相反する思考や反応を生み出す脳のような器官は認められないが、この無数の「生長点細胞」の分化によって、移り行く季節に合わせて、つぼみから花や葉、枝へと、1 本の木としてみごとな成長を遂げていく.
 近年、大人の脳の中にも、植物の生長点細胞と同じような働きをすると考えられる神経系に属する各種の細胞になることはできるがまだ細かく分化を遂げていない「多様性」をもつ「神経幹細胞」が見つかったことによって、「高等動物の成体の脳ではニューロンの新生は起きない」というかつての常識が覆されてしまった(Gerd Kempemann、Fred H.Gage 1997).この新たな「神経幹細胞」の発見は、脳も植物と同じような成長の仕組みで活動している可能性を示唆している.これは、これまでの脳科学的手法とは違った素朴な思考からも、複雑で難解とされてきた脳の働きの解明が可能になったことを意味している.心の理解は人類に残された最大の課題といわれているが、原理的にも最も困難な課題の1つであり、従来の科学的な手法に固執しているだけでは大きな進歩は望めない.本論文は、脳の働きの説明にこれまでは用いられなかった植物の「生長点細胞」と脳の「神経幹細胞」とを対比した理論を用いて、「どのようにして脳から心が生まれるのか?」について直観的に考察した.

2.なぜ動物と植物を比較したのか?

 フランスの哲学者、数学者であるパスカル(Pascal、1623~1662)の「人間は考える葦である」ということばがある.それでは「葦」に代表される植物とはどのような生き物なのか.植物は考えることや感情を持つことはないように思われるし、その必要もない.その生きている姿も理解しやすい.しかしその感覚は鋭く、自然の変化に対応しながら巧みに成長していて、クローンで増える能力さえある.
 古くの生物学では、肉眼でしか確認できない植物と動物だけが生物だと考えられていた.やがて顕微鏡などにより、現在ではこれら動物や植物、目に見えない微生物などを総称して生物としている.その明確な生物を定義する特徴は細胞から成り立っているということである.細胞とは、全ての生物が持つ、遺伝子(DNA)を包む微小な部屋状の最小単位のものである.
 この地球上のありとあらゆる生物、動物だけではなく、植物もアメーバ、細菌も、その生命現象の基本メカニズムは同じである.さらに細胞の基本構造、代謝の基本的な仕組み、果てには遺伝子のみならずその化学分子の暗号コードに至るまで大部分は同じである.だから、細胞レベルで見れば、植物と動物は生物として基本的に変わらない.大きな違いとしては、太陽からのエネルギーを受けて生存している植物では、動物のように行動してほかの生物からそれを獲得する必要がないということである.また動物にはいろいろな臓器があり、特に脳という特有な器官で自分と他人を識別し、あらゆる臓器をコントロールして1つの固体として自生している.物事を認知できる能力(自己意識)が人間の脳の最も特有な役目である.その脳の仕組みを知ることは小生の仕事上、絶対的に必要である.残念ながら特に研究設備を持たない当診療所の限られた条件の中では、日々の人間の暮らし、特に共に生きている「脳=人間=生物」の活動と窓の外に見える「桜=生物」に着目してみるしか方法がない.古代より日本人の心とされ、私たちの身近で季節の歩みと共に芽ぐみ、花を咲かせ、葉を茂らせ、そしてまた裸木となって冬眠する桜.その桜の優しさ、美しさ、たくましさは「生きていることとは何か?」の本質を教えてくれているのではないか?などを思い浮かべながら「心とは何か?」を考察した.

3.心とは?-これまでの脳科学によるアプローチ

3.1 心はどこにあるか?

