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2012年8月 6日 (月)

科学の野生化

科学の野生化とは何か?

私は先に、縷々「層」と「喩(ゆ)」の説明と「不思議な環」の説明をしたうえで、「野生の科学」についての中沢新一の主張を次のように紹介した。すなわち、
『「野生の思考」の世界は、たしかに「不思議な環」に満ちあふれている。「野生の思考」は「飼いならされた思考」とは違って、外に向かって閉じられた均質空間の中では活動できない。異質なレベルに属する多様な物事を差別することなく巻込んで、それらを全体性の中で思考するのである。そのためそこでは種々雑多な「不思議な環」の構造が、論理や音楽や造形や身体の運動を通して、活動を行う。
物質と生命のプライマルな過程に触れながら、それを抑圧してしまわない思考や表現は、このようにすべて自分の内部に「不思議な環」の構造を含むのである。したがってそれを人間の心の「唯物論的基底」と呼ぶことができる。どんな思想もこの環の構造を自分の重要な部分に組み込んでいないかぎり、唯物論的であるとは呼ぶことはできない。この観点に立つとき、これまで存在した唯物論のほとんどが、本物の唯物論のレプリカにすぎなかったことになる。科学を野生化する必要は、じつはここから生まれているのである。』

『私たちは現代の科学に「不思議な環」を組み込むことによって、経済学の例に典型的に現れているような、人間科学の危機に立ち向かおうと考える。20世紀の後半に出現した「構造主義」がはじめて組織的に、人間の科学に「不思議な環」を取り込む試みを行った。しかしその当時、人文科学者の利用できた数学には大きな限界があったために、その試みは必ずしも目的地にたどり着くことができなかった。
私たちは構造主義の試みを継承する。そして現代の人間の危機に真に立ち向かうことのできる「新構造主義」の創造を目指そうと思う。構造主義は人間中心主義からの脱却を語り続けた。私たちの新構造主義も、この世界が人間だけのものではなく、「不思議な環」によって結ばれた動物や植物や鉱物や大気とともにあり、それら人間以外の諸存在も、等しく地球上に生きる主権者(コモンズ)であることを語りつづけるであろう。』・・・と。

実は、これは、「科学の野生化」の必要性を主張したものであり、彼は著書「野生の科学」(講談社)の序文でも次のように言っている。すなわち、
『「野生の思考」に出会って以来、人間諸科学の「野生化」が私の大きなテーマとなってきたが、その探求はいまや人間科学を超えて、科学一般の構造にも野生化が必要であると思うにいたった。この思いは、ハイゼルベルグと岡潔とグロタンディークの仕事を詳細に調べ上げることによって、揺るぎない確信へと変わっていった。量子力学や現代数学において目覚ましい活躍を行ってきたのは、知性の奥に潜む野生の構造なのである。
このことの発見は、同じような厳密な野生化による変革が、(中略)人間科学の領域でも可能であることを暗示している。』・・・と。
中沢新一は、「科学の野生化」は可能であると主張し、その方法について次のように言っている。すなわち、
『古典論理の限界をしめすゲーデルの仕事の後、数学は古典論理の拡張をめざすような方向に転じて、直観論理のなかで働いている論理過程を、厳密なかたちで取り出す試みをはじめた。すると、そこに「不思議な環」が、ごく自然なかたちで出現したのである。(中略)「層」や「トポス」や「圏」として、このような論理の世界を描く探求が、いままさに現代数学の世界では進行中である。
私たちは、人間科学の領域でも現代数学と同じ精神に立った変革を実行しようと思う。「不思議な環」を組み込むことによって、現実を見るべき新しい目が獲得できるようになる。』
『現代の脳科学は、脳内でイメージがひとつの表面として生み出されている様子を、明らかにしてきました。感覚器に取り入れられたバラバラなデーターが、脳の中に決められた場所で再構築されて、イメージはひとつの表面として生み出されてくるのです。ところが大変面白いことに、数学では表面というものには二つの種類があると教えてくれます。ひとつは私たちも普通によく目にする「表と裏の違いのある表面」ですが、もうひとつはメビュースの帯のように「表と裏の見分けがつかない表面」です。
数学という学問は、脳の中で現実に起こっている認知的プロセスそのものを、ひとつの脳内にできた「自然」の出来事とみなして、その「自然」をできるだけ正確で精密に表現しようとする、一種の「自然学」だと私は考えていますが、その考えにしたがってみますと、数学による二種類の表面の分類は、そのまま脳内でおこっている心的プロセスの分類に対応している、と考えることができるでしょう。つまり、心的プロセスにも、「表と裏の違いのある表面」と「表と裏の見分けがつかない表面」との二類型があるはずです。』・・・と。

