« 「野生の科学」の将来 | トップページ | トリスタン・ツァラ »

2012年8月10日 (金)

稲荷山アースダイバー

稲荷山アースダイバー

中沢新一は、その著「野生の科学」(講談社)の中で、日本の文化には「不思議な環」があり、そういう日本の文化に触発されて、岡潔は「不思議な環」を組み込んだ新しい数学を発想したのだと見ている。豊かな文化は人びとの人生をそれだけ豊かにする。論理的なものだけ、合理的なものだけというのでは決して豊かな文化とはいえない。「不思議な環」は合理と非合理を繋ぐものだ。野生化とはそういう合理と非合理の互いに矛盾するものをも含んでいる。宗教や芸術はそういうものだが、日本はもともとそういう豊かな文化に恵まれている。しかし、日本においてももともとあったそういう「不思議な環」を組み込んだ文化も、現代では見えなくなってしまったものが多い。中沢新一は、それをできるだけよみがえらせ、私たちの生活をより豊かなものにすると同時に、それを何とか科学の野生化に繋げれないかと考えているようだ。科学の野生化と現実の世界の野生化とは繋がっている。したがって、国民生活の中に「野生化の場」が数多くできてくれば、生活がより豊かにあると同時、それが科学の野生化に影響を与える可能性がある。アースダイバーはそのためのものだ。

中沢新一は、 その著「野生の科学」(講談社)の中で、アースダイバーの方法を説明し、縄文海進期における「岬の聖地(アジール)」があると言うことを説明した後、伏見稲荷の稲荷山のアースダイーバーについて書いている。その要点は次のようである。すなわち、

『今では神社の多くは人里近くに見出すことができるが、柳田国男によるとそれは比較的近世のことで、そういう神社でもおおもとの所在地は、人里離れた山の中に設けられていた場合が多い。しかもそうした山宮の元の形態は、窪地や谷につくられた埋葬地だった。』

『現代の考古学は、柳田国男のこの推論に実証を与えることができる。しばしば「モリ」とも呼ばれるこうした古い時代の山宮祭場は、その多くが暗い谷に設けられている。墓の形態や埋葬儀礼の方法には変化が生じても、古代岬や渓谷につくられた、その地形的条件には、大きな変化は長いこともたらされなかった。』

『箸墓は縦横に張り巡らされた水路の中に設営された、大市と呼ばれる市の真ん中に築かれた。降り注ぐ陽光の下、人びとの視線をいやがおうでも引きつける場所に築かれた。
この頃、死の観念に根本的に変化が起こっていたのを、ここに見届けることができる。渓谷のモリは生と死がひとつながりになったメビウスの帯のような構造をしている。そこでは生者の魂が死の領域に送り込まれ、身体は自然の解体作用にゆだねられる。そして腐敗と解体の中に、新しい生命の誕生が準備される。ところが陽光の中にあらわれた巨大墳墓はもはや象徴的な女性の身体である湿気を含んだ渓谷をでてしまう。このとき死は円環に送り返される訳ではなく、永遠の象徴となる。
死が円環ではなく永遠のものと考えられるようになるとき、人びとが生きる世界の構造にも、大きな変化がもたらされるようになる。螺旋のように渦を巻いていくものから、直線のようにどこまでも長く伸びていくものへの変化、生と死のように異質な原理がひとつの場所で行ったり来たりを繰り返す矛盾を同居させたアジールの空間から、同じ原理にしたがってものごとを秩序づけたり数として計算できるリニアルな空間への変化、これはまぎれもなく「国家」への変化をあらわしている。
稲荷山の山頂に築かれた古墳には、すでにこのような国家と権力の思考方法が浸透しているのである。暗い谷から引き出された墓所は、山頂の明るい光の中に、その偉容をあらわした。しかしそのときにも、御膳谷の湿気に満ちたほの暗い渓谷地では、昔ながらの死の思考をあらわす原初的墳墓の築造は続けられた。いや、じっさいの墳墓の築造はすでに行われなくなってしまったとはいえ、稲荷山は参籠し峰から谷への巡行を行っていた人びとの心の中には、古代からのモリの思想が生き続けていた。こうして、4世紀以来、稲荷山は日本人の死の思想をまるごと包み込む、特異な複合体として形づくられてきたのである。
そう考えれば、明治になって、庶民たちがこぞって、山頂といわず渓谷といわず、稲荷山の重要なスポットを「お塚」と呼ばれる奇妙な石造物で埋め尽くそうとする運動を始めたことにも、何か大きな意味が隠されているのではないか、と思えてくる。「お塚」築造の運動を突き動かしていたのは、新しい国家と権力の理想をかたちを求める、変化への民衆の願望の表現だったのではないだろうか。』・・・である。

伏見稲荷神社の奥の院である稲荷山を含む一体は、異様な雰囲気のある宗教的空間である。生と死がひとつながりになった古代人の「こころ」を感じ得る希有な空間で、このような空間は他に見ることはできない。みなさんも是非一度はお出かけいただいて、是非、古代人の「こころ」を感じ取っていただきたい。
伏見稲荷神社の奥の院は、稲荷山にいたる広大な宗教的空間になっており、「お塚」と呼ばれる一種独特の「稲荷塚」が1万基ほどあるといわれているが、これがまさに圧巻である。
奥の院巡りを「お山巡り」といっているが、この「お山巡り」に関するホームページの中で、次のホームページをご紹介したい。これをご覧いただき、奥の院の全体をまずは頭に入れていただきたいと思います。地図は上が東、右が南で左が北になっています。

http://souda-kyoto.jp/travel/walk/2012s_inari/index.html


この地図の中に「御膳谷奉拝所」というのがある。是非クリックしてみてください。稲荷山は、一の峰、二の峰、三の峰からなっており、それぞれ上社、中社、下社という三つの社(やしろ)があります。それをこの「御膳谷奉拝所」から遥拝するわけです。



「お塚」の前身は古墳である。古墳時代前期頃(3世紀)から稲荷山の峰々には大小の古墳が築かれ、秦氏進出以前からこの辺りを支配していた首長の墓域であった。一の峰古墳は円墳(径約50m)・二の峰古墳は前方後円墳(長約70m)、三の峰古墳は墳形不明の前期古墳で、その他にも円墳3基(後期古墳)などがあったという。
 今、これらの古墳は姿を替えて、それぞれ「上社」・「中社」・「下社」となり、その周りに大小の「お塚」が群集していて、現在はそこに古墳の痕跡をみることはできない。

では、「お塚」のいくつかを紹介しよう!

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/inarituka.pdf

« 「野生の科学」の将来 | トップページ | トリスタン・ツァラ »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1117507/46642661

この記事へのトラックバック一覧です: 稲荷山アースダイバー:

« 「野生の科学」の将来 | トップページ | トリスタン・ツァラ »