私たちは眠っていた状態から目を覚ます(覚醒する)と、目や耳、皮膚などのさまざまな感覚器から外界を自然に意識する.そして、社会に存在している自分の記憶を基にして考えたり、認識したりするのである(自意識).心はこれまで、「脳のあらゆる精神活動のもとになるもの」、あるいは「精神活動の総称」としか定義されていない.なぜならば、脳には筋肉がないので、直接肉眼でその活動を知ることはできない.この目には見えない「脳の活動」は、いろいろな外界からの刺激、人の表情や態度、動作に現れた様子や話し言葉などから間接的に判断している.そして私たち人間はまた、お互いに目には見えないことや言葉では表現できない複雑な「認識」をも心と呼ぶこともある.さらに何かを考え思い浮かべたりしたときに、自ずと出てくる「考え」をも心としたりしている.
 「心とは何か? どこにあるのか?」という疑問は、文明の発祥以来、人間になげかけられてきたものである.6千年前のエジプトでは、「心の座は心臓にある」という考えが生まれていたし、4千年前のバビロニアでは「肝臓にある」とされていた.より体系的な学問が芽生えたギリシャ時代には、「脳または心臓の働き」が心を生むとされた.
 たとえば、医学の祖とされるヒッポクラテス(Hippocrates 前460?~377?)は、心は「脳の営み」だと考えていたし、哲学者プラトン(Platon 前428 頃~347 頃?)は「脳と脊髄にある」と唱えていた.一方、プラトンの弟子であるアリストテレス(Aristoteles 前348~前322)は、「心は心臓にある」と考えた.
 アリストテレスの思想はヨーロッパでは大きな影響力を持ち続けたので、長い間「心臓が心の座」と考えられてきた.ところが、17 世紀に現代科学の方法論が生まれると、「脳」がふたたび注目されるようになった.たとえばフランスの哲学者ルネ・デカルト(Ren?Descartes 1956~1650)は、心や意思の源は、「脳」、なかでもその奥深くにあって「目の神経とつながって光を感じ、ホルモンを分泌する松果体」に存在すると主張した.また、2世紀に活躍した古代ローマの医師ガレノス(Galenos 130 頃~200 頃?)は解剖学の研究に努力して、「精神の働き」は脳の実質に在るのではなく、「脳屋」という脳の内部の「脳脊髄液のたまっている空間にある」と考えた.
 その他にもいろいろな考えがあったが、17 世紀以降は、「心は脳と関係がある」という点では大差がなくなった.違いがあったのは、その「関係」についての考え方で、大きく分けて一元論と二元論の2 つがあった.一元論では、「心は脳の活動と同じもの」であり、同じ過程を別の言葉で表したにすぎない.一方、二元論は、「心」と「脳」は別のもの、別の過程であって、「心は脳から独立している」という考えだった.
 これらの考え方はまさに根底から異なっていたので、長い間対立が続いた.優勢だったのは二元論で、これは二元論が宗教、とりわけキリスト教の説く考えと矛盾しないためだった.実際、18 世紀に一元論的な考え方を表明したフランスの医師デラメトリ(Julien Offroy de La Mettrie 1709~1751)は、主として生理学の力を借りて、人間の精神活動は脳という物質の働きにほかならぬことを論証したが、それが発表されると宗教界に激しい憎悪の嵐がまきおこり、亡命を余儀なくされた.
 しかし今日では、一元論的な考え方、つまり我々の「心が脳の働きによって生み出されている機能」と同一であるということに疑う余地はない.人間の脳が無数の神経細胞の網の目からなるということ、そしてあらゆる心的活動がこの網の目の間から紡ぎ出されるという事実は変えようもない.だからといって、脳のどこを探してもその証拠となるようなものは形としては見つからない.また、「心は果たしてどのようにして脳から生まれるのか?」という問いに対しても、はっきりとした答えはまだ出されていない.

3.2 心理学による心の解明

植物はいったん大地に根を下ろしてしまうと移動することはできないが、その場所で季節や環境の変化をありのままに感じ取って微妙に自分自身を変化させ、適応している.しかし私たち人間は単純に反復運動をするだけではない.自分の環境を認知し、脳の中から自ずと生じてくる記憶や感情、気分などや思考に基づいてコントロールされている.
この人間の内面の、心理的・精神的な発生過程を科学的に研究する歴史は、
1879 年にドイツの生理学者・哲学者ブント(Wihelm Wundt 1832~1920)が
ライプツィヒ大学にはじめて心理学教室を創設したときにはじまる.しかし、内面的世界で生じるさまざまな現象は漠然としていて、直接、客観的に測定することは難しい.そこで心理学では、客観的に、外から測定できる行動の研究を通して、内面の心理的精神的な過程を明らかにしようとする.学習、記憶、知覚、認知といった行動について、内に潜む心的過程と外に現れる行動との関連性について考えるとともに、実験や観察といった方法で研究している心理学では「心」を使わず、「反応」という言葉を使う.そして、人間の誕生から死にいたる生涯全体に及ぶ生の営みを、心の働き、その行動へのあらわれ、そしてそれがもつ人間的意味という3つの面からとらえようとして、心を多くの成分に分けて考えたが、近年、そのうちいくつかの成分については、脳との関連が脳科学による研究法の発展により明確になった.だからといって、その数々の成分を根底でつかさどっている中心の成分、生命を与えている根源そのものと考えられていた「自我(self)(ego)」または「魂(a soul)(spirit)」、あるいは「自分自身(my self)」とは何であるかは、やはり説明できてない.