「不思議な環」というものがどのような役割を果たすのか、その概念はお判りいただいたと思う。しかし、「不思議な環」というものが数学的にどのような内容のものであるかは、とても学者でない私たちには知ることは難しい。興味のある方は是非ウィキペディアで調べ、おおよそどんなものであるかを勉強してもらいたい。ここでは内容の話は省略して、「科学の野生化」の可能性について、今西錦司の考えを紹介して、その補足説明として、この「科学の野生化」に関する説明を終わりたい。
今西錦司は、その著「自然学の展開」(1987年10月、講談社)の中で次のように言っている。すなわち、
『だいたい、そういう知識というものを自然科学的に集めて総合できるかと言いますと、自然科学の方法論として、主体と客体、主観と客観とを切り離して、客観主義に徹するということを守っている限りはですね、それはできんということではないかと思う。それはまあ、言うたら自分で自分の首を絞めているようなもんであって、できない。だから、自然科学的方法によって自然をつかむことはできない。(中略)そういう細分化、専門家、分析というような方法を、科学が取り上げている限りはやね、総合ということはできない。』
『そんなら総合はほんとにできんかというと、ここで開きなおるとやね、これはできるんです。(中略)「直観」というものがあることを、ここで指摘したい。』
『直観というものはですね、自意識の中からは出てこないですね。どこからからふらふらっと出てきて、自分を助けてくれるもんなんです。助けてくれるという以上、非常に結構なもんですけれども、どっちから出てくるかがまだ分からん。
この間、京都芸術大学の梅原猛学長とですね、吉本隆明さんとが何かの雑誌の上で対談しているのを見たら、そこでも、直観はどうも外からくるもんらしいですね、ということで、二人の意見が一致しておりましたが、私もそういう考えがあるんです。
それで、原始人ですね、アメリカのインディアンなんかは、いつも自分の他に守護神というものを考えている。自分の中か外かよくわからんが、とにかく守護神というものがおって、これがどっかから直観を導き出してくれて、いつもその男がどうしたらいいかというふうに途方に暮れたときに、アドバイスをしてくれるというんです。』
『自然の現状。このままでいったらどんどん変わる一方かも分からん。ところが絶対自然というものが他にあるんかというと、変わらぬ自然というものがあるんですね。(中略)我々も変わらぬ自然を要求している訳ですね。だからもちろん、動植物だって変わらぬ自然を求めているのではないか。』
『主客未分というか心身脱落状態になったとき、どういう現象が起こるかということをちょっとひとつだけ例を挙げますと、そういう意識状態になったときにですね、「ありがたい」という気持ちになるんです。ありがたい。
これは、自然と自分が主客未分で、今、合一している。自然という大きいものに自分が吸収されたということ、それはありがたいんですな。ありがたいという言葉しか他に表現できんので、ありがたいという言葉を使うておりますが。』
『直観。学問の上でも、洞察とか、類推というようなものは、これをもし直観の一種とすれば、相当上等の直観ですね。私が急に呼び止められて杖を拾うた、というような安物の直観。これでも外から呼びかけがあったから分かったんです。』・・・と。

私は、「祈りの科学シリーズ(1)<100匹目の猿が100匹>」の第11章「直観と直感は違う」と第12章「今西錦司、直観を語る」で「直観」について相当詳しく書いているので、是非読んで、「科学の野生化」と「直観」との繋がりを考えていただきたい!私は、「科学の野生化」とは、科学の世界に「直観」を取り入れることだと考えています。
http://honto.jp/ebook/pd-series_B-MBJ-27435-9-124989X.html

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