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2012年8月 5日 (日)

キアスムとは?

キアスム(Chiasme)とは、現象学者メルロ=ポンティが、精神と肉体、主体と客体という、二元論的分離を回避するために生み出した造語的概念で、見 るものと見られるものが相互に交差する、ない交ぜの状態を指すものと理解されています。近代が生み出した主客二元論。そして、今日まで続くその二元論的世 界観が作り出す「現実」の超克は、現在世界の実験的なキュレーションの現場における主要なテーマのひとつとして、様々なアプローチが試みられています。

メルロ=ポンティの哲学は「両義性(Ambiguïté[1])の哲学」「身体性の哲学」「知覚の優位性の哲学」と呼ばれ、従来対立するものと看做されてきた概念の<自己の概念>と<対象の概念>を、知覚における認識の生成にまで掘り下げた指摘をしている。
例えば、「枯れ木」について、最初に見た時は、「枯れ木」という存在を眼で見ることで名前のない「現象」としては知ることができるが、「枯れ木」という言葉(記号)を知って初めて、恒常的に認識出来るようになる。これは、それまで現象として見てきた「枯れ木」というものが、言葉(記号)を知ることで同一言語下では共通した認識を得られるということである。
また、精神と身体というデカルト以 来の対立も、知覚の次元に掘り下げて指摘し、私の身体が<対象になるか><自己自身になるか>は、「どちらかであるとはいえない。つまり、両義的であ る。」とした。一つの対象認識に<精神の中のものであるか><対象の中のものであるか>という二極対立を超え、私の身体のリアリティは<どちらともいえな い>。しかし、それは無自覚な<曖昧性>のうちにあるのではなく、明確に表現された時に<両義性>を持つとした。そして、その状態が<私という世界認識> <根源的な世界認識>であるとした。
そこには、既に言葉と対象を一致させた次元から始めるのではなく、そもそもの言葉の生成からの考察がある。
それは、論理実証主義哲学、分析哲学、プラグマティズムなどの<言語が知られている次元>からの哲学に厳しい指摘をしたといえる。そこには多くの哲学の垣根を越える試みが見られ、また、異文化理解や芸術、看護学などに大きな影響を与えた。

