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2011年9月 2日 (金)

第6章第3節「ネーション」という第3の軸(心の軸)について

6、3 「ネーション」という第3の軸(心の軸)について

  私は先に、『資本=国家=ネーションという「トリニティ構造」について』書いた。 フランス革命のときに唱えられた自由=平等=友愛において、自由は資本に相当し第1の軸(過剰性の軸、人間の身体的欲望に関する軸)、平等 は国家に相当し第2の軸(放射性の軸、ロールズの格差原理に関係する軸)、ネーションは友愛に相当し第3の軸「共和軸」(心の軸、精神軸、人間の生 命的欲望に関する軸)のこと、つまり「魂の自由」に関する軸のことである。

短い文章であるので、以下に全文再掲しておきたい。
 中沢新一は、先に紹介したように、「狩猟と編み籠」の中で、
『 人類の論理的に 思考する能力は、<過剰性や放射性や増殖性をはらんだもの>を理解しようとするときには、必ずと言っていいほどに、「トリニティ=三位一体」的なモデルを 利用しようとします。木を木と言い、山を山と言い、水を水と言い、この世界のあらゆるものを記号的な意味情報として伝えようとするときには、二元論のモデ ルで十分です。じっさい一切のものごとを情報化して記憶・計算・伝達するコンピューターは、0と1との二元論ですべての情報処理をすませています。
ところが、木がただの木ではなくなって、なにか詩的な意味を含蓄するようになると きには、それではすまなくなります。「意味」の平面から過剰しあふれ出してくる「価値」の問題が、発生するからです。意味平面を垂直的に横断していく第三 の力を考えにいれなければ、価値の問題は思考不可能です。そのために、詩学は、言語学と違って、増殖を本質とする価値なるものを理解に組み込むためには、 三元論のモデルを採用することになります。』・・・・と述べている。

 私は、ここで、過剰性とは人間の欲望によって「資本」が増えつづけて過剰となる状 態を意味していると理解し、放射性とは資本の過剰からさまざまな「平等」の問題が発生してくる状態を意味していると理解している。そこで二元論的に、縦軸 に「自由」と「不自由」をとり、横軸に「平等」と「不平等」をとれば通常の社会状態はその四つの象限上に表現できるであろう。かかる観点から、中沢新一は その平面を「意味平面」と名付けている。
しかし、中沢新一が言うように、「魂」の問題は扱えない。見田宗介が著書「社会学 入門・・・人間と社会の未来」(2006年4月、岩波新書)で指摘しているように、政治哲学の上で、「魂の自由」は極めて重要な問題だ。「シーザーのもの はシーザーに。」という訳だ。「魂の自由」を取り扱うためには、ネーション(民族)、私流に言えば「地域コミュニティ」ということになるのだが、それらに 関わる「意味平面」に垂直な第三の軸を考えねばならない。すなわち、ヘーゲルの社会に関する「トリニティ構造」において、ネーション(民族)や「地域コ ミュニティ」の問題は、「魂の自由」に関する軸を考えないと問題を解くことは難しい。「魂の自由」の問題は「グノーシス」でないと解けないのである。
私は、ここに、「意味平面」に垂直な第三の軸、つまり「魂の自由」に関する軸に 「恊和」と「不協和」をとることを提案したい。「音楽」というか「リズム」にちなみ、これを称して「恊和軸」という。「音楽」については中沢新一の「文化 人類学」を頭に浮かべて欲しいし、「リズム」については中村雄二郎の「リズム論」を頭に浮かべて欲しい。



また、私は先に、「グノーシス」について書いた。
これも短い文章であるので、以下に全文再掲しておきたい。
私は先に述べたように、
柄谷行人は、先に紹介した『トランスクリティーク…カントとマルクス』の「あとがき」において、
「私の考えでは,資本・ネーション・国家を相互連関的体系においてとらえたのは, 『法の哲学』におけるヘーゲルである。それはまた,フランス革命で唱えられた自由・平等・友愛を統合するものでもある。ヘーゲルは,感性的段階として,市 民社会あるいは市場経済の中に「自由」を見出すつぎに,悟性的段階として,そのような市場経済がもたらす富の不平等や諸矛盾を是正して「平等」を実現する ものとして,国家=官僚を見出す。最後に理性的段階として,「友愛」をネーションに見出す.ヘーゲルはどの契機をも斥けることなく,資本=ネーション=国 家を,三位一体的な体系として弁証法的に把握したのである。」・・・と述べているが、