3.3 脳科学による心の解明
 
 古くは自然と人とのさまざまな営みの根源には、ギリシア語で息、風、霊、などを意味する「プネウマ(pneuma)」があると考えられていた.また、目には見えないが人と人、人と自然それぞれのつながりにもプネウマが働いて、その声を聞いたり、その働きのしるしを感じ取ったりすることができるし、このプネウマによってこそ、人は共に生き、輝くことができると考えられていた.
1791 年、ドイツの解剖学者・医師ガルヴァ-ニ(Luigi Galvani 1737~1798)がカエルの脚を使って動物電気を発見し、神経伝達機構の究明の道を開いた.また、イギリスの化学者・神学者プリ-ストリ-(Joseph Priestley 1733~1804)らは、革新的な実験法を開発し、空気中の酸素の発見をはじめ、さまざまな気体を分離するとともに、体内の熱は化学反応によって生じることを発見した.1774 年、プリ-ストリ-はフランスを訪れ、空気の成分を発見したことをフランスの化学者ラヴォアジェ(Antoine Laurent Lavoisier 1743~1794)に説明した.ラヴォアジェはただちに、目に見えないようなものでもさまざまな物質で構成されていることの重要性を発見し、近代化学の確立につながる化学革命へのきっかけとなったのである.体内の熱発生の要因とされていた霊的存在、プネウマはこの化学革命によって、完全に否定されることになった.
 脳の研究もこのときを境にして、近代生理学の形成期と足並みをそろえるように、大発展期を迎えるのである.イギリスの生理学者シェリントン(Charles Scott Scherrington 1861~1952)らの研究によって、ニュ-ロン部分では電気信号による伝達が行なわれ、ニュ-ロンとニュ-ロンの間にある接合部(シナプス部分)では、化学物質による信号伝達が起こるということが解明された.これは電気系と化学系という2種類の伝達機構を使用することによって情報を伝える、「情報伝達回路」(ニュ-ロン・ネットワ-クまたは神経回路と呼ぶ)としての脳の構造解明への足がかりを与えることになった.
 第2次大戦後、シェリントンの下で学んだカナダの神経学者で脳外科医のペンフィ-ルド(W.Penfield 1891~1976)は、脳手術にさいして大脳皮質の電気刺激に基づいた新たな「機能的局在論」を実質的に施行した際、患者の同意を得て大脳皮質の様々な部位に電極を刺し、電気刺激を与えて、その時の患者の様子を観察した.その結果、患者の頭の側面、耳の上のあたりにある領域は、脳科学に決定的な影響をもたらした.いわゆる「脳の局在説」という考えがその実験によって証明されたからである.
 しかしペンフィ-ルドは、脳の局在説を証明したものの、そこから導きだした結論は、「脳に心はなく、心は脳の外にある」というものであった.
1958 年ヒュ-ベル(D. H. Hubel 1926~)とウィ-ゼル(T. N. Wiesel 1924
~)によって発見された、特定の刺激と特定の状況にのみ反応する視覚神経細胞の存在は、やがて80年代、90年代にさまざまな認識細胞の仮説を生む先べんとなった.物体像が視覚的に提示されると、私たちの脳にはそれぞれの物体像に対応した神経細胞の活動が起こる.その物体像の認識にいては、現在、大きく分けて2つの考え方がある.1つは、個々の物体像そのものに対応している特定の神経細胞があるという考え方である.機能局在を1 個の細胞レベルまで押し進めようとする立場である.この考え方に従うと、おばあさんの顔にのみ反応する「おばあさん細胞」が、おじいさんの顔にのみ反応する「おじいさん細胞」があるということになる.もう1つは、さまざまな図形特徴に対してそれぞれ選択的な細胞があり、これらの細胞の組み合わせによって個々の物体像が表現されているという考え方である.この考え方によると、それぞれの物体像は、その物体に含まれる図形特徴の組み合わせによって表現されることになる、情報表現は1 個の細胞のレベルまで必ずしも局在せず、複数の選択性の不完全な細胞の集合によって認識対象が表現されているとする立場である.
 1970 年から80 年代にかけては、コンピュ-タ-科学が爆発的な進歩を遂げた.その進歩と呼応するように、脳の精神活動とコンピュ-タ-の情報処理の仕組みを同じように考えることが次第に強くなってきた.この脳の一元論は、認知科学者デイビット・マ-(David Marr 1916~1998)の計算理論の登場によって決定的になる.マ-は、シナプスの情報伝達回路がコンピュ-タ-とまったく同じ働きをするという例を参考に、脳とコンピュ-タ-は同じ仕組みで説明できる可能性があるということを理論面から裏づけた.
 この情報処理システムの存在は、脳が高度な情報処理をしていることを証明したが、同時に脳の情報処理はス-パ-コンピュ-タ-を何台もつなぎ合わせても不可能なほど複雑で高度なシステムだということを認識させられることとなった.にもかかわらず脳の中の肉眼では見えないレベルのいろいろな現象により心の諸問題を解く方法論を発展させてきた.また心の諸問題を肉眼では見えないレベルで脳の中のいろいろな現象で解く方法論が発展させ、解剖学、電気生理学、実験生理学、発生生理学などの知見とともに、認知機能が脳のどの部位で行われているかを画像で見るPET(陽電子放射断層撮影層置)やMRI(核磁気共鳴断層装置)などの「新しい脳活動システム」が導入され、またニュ-ロン・ネットワ-ク(神経回路)や神経システムを再現するシミュレ-ション技術などを取り込んで、その研究法はまさしく日進月歩の勢いである.そして、科学技術を駆使すれば心は脳のどこかに見つかるという脳一元論へと、より方向を先鋭化させている.

