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2011年8月 7日 (日)

第6章第2節 地域通貨の哲学

6、2 地域通貨の哲学



 地域通貨は,閉塞感に満ちた今の世の中を打開する起爆剤になるかもしれない。私はそんな感じを持っていて,わが国でも何とか地域通貨を根付かせたいと考えている。

 「エンデの遺言」のあと,雨後のタケノコのように全国各地で地域通貨が誕生したが,私の知る限り,成功例は一つもない。どれもこれもお遊びみたいなもので,通貨としての機能がない。通貨と言うからには,日常消費するものがある程度買えないといけないのではないか。日常消費するもっとも代表的なものは野菜だが,野菜が変えないような地域通貨はダメだと思う。農業のバックアップが必要なのだが,それが難しいらしい。
 経済には、市場経済と贈与経済がある。市場経済があまりにも強すぎて,現在,贈与経済がかすんでいる。しかし、贈与経済については,現在も宗教活動などが行われているし,今後,各種ボランティア活動を増やしていかなければならない。 ボランティア活動の活性化方策,それが今わが国におけるいちばんの問題だが、多くの人が都市に住んでいるので,やはり,日本全体のことを考えると,都市住民が望むボランティア活動というものが大事である。となると,都市住民の希望というものを考えね ばならない。今,わが国において,都市住民は何を望んでいるか? それが問題だが,私は,経済的な側面というより,むしろ森岡正博のいう「生命的な欲望」に光を当て,できるだけ多くの人がイキイキと暮らしていけるように,そのための「場」、 今ここでは宗教活動の場はちょっと横において,「 都市におけるボランティア活動の場」というものをおおいに創っていかなければならないというのが私の考えだ。都市におけるボランティア活動を如何に活性化させていくか、そのことを考えねばならない。そのためには,ボランティア活動を支える,地域通貨の哲学的な意味合いをはっきりさせなければならない。地域通貨の哲学である。
 地域通貨はさまざまなボランティア活動の経済インフラである。その哲学的な意味合いが多くの人に理解され支持されれば,いろいろなボランティア活動が活性化し,「贈与の連鎖」が起って、イキイキとした世の中になるんではなかろうか。私はそういう期待を持っているのである。

 今までも地域通貨については、いろいろと書いてきた。しかし,そのほとんどは,経済的な観点からのもであった。すなわち、現在のように市場経済だけでは格差は拡大する一方であり,それを緩和するために,なんとか贈与経済の部分を入れ込んで・・・・混合経済の状況を作り出さないといけないのではないかというのがその主な論点であった。
 今回ここでは,そういう経済的な側面でなく,哲学的な側面から地域通貨の問題を論じたいと思う。
 ところで、欲望については、森岡正博の「無痛文明論」(2003年10月,トランスビュー)の分類に従って考えるのが哲学的には良いようだ。彼は,欲望を「身体的な欲望」と「生命的な欲望」に分けているのだが,「身体的な欲望」はどちらかといえば先天的な欲求,「生命的な欲望」はどちらかといえば後天的な欲と理解していいかもしれない。マズローの欲求五段階説または欲求7段階説というのがあるが、それらの説では,欲求と欲望の区別がしていないので,哲学的な論考がやりにくいように思われる。私の理解では,欲求とは先天的な欲のことで、欲望とはそれに後天的な欲が加わったものである。「生命的な欲望」には,先天的な欲のほか後天的な欲があるが,その境目のところで,先天的な欲が後天的な欲に変化する場合がある。「生命的な欲望」というのは大変微妙なもののようだ。
 仏教の教えでは108の煩悩があるというが、たしかに人間の 欲望には切りがないようだ。それに対抗するのが森岡正博のいう「生命の欲望」だ。
 「生命の欲望」に「補食の欲望」というのがある。森岡正博の説明は以下の通りである。すなわち、
 『 自分が成功したり,何かを手に入れるためだったら,他人を踏み台にしてもかまわないと思ってしまう本性が,人間にはある。私はこれを「自己利益の本性」と呼んできたが(拙著<引き裂かれた生命>2001年)、この本性を支えているものが「身体の欲望」である。中略。それは,他人が持っているエネルギーや養分や願いのようなものを,この私が吸い取って、私の一部分にしたいという衝動である。ちょうど、おいしそうな動物を捕まえてきて,料理し,それを食べようとするときの、ぞくぞくするような興奮と充実感のようなものを、われわれは、他人が犠牲になるときに,味わっているのではなかろうか。』・・・・と。
『私は思うのだが,この根深い「補食の衝動」のエネルギーを利用して,「身体の欲望」を「生命の欲望」へと転轍することができないだろうか。「補食の衝動」は,他の人間や生命体から,エネルギーや栄養分や願いを奪い取ってきて,自分の中に取り込んで,自分の一部にしたいというものである。このときに、相手を犠牲にするようなかたちでその補食をすると,それは「身体の欲望」の満足へと繋がっていくのであるが,そうではなくて,あいてもまた承諾するかたちでこの補食を行った場合にはどうなるのか、ということだ。』・・・・・と。
 私は,森岡正博のいう「補食の欲望」というものに着目することとしたい。といっても,問題の焦点は「補食の欲望」を「生命の欲望」に転轍するということであって、その可能性を考えてみたいという程度のことだ。
 まず,拠り所になるのは,モースの贈与論(1962年6月初版,2008年6月新装版、勁草書房)である。 モースの贈与論 (新装版のp43~44)を読めば良く理解できるかと思うが,贈与には心がこもっているということだ。心・・・・,それは、贈り手の霊的実在の一部であるが、それが贈与物の霊的実在と一緒になって受け手に手渡されるということらしい。贈与物の霊的実在は,モースの贈与論ではマオリ族の「ハウ」として説明されているが,わが国の伝統文化に照らしていえば,中沢新一のいう「タマ」のことである。以下において,説明の都合上,私は,人の霊的実在を魂(タマシイ)と呼び,物の霊的実在を「タマ」と呼ぶことにする。贈り手の魂は贈与物の「タマ」を引き連れて受け手の魂のところに行くのだ・・・・と考えれば理解しやすいのではないか。私はそのように理解している。
 受け手は、贈られてきたものをさっさと使用すると同時にお返しをしないと、贈り手の魂や贈与物の「タマ」は受け手に祟ることになるらしい。これもモースの贈与論にはここまで書いてないが,私はそう考えている。祟りは恐ろしい。下手をすると死ぬことだってあるのだ。したがって、贈与という行為には「死の観念」が内在している。「死の観念」・・・それが肝心なところである。
 贈与に「死の観念」が内在しているということは,仏の送り手と受け手の間にと魂と「タマ」が介在するのだと考えを進めていけば,貨幣にも「死の観念」が内在しているということが判るだろう。今村仁司がその著書「貨幣とは何だろうか」(ちくま新書、1994年9月,筑摩書房)の中で述べているが,「死の観念」は,一方で墓をつくるように,他方で貨幣をつくるのだそうだ。貨幣とはそういう種類の存在らしい。