中沢新一は、この「キアスム」を日本語で「交差」と言っているが、中沢新一のいう「交差」の概念は、メルロ=ポンティの「キアスム」の概念を知っており、しかも中沢新一のいう「交差」とはそのことだと知っている人は、「交差」という言葉の出てくる中沢新一の文章を理解することは容易である。しかし、私たちは、日常的に、交差という言葉を「2本以上の線状のものが、ある一点で交わること」という意味で使っているので、それに惑わされて、「交差」という言葉の出てくる中沢新一の文章を読んで頭の中が混乱してしまうのである。したがって、中沢新一の思想を正しく理解するためには、「対称性」という言葉もそうだが、「交差」という言葉も正しく理解しておかなければならない。そこで、「交差」という概念を「キアスム」という概念を使わずに、私流の説明をしておきたい。
「交差」とは、交わることである。交わるということは共通点があるということだ。現実の世界において一見異なると見えるものでも、その根源的なところでは共通点がある。例えば、白と黒は相異なる色である。それが現実の世界であるが、これは現実の世界における表層的な見方であって、根源的には、白であってかつ黒なのである。
私は「両頭截断(りょうとうせつだん)」とよく言っているが,これはそういうものごとのには必ず両面があるので,それにこだわっていてはいけないということを言っている。「あなたは善人ですか?・・・そうですねえ。善人と言えば善人だし,悪人と言えば悪人ですね。善人でもないし悪人でもない。ああ,やっぱり私は善人です。」・・・という訳だ。哲学的には二元論というが,そういう二元論を超えた世界,つまり一元論的認識の世界,それが陰陽の世界である。両頭を截断した,つまり相対的な認識を超えた絶対的な認識(一元論的認識)の世界である。私たちは陰陽の世界を生きているし,またそのことを日頃から十分認識しておく必要がある。
 私は「両頭倶截断一剣器倚天寒(両頭ともに截断して一剣天によってすさまじ)」という禅語を略して「両頭截断」といっているのだが、その意味するところはきわめて奥が深い。
 この禅語は『槐安国語』(かいあんこくご)に出てくる。『槐安国語』は燈国師が書いた『大燈録』に、後年白隠が評唱を加えたものである。禅書も数多いが、その中でもっとも目につくものは、道元禅師の『正法眼蔵』と『槐安国語』といってよいと思ふ。両書はいずれも難解な本である。前者についてはすでに多数の学者がその研究の成績を発表している。しかし、『槐安国語』についてはほとんど研究らしい研究はない。そうだけれど、大燈国師が胸中の薀蓄(うんちく)を披瀝したところへ、白隠禅師の悟りを加えたたものであるから、この本は日本の禅の極限に達したものといってよいだろう。
この禅語については、 松原泰道がその著「禅語百選」(昭和四十七年十二月、詳伝社)で詳しく説明しているので、それをここに紹介しておく。すなわち、
『 両頭倶截断一剣器倚天寒(両頭ともに截断して一剣天によってすさまじ)
両頭というのは、相対的な認識方法をいいます。相対的認識が成り立つのには、少なくとも二つのものの対立と比較が必要です。つまり両頭です。たとえば、善を考えるときは、悪を対抗馬に立てないとはっきりしません。その差なり段落の感覚が認識となります。
 さらに、その差別を的確にするには、それに相対するものを立てなければなりません。
之が三段論法推理の基本となります。その関係は、相対的というよりも、三対的で、きわめて複雑です。知識が進むにつれてますます複雑になります。その結果、とかく概念的となります。また、比較による知識ですから、二者択一の場合に迷いを生じます。インテリが判断に決断が下せないのもその例でしょう。なお、恐ろしいことは、比較というところに闘争心が芽ばえることです。この行きづまりを打開する認識方法と態度が、禅的思索です。まず相対的知識の欠点が相対的なところにある以上、この認識方法と態度とを捨てなければなりません。それを「空(くう)ずる」といいます。ときには「殺しつくせ」「死にきれ」と手きびしく申します。肉体を消すことではありません。相対的認識や観念を殺しつくし、なくして心を整地することです。
 相対的知識を殺しつくすのは絶対的知識です。しかし、相対に対する絶対なら、やはり相対関係にすぎません。たとえば、「私が花を見る」のは、私と花と相対して花の認識が生まれ、その花の色や色香(いろか)や美醜は、またそれに対するものが必要になります。どこまでも相対知です。
 次に、私は外の花を見ない、唯一絶対として私が花を見ると、一応は絶対値に立ったようですが、相対に対する絶対値で、やはり相対的関係が残っています。「私」が「花」を見るという我と花とが対しあっています。純粋絶対知とは、私が花を見るのではなく、花そのままを見ることです。私が花そのものになって見るより見方のないことを知るのです。
 これを一段論法といいます。その名付け親は、明治後期の理学博士で、禅の真髄をつかんだ近重真澄(ちかしげますみ)です。禅的さとりを得た人たちは、必ず従来とは、違った見え方がしてきたと喜びを語ります。それは「ある立場から、規定づけられた見方を脱した」ということでしょう。道歌(どうか。仏教などの趣旨をよんだ歌)の「月も月、花は昔の花ながら、見るものになりにけるかな」が、一段論法の認識方法と、その結果を歌っています。また、熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)が、無情を感じて法然上人の下で出家して蓮生坊(れんしょうぼう)と呼びました。彼の歌と伝えられるものに「山は山、道も昔に変わらねど、変わりはてたるわが心かな」にも、それが感じられます。両頭的な相対的認識を、明剣にたとえた一段論法の刀で、バッサリと断ち切る必要を説くのがこの語です。相対的認識を解体した空の境地です。』・・・と。

さあ、「両頭截断」という禅語の説明が終わったところで、「交差」という言葉の説明に戻ろう。現実の世界は、相異なる二つのものの違いを理解するには、必ず相対的な比較をします。例えば、「私」と「花」とは違いますね。その違いは何かというと、「私」は動物であり、「花」は植物である。動物と植物は明らかに違いがある。相対的に違うということです。しかし、純粋絶対的な見方、これは根源的な見方と言っていいが、この純粋的な見方のよれば、共通点がある。それは生命体であるということです。このように、根源的な世界では、現実の世界で一見相異なるように見えるものでも、同じなのです。