3.4 脳科学の問題点

 脳の感覚過程における情報処理は、大脳皮質を構成する約140 億の神経細胞の活動によって行なわれているとされる.神経細胞は、それぞれシナプスで他神経細胞と結合しているが、大脳皮質全体のシナプスの総数は10 万×140 億個に達する.この超天文学的な数のシナプスが複合しながら無数の神経回路網を作っているのである.そして神経細胞は機械の部品のように固定されているのではなく、刻々と細胞分裂によって新しく生まれ変わっているので、神経回路も常に変化している.また、これら無数の神経細胞はみな同じ遺伝子をもっているが、それぞれ違った環境と時間で分化してでき上がっているので、神経細胞とシナプスをみな同じ単位とみなして積み上げても、脳全体の働きを説明することにはならない.したがって、どんなに努力して、ある1部位の詳細なメカニズムを解明しても、脳全体の機能である心を明らかにすることはできないというのが現実なのである.
 自然の現象そのものの法則を探究する自然科学という普遍的真理や法則の発見を目的とした体系的知識を応用した脳科学も、結局は脳を無機的な物質にあてはめようとしていることになる.こうして得られた知識は「客観的証明された事柄」として受け取り、たとえそれがどんなに限られた範囲内のことであろうと、どんな生物であろうと全てに当てはまると見なすようになった.また、あらゆる事象はその知識を基に理解、解釈しなくては根本的な理解は得られないという思想や思い込みが、科学革命以降、支配的になった.そしてそれに基づいて、さらに新たな事実を積み上げさえすれば、脳の働きもこれまでにたどってきた無機的な考え方で解釈できると科学者は信じている.そのため、これまでの思考法では、生きている細胞を基本的な要素にしている「生命現象」と「機械の働き」を、根本的に同じ仕組みによって活動するものとして混同してしまう.私たち人間にとって何らかの物事を明らかにして、理解するということは結局、ただ自分が納得できるという満足感や安心感をえること、あるいは再現して生活に利用できるようになるということに過ぎない.
 つまり、私たち人間に与えられた能力では、全体に起こっている単純で普遍的な仕組みだけをありのままに捉え、納得したり、満足したり、利用したりすることができるだけで、「生命現象の根本的な仕組み」を機械と同じように理解し、その現象を再現することはできないと悟る必要がある.

