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2011年10月24日 (月)

御霊信仰から村の祭りへ

御霊信仰から村の祭りへ

「御霊(ごりょう)信仰」は、奈良時代の末から平安時代の初期にかけてひろまり、以後、さまざまな形をとりながら現代にいたるまで「祖霊信仰」や「自然信仰」と並んで日本人の信仰体系の基本をなしてきた。
 奈良時代の末から平安時代の初期にかけては、あいつぐ政変の中で非運にして生命を失う皇族・豪族が続出したが、人々は天変地異や疫病流行などをその怨霊によるものと考え、彼らを御霊神(ごりようじん)としてまつりだした。御霊会(ごりようえ)と呼ばれる神仏習合的な神事の発生である。

八坂神社の梢園祭(ぎおんまつり)もその本質はあくまでも御霊信仰にあり、社伝では、869年に天下に悪疫が流行したので人々は祭神の牛頭天王(ごずてんのう)の祟り(たたり)と見てこれを恐れ、御霊会を営んだのだという。

また,903年に九州の大宰府で死んだ菅原道真の怨霊を鎮めまつる信仰も、御霊信仰と結びつきながら天神信仰として独自の発達を遂げ、京都の北野天満宮をはじめとする各地の天神社を生んだ。

 鎌倉時代以降には、非運な最期を遂げた鎌倉権五郎社などの武将たちも御霊(ごりょう)神の中に加わるようになったが、私は第3章第4節で鎌倉大仏怨霊説を唱えた。 私は日本の三大怨霊に菅原道真と平将門と源頼朝の名を挙げたいのである。

 御霊(ごりょう)神の威力に対する畏怖と期待の念は時代をおって幅広いものとなり、疫神(えきじん)のみならず、田の神や水の神の機能とも融合しあいながら農村社会に深く浸透していったらしい。田植えと密接な関連をもつ五月の節供(せっく)を御霊会、御霊の入りなどと呼ぶ地方もある。御霊信仰の広まりと定着は、神事祭儀の場としての御霊社を中心としつつ各種の夏季の民俗行事や民俗芸能を生み、現代に繋がっている。害虫駆除を祈念して、藁人形を仕立て、鉦(かね)・太鼓を打ち鳴らしながら畦(あぜ)を行列し、村境まで〈虫〉を送り出しに行く虫送りや雨乞いなどの呪術的行事とか、芸能性の濃い念仏踊や盆踊などとかはその代表的なものといえる。
御霊信仰は村の祭りと繋がっているのである。村の祭りの源流に御霊(ごりょう)信仰があると言ってもけっして言い過ぎではない。
 御霊神(ごりょうしん)は先に述べたように「ひっくり返し」によって怨霊が守護神になったものであり、田の神や水の神などの自然神とはその生い立ちが違うけれど、除災(災厄を除く)という点では同じような力を持つ。災厄とは、世の中にあっては天変地異凶作などであり、個人にとっては貧窮疾病(ひんきゅうしっぺい)である。

かの偉大な民俗学者・宮本常一は、その著「民間歴」(1985年12月、講談社)の中で『世の中をよかれと乞いまつる神はいかなる神であったかというに、まず祖霊(それい)ではなかったかと思う。正月と盆における行事は粗霊祭的なものが多い。次に自然神がある。ただし、われわれの祖先が神をまつるに至ったのも、祖霊、自然神の順序ではなかったかと思う。田の神も風雨の神もいずれも自然神である。』と述べている。
祖霊神は、清められた先祖の霊として、家の屋敷内や近くの山などに祀られ、その家を守護し、繁栄をもたらす神として敬われるのである。祖霊神を「ホトケ様」「カミ様」「ご先祖様」と呼ぶのはそのためである。祖霊神も御霊神や自然神とはその生い立ちも歴史も違うようだが、今私はその違いを説明することはできない。ここでは村の祭りと深く結びついていることを確認できればそれで十分である。
冒頭に述べたように、ここでは、「御霊(ごりょう)信仰」は、奈良時代の末から平安時代の初期にかけてひろまり、以後、さまざまな形をとりながら現代にいたるまで「祖霊信仰」や「自然信仰」と並んで日本人の信仰体系の基本をなしてきたということを確認しておこう。



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