理性的段階という言い方は適当でない。
私は、彼のいう「友愛」は、鳩山一郎や鳩山由紀夫のいう社会主義的な「友愛」ではなく・・・、ミヒャエル・エンデのいう自由主義的な「友愛」』と理解し、あえて『(ヘーゲルの)理性的段階という言い方は適当でない』ということだけを強調しているのだが、このことを説明するには、まず「グノーシス」ということについて十分な理解をしておく必要がある。

「グノーシス」については、中沢新一が著書「ミクロコスモス1」(2007年4月、四季社)の」中で詳しく述べているので、皆さんには是非それを読んでいただきたいが、話を続けるために、ここではそのよう点のみ紹介しておきたい。

中沢新一は「ミクロコスモス」の中で次のように言っている。すなわち、

『 プラトンの哲学は、アジアから襲来した一神教の萌芽をはらんだディオニソス祭 儀がもたらした衝撃を、内部に包み込み、吸収しつくすことによって、ギリシャ的な伝統に新しい形態の同質性を回復するものとして、創造されている。当時の 言い方を使えば、「文明」の中枢部を直撃した「野蛮」のテロリズムを、自分の内部に呑み込み変質させることによって、「野蛮」の「文明化」を実現してみせ たということになる。この思想的創造は「文明」と「野蛮」のフロンティアでおこなわれた。一時は「野蛮」の勢力がギリシャ世界深く食い込んできたのである が、それを内部に深く取り入れて見えなくすることによって、プラトン哲学は両者のフロンティアを一瞬見えないものにさせる力を持っていた。フロンティアが 見かけ上消失したのである。そして表面には「文明」しか見えなくなった。つまり、このとき一瞬、「文明」が普遍的であるかのような事態がつくりだされたわ けであり、こののちプラトン哲学が「ヨーロッパ」の普遍性の哲学的表現のように扱われるようになった理由の一つは、そのあたりにもある。
しかし、現実に目を移せば、「文明」と「野蛮」のフロンティアのこちら側には「文 明」の勢力が蟠踞しているが、向こう側には「野蛮」が対峙しているのである。となれば、「文明」的な社会集団にとっての有機的知識人が形成されるのと同じ ようにして、「野蛮」な社会集団の中からも、その社会集団の同質性と機能の意義を表現しようとする有機的知識人が生まれてもおかしくないはずである。その ときには、「野蛮」な社会集団出身の「有機的知識人」のつくりだす哲学や文学や芸術は、プラトンが「文明」の側から創造した哲学とは、根本的に異質な構造 として構築されることになるのではないか。それは「野蛮」を「文明化」しようとする趨勢に対立して、「野蛮による文明」を構築しようと試みる筈であり、そ こからはプラトンがつくりだそうとしたものとは異質な「魂の構造」が生み出されてくるに違いない…・そのような構造に対して与えられた名前、それが「グノーシス」である。』・・・と。

ここで注意すべきは「野蛮」という言葉である。中沢新一は、レビヴィ=ストロース の「野生の思考」を念頭において「野蛮」という言葉を使っている。彼は、「野生の思考」は、芸術と科学のたぐいまれな結合を可能にする「21世紀の知性」 だと考えている。それを私流にいえば、「違いを認める文化」と「わび・さび文化」を支える日本人の感性ということになる。

以上で、私の言いたいことは、ヘーゲルの「ネーション」は、私の「共和軸」、すなわち「心にかかわる第3の軸」に関係する、すなわちそれは「感性」に関係し、『(ヘーゲルの)理性的段階という言い方は適当でない』・・・ということである。

では、ヘーゲルの「ネーション」は、具体的に、どのようなものを想定すればいいの か?  私は、政治哲学、すなわちリアリズムの上に立った「正義論」において、コミュニタリズムの「地域コミュニティ」こそヘーゲルの「ネーション」だと 言いたいのである。それでは次回にそのことを説明したい。

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