4.脳と桜の成長

4.1 神経幹細胞の存在による新理論

 人間の脳全体では数1000 億個以上の神経細胞があるとされ、その細胞の構築は電気的に興奮するニュ-ロンと、ニュ-ロンの活動、維持を助ける働きをしているその10 倍もの数の非興奮性細胞であるグリア細胞との網の目からなる.ニュ-ロンは普通の細胞とは違い、周囲から神経突起というものが多数伸びている.そのうちの一本は特に長く、軸索と呼ばれている.そして、ニュ-ロン同士の間をつなぐシナプスと呼ばれる構造で互いに連絡しあっていて、ニュ-ロンに発生する電気的信号は軸索や神経突起を通り、シナプスの化学物質を介して隣のニュ-ロンへ伝えられる.このシナプスを介するニューロンへの信号伝達網が、「脳の細胞組織の基本的な構造」(以下、ニューロン・ネットワーク組織と呼ぶ)となっていると考えられている.
 また、脳の実質的な神経機能を生み出しているニュ-ロン・ネットワ-ク組織の大部分は、胎児期にすでに出来上がったもので、この細胞はいったんでき上がると、もう二度と分裂しないと考えられていた.生まれたばかりの新生児に比べて成人の脳が大きいのは、ニュ-ロン以外の細胞であるグリア細胞が増えることと、シナプスおよび電気的に興奮するニュ-ロンに対する絶縁体として働くミエリンという構造物などが発育期に付け加わるからでと考えられていた.そして成人してからの脳では、一日数万個のニュ-ロンが死んでいくだけで、増えることはない.これがだれも疑わなかった教科書的な定説であった.
 しかし1997 年、スウェ-デンのサ-ルグレンスカ大学病院のエリクソン
(PeterS.Eriksson 1936~)とソ-ク生物学研究所のゲ-ジ(Gage 1940~)らは、成長を終えた大人の脳(成人の脳)でも、少なくとも記憶と学習に重要な働きをしている側頭葉の内側にある海馬においては、ニュ-ロンが日常的に新生していることを発見した.またここ数年間で、その成人の脳の中にも、神経系に属する各種の細胞に分化を遂げていない未分化で多様性(その時点でどのような細胞になるのか決まっていない)をもつ「神経幹細胞」が見つかったことにより、「高等動物の成人の脳ではニュ-ロンの新生は起きない」というかつての定説が覆されてしまった.
 成人の脳においてニュ-ロンが新生することが明らかになった結果、ニュ-ロン・ネットワ-ク組織は決して固定されたものではなく、常に変化していることが考えられる.また、いつも新しい情報が記憶として、積み重ねられて心を生み出しているのではないかと考えることができるようになった.

4.2 神経幹細胞と生長点細胞

 桜も成木になるとその発育も止まってしまうように見える.その理由は樹齢を重ねるうちに風に吹かれたり害虫に侵されたりして強い枝だけが残り、新たに芽を生み出すことができる「生長点細胞」の数がだんだんと減ってしまうからである.しかし、老木でも「生長点細胞」の数はだいぶ少なくなるものの生きている限り毎年春になると、また数少ない新しいつぼみからまた鮮やかに開花し、新緑となり成長していく.このように脳も全体の「神経幹細胞」の数は減っていくが、桜と同じように、生きている限りは次々と新しい芽を出し成長していると解釈できる.
 これまで、脳の働きを理解しようと多大な努力が払われてきた.依然脳の働きは大変複雑なものととらえられている.しかしそれは、人間は何か特別な生物であって、特別な性質やメカニズムを持っているように考えたからではないか.人間を生物のひとつととらえると、植物や動物、真菌、ウイルスなど生きているものすべてには、共通する仕組みがある.それは、必ず誕生から死まで常に自己と非自己とを認識し、休むことなく「生き続ける」未分化な成長点を持っているということである.分化を終えた成長点は何らかの痕跡を記憶として残し、それを積み重ねながら自己としての記憶を変化させていく.この分化できる部分つまり成長点と、それによってできた部分つまり記憶が生命の基本と考えられる.
 脳の生長点である「神経幹細胞」は非対称分裂によって、新たな神経幹細胞と神経細胞という二つの異なる娘細胞になる.それによって膨大な数の「神経幹細胞」から分化し続けている脳は、器官(ニュ-ロン・ネットワ-ク組織)としての重要な役割を果たしている.とりわけ、休むことがない「神経幹細胞から神経細胞への分化」は、「与えられた環境と脳内の記憶からの情報」とを基に確実に自分の個性を獲得し続けている.つまり感じ続けている.その神経細胞が役目を終えると、記憶としてグリア細胞が残る.その間に次の「神経幹細胞群」は分化し、いつも新たにニュ-ロン・ネットワ-ク組織は更新され、脳は桜と同じように成長し続けている.
 これもまた、桜に例えれば理解しやすい.桜は自然界で風に吹かれたり、太陽の光を受けたり、雨に打たれたりして常に自然のあらゆる刺激を受け、それぞれの枝の芽にある無数の「生長点細胞」はその中で繊細に光と温度を感じ取って分化し、芽や花を咲かせ、葉を茂らせて実をつける.そうして、一年間の成長した新しい枝として、つまり記憶として残り、また新しい「生長点細胞」が生まれる.それらが集まって、空間の中で太い幹から無数に分かれた小枝まで立体的な一本の、刻々と成長している桜を構築しているのである.つまり脳と桜は同じように限りなく変化し、成長していることになる.

5.心はどのように生まれるのか?