では、最後に、ちょっと難しい話になりますが、華厳哲学における「挙体性起(きょたいしょうき)」ということについて説明しておきます。難しい概念であるので、この部分は読み飛ばしてもらって結構です。興味のある方は、是非じっくり読んでください。
 数年前に東京で行われた「京都大学100周年記念の記念講演会」において、河合隼雄さんが「日本人の心のゆくえ」と題して講演を行なわれた。近代科学は、普遍性を求めるものであり、したがってあらゆる存在の明確な区別、言い換えれば、関係性の截断が必
要である。華厳宗というものは、そういう近代科学の原理とは全く違うことをやったのであり、近代科学が否定した関係性を重視する。全関係の総和としての存在というものは、名前がつけられないから「無」と言わざるを得ないが、華厳宗ではそれを「挙体性起(きょたいしょうき)」という。生け花というものは、存在が挙体性起(きょたいしょうき)するもっともいい形を求めるものであり、そういう意味で、「存在が花している」のである。こういう日本文化の存在論からすると、存在の現れとしてそこに花がある。すべてのものは存在から出てきた。私は、存在が岩井國臣しているのである。最後は、西洋文化と日本文化の共生の必要性を訴えられ、今後我々日本人は矛盾システムを生きていかなければならないと言われたのであるが、その思想的背景として、まあ、そういう日本文化の存在論、つまり挙体性起(きょたいしょうき)ということをいわれたと思う。しかし、私は長い間、挙体性起(きょたいしょうき)ということがよく判らなかった。どんな辞書を引いても出てこないのである。

 ところが、武家社会源流の旅の行き着く先に明恵(みょうえ)がいるのではないか
との考えから、私は、河合隼雄さんの著書「明恵 夢を生きる」(京都松柏社)を勉
強して・・・・・やっと挙体性起(きょたいしょうき)ということが判った。以下に
河合隼雄さんの説明を紹介しておきたい。

  華厳思想の究極は、法界縁起にあると言われたりする。この法界という語は簡単に
は説明し切れないことのようだが、一応「望月仏教大辞典」を見ると、いろいろな意
味が書かれている。そのなかで「④華厳教学では」という項を示すと、「<現実のあ
りのままの世界>と<それをそのようにあらしめているもの>との二つの相即的に表
現する言葉として用いられる。云々・・・・」となっている。(註;相即的という言
葉もあまり使わない言葉であるので分りにくいと思うが、相は二つ以上のものの関係
をいい、即はぴったりくっついている様を言うので、相即的とは、相対的な関係にあ
るいくつかのものを本来はひとつであると理解する・・・・そのような理解の仕方を
いう。)

 法界はまず出発点として、<現実のありのままの世界>であるが、<それをそのよ
うにあらしめているもの>は何かを考え出すことによって、その意味合いが変わって
くるのである。それを華厳思想では、事法界、理法界など四種の法界の体系に組織化
している。

  事法界はわれわれが普通に体験している<現実のありのままの世界>で、そこで
は、それぞれの事物は明確に他と区別されて自立的に存在している。これは「華厳的
な言い方をすれば、事物は互いに礙(さまた)げ合うということ。AにはAの本性があ
り、BにはB独自の性格があって、AとBとはそれによってはっきり区別され、混同を許
さない」という状態である。

 ところが、このように事物を区別している境界線を取りはずして、この世界を見る
とどうなるだろうか。『限りなく細分化されていた存在の差別相が、一挙に無差別性
の茫々たる無差別性の空間に転成する。この境位が真に覚知された時、禅ではそれを
「無一物」とか「無」と呼ぶのであるが、華厳の述語によると、このように見られた
世界が「理法界」ということになる。・・・・・中略・・・・・。理法界の「空」
は、「無」と「有」の微妙な両義性をはらんでいる。したがって、無限の存在可能性
である「理」は、一種の力動的、形而上的想像力として、永遠に、不断に、至るとこ
ろ、無数の現象的形態に自己分節していく。・・・・「空」(「理」)の、このよう
な現れ方を、華厳哲学の述語で「性起」と』呼ぶのである。

華厳哲学において、「性起」の意味を理解することは重要であるが、井筒俊彦によれ
ば、一番大切な点は、それが挙体「性起」であるという。つまり、井筒によれば、
「理」は、如何なる場合でも、常に必ず、その全体を挙げて「事」的に顕現する。だ
から、我々の経験世界にあるといわれる一切の事物、そのひとつ一つが、「理」をそ
っくりそのまま体現している・・・・井筒はこのように言っている。

  河合隼雄の説明はさらに続くが、ここではこの程度の紹介にとどめておきたい。再
度申しておきたい。近代科学は、普遍性を求めるものであり、したがってあらゆる存
在の明確な区別、言い換えれば、関係性の截断が必要である。華厳宗というものは、
そういう近代科学の原理とは全く違うことをやったのであり、近代科学が否定した関
係性を重視する。全関係の総和としての存在というものは、名前がつけられないから
「無」と言わざるを得ないが、華厳宗ではそれを「挙体性起(きょたいしょうき)」
という。生け花というものは、存在が挙体性起(きょたいしょうき)するもっともい
い形を求めるものであり、そういう意味で、「存在が花している」のである。こうい
う日本文化の存在論からすると、存在の現れとしてそこに花がある。すべてのものは
存在から出てきた。私は、存在が岩井國臣しているのである。

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