5.1-脳の発生過程からの推測-

 心は脳からどのようにして生まれるのかを考える上で、その脳の発生と構成に関する基礎的知識をもつことは大切なことである.私たちの脳は1 個の受精卵から分化して膨大な数の細胞が形成される間に出来上がっていく.その1 個の受精卵はあらゆる臓器に分化できる能力があり、受精後およそ3 週目途中の
胎生期には、神経幹細胞があらわれ、胚発生の初期に脳は中枢神経系の幹細胞である神経上皮細胞が分裂と増殖を繰り返して、盲端になっている一本の管(くだ)(神経管)になる.その管の上端(頭側)の部分はやがて脳になる3 個の膨大部を生じる.これらを前から後へ前脳胞・中脳胞・菱脳胞である.前脳胞はさらに著しく発達して終脳はまた大脳となり、大きく左右に向かって膨隆し、そのおのおのが半球状を呈しているので、これを大脳半球という.中脳胞はあまり発達しないが、菱脳胞はさらに分化して橋・小脳・延髄の3 部 に分かれる.
このうち橋と小脳を合わせて後脳、延髄のことを髄脳という.
 脳の基本的な構造は、脊椎動物については進化を通じて保存されているが、進化の大きな傾向としては、大脳の発達が挙げられる.例えば爬虫類の脳では、大脳は大きな嗅球の付属物に過ぎないのに対して、哺乳類では中枢神経系の大部分を占める.人間では、大脳は間脳と中脳の大部分を覆うまでに巨大になっている.異なる種の脳の容積の相対成長の研究では、ネズミからクジラまで連続性が現れ、中枢神経系の進化の様子が推測できる.とくに人間で高度の発達を遂げた前脳(のちに終脳と間脳に分化する)の部分はその大きな形態とそこから生まれる機能について興味深い.
 桜の木も同様に一個の種から幹、枝、葉、そして花に成長して一本の木になる.特に季節の変化や年月の変化に合わせて、小枝にあるつぼみから開花、新緑や紅葉へと外界に反応している桜の姿は、まるで私たち人間の大脳のように感じられる.


5.2 形態と機能
 
 私たちは外界からのいろいろな刺激を、それぞれの刺激に対応した感覚器官、たとえば、音刺激ならば内耳神経などの聴覚器官、光刺激ならば眼や網膜や視神経、皮膚の温感などを通して受けとめ、それによって外界の物事だけではなく、頭の中に浮かんでくるすべての物事に対しても、脳はその時そのままの有様である形態と、その形態の変化によって生まれる機能とを組み合わせて認知している.機能は形態の変化に伴う現象である.私たちは桜を目で形態として認識するが、その形態の変化はとても遅いので、機能としては認識できない.しかし、私たちは短い日時の間に開花から満開になり、そして無残に散って行く花の形態の変化を記憶しているので、満開の花を見たときに、脳の中で一瞬に桜の花の変化として思い浮かべて、その命のはかなさを機能として感じることができる.
 見たものや聞いた音など、感じた場面や様子のすべてを記憶の中で形態や機能をして再現できるのは、脳に入力されてくる情報のうち視覚と触覚は形態とその機能を、聴覚、臭覚、それに味覚は目に見えない形態を機能によって捉えているからである.外界のいろいろな刺激因子を無数に張り巡らされた各種の感覚器で同時に電気信号に変換され、それぞれに対応する局所の神経細胞網の興奮活動となり、そして脳全体の神経細胞網で認知される.それが神経幹細胞の分化に影響を与えて、より新たな記憶となる.この途絶えることがない過程によって脳内で見たり、聞いたり、味わったり、触れたりしていないことでも、あたかも現実の様子や場面のように脳内で再現して認知することができる.

 5.3 時間の役割

 事実として感じている自分の意識(自己意識)はあたかも時間が止まっているようだ.しかし、私たちの脳は桜と同じように成長している.大脳にある「神経幹細胞群」は自分の環境の変化だけではなく、時間の流れに基づいた(過去の)記憶にも反応し続けている.だから、私たちの心の中にある大量の記憶を、過去から未来に渡って意識するために、時間はなくてはならない要素である.生まれて間もない新生児はほとんど微睡の状態であるが、空腹になると目が覚めて泣き、母親から乳を飲ませてもらうとまた安心して眠るといった、短い覚醒と長い睡眠を繰り返す生活をしている.この時期の脳や感覚器はまだ未熟で、自己と非自己の認識もはっきりしない.しかし乳児期を過ぎると目や耳が成長していくにしたがって外界から情報がなくても、自ずと(脳の中で)外界を認識(再現)できるようになる.やがて急速に大脳皮質がさらに成長し、覚醒する時間が増え、外部環境(外界)に対する認識も高まって、自分自身を感じる意識(自己意識)も芽生えながら変化してくる.こうして睡眠と覚醒をはっきり使い分けることで、時間の流れとともに新しい記憶は積み重ねられている.このうちの必要がない記憶は捨てられる.「生きていると感じる」意識の中には過去から現在、未来という「時間の要素」がある.一方で、自然と社会では、歳月を基にした歴史という「時間の要素」があるし、日本では四季がはっきり認識でき、桜も鮮やかに成長していく.その結果、私たちの記憶の背景には必ず細かく日時や年月、季節の概念も関連付けられている.

5.4 自己意識

 脳も他の臓器と同じように母親のお腹の中で成長して完成する.そして、出世時はまだ意識もなく、もちろん自分のことなど分からない.しかし、出生直後から様々な感覚器からの刺激で脳はさらに成長して3歳ごろ自分の存在を知ることになる.つまり「自我(self)(ego)」、あるいは「自分自身(my self)」を感じるようになる.その自分を基に、身の周り(外界)と実際にないものを思い浮かべること(内界)から感じ取ることができるすべての物事が脳の中で新たな記憶となって形成されていく.それが「自己意識」でる.
この過程もまた、毎年、芽の成長によって無数に枝分かれする桜と基本的に
変わらない.このようにして新しくできた枝もすべてが残るわけではなく、折れたり、成長できずになくなってしまうものも少なくない.そうして樹齢は重ねられて、樹形も変化していく.
 体に張り巡らされた感覚器から外界を認識し、重要と感じた情報は脳にある「未分化の神経幹細胞群」に伝えられ、脳の中にある根本的な記憶(自我または自分自身)と比べて、新しい記憶(ニュ-ロン・ネットワ-ク)を作って積み重ねて「自己意識」は変化して行くのである.目を閉じても、脳の中ではこの刻々と変化し、活動しているニュ-ロン・ネットワ-クがいわば「瞬時の自我」となって、そのネットワ-クの中で過去の記憶を検索して、現実の目の前にはない場面も、あたかも実在しているように映し出して思い浮かべることができる.一方、桜の「自我」は無数の「生長点細胞」であり、脳の様なニュ-ロン・ネットワ-クは存在しないが、「生長点細胞」の各々が自分の環境で分化、成長している.
 私たちは外界からの情報がないとき、例えば寝ているときに脳の中で夢を見るという現象も、この考え方で説明できる.いろいろな記憶を脳の中で組み合わせることで、見ているかのように描き出したり、比べて考えたりすることができる.考えるということは、過去の自分と今の自分を取り巻く外界を比べて判断することである.その時の判断は常に正しいと思うが、時がたつとまた考えが変わる(いつも再認識している).その時その時に判断したこと、または考えたことが記憶となって蓄積される.これらも、いろいろな自分を再現して認知する大きく発達した大脳の働きの1つである「自己意識」のメカニズムであると考えられる.

5.5 直観

 会話さえできない乳幼児期は、好奇心が強く、可愛らしく微笑んだり、泣き声を上げるなど、ものごとを分別し反応する.その頃は「神経幹細胞群」は外界に対して一生でもっとも活発に分化している時期だと考えられる.勿論、そのときに科学的根拠に基づく知識など必要はない.直観を経て心に至るまで、脳も桜のように成長する.
 その「直観」とは、わずかな何かの刺激に対して、いろいろと考えたり想像したりしないで、瞬時に鋭く感じとることである.それはもっとも大切な「心の要素」である.つまり本能に近い、動物的な心でもある.そして直観で得たことは、さらに物事を考えることによってはっきりした心、自分の意思「自己意識」になる.
 脳と桜の「直観力」の違いは「神経幹細胞」と「生長点細胞」の個性の違いにある.過ぎ行く季節の変化に脳が発揮する直観力は、桜の「生長点細胞」の「直観力」に劣ることも、勝ることもない.
暦がなく季節もあいまいだった昔、私たち人間は桜の力を借りて農事を行っ
た.つまり、野山に美しく咲く桜の花を見て、田植え時期や秋の実りの豊かさを判断したと考えられる.

6.心の発達過程
 
 人間ははっきりとした自己意識がある状態で生まれるのではなく、栄養摂取、体温調節、外敵からの保護など生命の維持にかかわるいっさいを養育者にゆだねなければならない状態で生まれてくる.そのころの脳の機能にはまだ、心はない.その後、体は自然に成長していくが、外界からの情報や刺激がなければ、見たことも聞いたこともないものが脳の中で、自ずと心が出来上がることはない.心は、受け継がれてきた知識を与えられたり、技術を習得したりして、個人として自立する能力を学習することによって発達し出来上がる.それは約20年もの長い間をかけて成人、社会人の心になる.
 わが国でよく使われる「心有る」とか「心無い」、または「良心」という表現も、人間社会の誕生から現在まで培われてきた人間同士の依存の仕方、つまり、仕組みから生まれたものと考えられる.つまり、私たちの心は、個人と人間社会や自然に対する脳の記憶を基に生長して成り立っていて、人間社会で育った証でもある.そして自然または人間社会で生きていくには、お互いに正しい依存の態度、自然の掟や人間社会のモラルを守ることが必要であると認識されてきたことを物語っている.
 心は人間と人間の、また人間と自然の依存関係の中で長い時間と努力をかけてつくられた記憶である.「お互い様」という言葉も、譲歩、妥協する努力によって穏やかに事を解決しようとする心の表れである.人間社会の歴史が積み重ねてきた「知恵」でもある.この知恵は簡単には壊れない.このように大量の記憶を蓄積できるようになった大きな脳には、人間同士の相互依存と自然環境への依存を基に構成された計り知れない心(知恵)を習得することができる.この知恵をもとに脳は自己の生命を維持するだけではなく、より懸命に生きていける手段を選択しながら学習を繰り返して進歩する.
 つまり心は遺伝子情報の中には含まれていない.クローン技術が進めば、短時間で細胞の遺伝子をコピーして生命をつくることができるが、同じ心をもつ人間をコピーするのには同じ年月と、その人が育ってきた環境とが必要であり、不可能なのである.

7.あとがき

 これまで私たちは「科学を基にした考え方で、豊かな社会になる」と信じてきた.しかし、現在ではいくら科学の知識を獲得しても身の回りの環境の変化(高齢化問題、地球人口の爆発的な増加、深刻な事故)、想定外の出来事はより複雑で難題が多くなった.このままだと「悩みや不安が多くなり、安定した生活を送れない」という予感または失望感が増してくる.それは「科学の進歩や科学的な考え方」の裏には、私たちが気がついていないこと、避けてきた大事なこと(科学的な考え方では説明できない問題)が存在しているからである.
 例えば、人間が長生きをするようになったといっても、老化は避けることはできず、体の不調や不安を訴えて病院を受診する人々は増えるばかりで、その根本的な変化を止めることはできない.人生を楽に全うさせてくれない.人類が初めて経験する今日の超高齢化社会への適応方法を教えてはくれない.安らかに楽しく生きる方法を、科学や医学は何も教えていない.
 人間の能力には限界があり、自然の法則の中で私たちは「直観」や「心」に頼って生きてきたことを何時も忘れてはいけない.「科学の考え方」は数々のことがらの比較による利益だけをみて、難題の想定外の事柄については軽視し、それを考えてこなかった副作用がこれから徐々に顕著化していくのではないか?また「科学的根拠」とは「もう証明された事柄」なのだからと自分自身で確かめて納得したわけではなく、簡単に受け入れてきた.それはまた都合のいい解釈によって、いろいろな方向に派生し、果てしない様々な考え方は一人歩きして止められない.
 私たちにとって科学の進歩とは何か? 人間の幸福にとってどうしても必要
なのか? どこまで必要なのか? メリットの裏に深刻なデメリットが隠されてないか? これまでの科学の考え方、方向性はそれ自体が拡大解釈されて、自己満足に陥ってしまってはいないか?
 この疑問に答えるには、「私たち人間に与えられた心とは何か?」、「心を満たしてくれるものは何か?」、「先人たちは一生の難題をどのように考えてどのような心で乗り越えてきたのか?」などをよく考察し、一人ひとりが自然の中の自分自身と社会の問題点(困っていること)を正直に捉え、素直に表現する必要があるのではないか? 失敗を恐れず自然の営みの中で自分の個性を知り、自分の役割を考えながら生きていけば、やがては幸せを感じるのではないか?
 診察室で診ていると、人間にとって体の局部の症状だけではなく、背景にある「心」の状態の大切さが解る.「心とはなにか?」、「自分とは何か?」、「心は脳からどのようにして生まれるのか?」、「心は何のために必要なのか?」についてあらゆる人たちに解ってもらい、自分らしく、理にかなった楽しい人生を真剣に送れるようになれば幸いである.

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