 だから,貨幣はさっさと使用しなければならないのだ。貯蓄するなどとんでもない。死ぬようなことはなくとも碌なことはない筈だ。江戸っ子のように宵越しの金は持たない方が良い。貯蓄して利子が利子をよぶなんてことはとんでもないことだ。貨幣を長く持てば,今とは逆に,マイナスの利子がつくぐらいの方が健全なのである。せめて利子はつかないようにしなければならない。それが地域通貨だ。

 地域通貨は,魂のこもった貨幣であり、売り手の魂に作用し,売り手をある種の心理的な束縛下に陥らせる。買い手としては,売り手の魂に働きかけ,「補食の欲望」を満足させるという訳だ。売り手は,その貨幣を長く持っているとやばいので、さっさとその貨幣を使い切る。さっさと「補食の欲望」を満足させるという訳だ。このようにして,「補食の連鎖」が起こっていくのではないか。私の考えでは,地域通貨という貨幣、それは「死の観念」を内在しているのだが,そういうものを介在させることによって,「補食の連鎖」が起こっていく。その連鎖は,「生命の欲望」に転轍されており、社会的意義の高い誠に好ましい連鎖である。

 貨幣というものは特別の価値のあるものである。何とでも交換できるから、金と同じといって良いし,宝物といっても良い。したがって,貨幣を使うということは,本来,贈与なのである。贈与の本質は相手の魂を奪うことであるから,贈与は「補食の欲望」にもとずく行為といっても良い。しかし,贈与を受けた方は,占めたと喜んでいる訳だし,さっさと貨幣を使ってしまう限り,死の恐怖などはまったくない。それどころか,今度は自分でさっさと貨幣を使う(すなわち贈与を行う)という「補食の欲望」を満足させることができる。ここに「補食の欲望」という「身体の欲望」が「生命の欲望」に転轍されている。かくして、「補食の連鎖」は「生命の連鎖」に転轍されるのである。
 森岡正博によれば(「無痛文明論」2003年10月,トランスビュー)、「生命の欲望」には,「補食の欲望」の転轍されたもののほか,「開花の欲望」と「宇宙回帰の欲望」というのがある。前者は禅でいうところの「放下著(ほうげじゃく)」ということ,後者は明恵の「あるべきようは」ということだと思うが,両者とも禅の極意を極めた人とか修験の厳しい修練を極めた人とか,まあ特別の人でないとなかなかできないことである。したがって,現在のような社会,すなわち森岡正博のいう無痛文明や佐伯啓思のいうニヒリズムから脱却するには,私たち一般人ができることは,「補食の欲望」の転轍しかない。今の世の中を良くするために,一部で良いからどうしても地域通貨を導入しなければならないのである。

 森岡正博によれば、共生思想が成熟するということは「身体の欲望」に「生命の欲望」が勝(まさ)るということである。そして,上述のように,地域通貨は「身体の欲望」を「生命の欲望」に転轍させることであるから,共生思想を成熟させるためには, 地域通貨によってボランティア活動を活性化させなければならないということになる。これからの日本が共生思想で生きていこうとするのであれば,これからの日本はどうしても地域通貨によってボランティア活動の成熟を図らなければならない・・・ということになる。
 私は,ボランティア活動の成熟なくして共生思想の成熟はないし,共生思想の成熟なくして高齢者の住み良い町づくりなどできる訳がないと思う。富士の山も一歩からというが,「共生社会,コミュニケーション社会,ネットワーク社会」という人類の大きな目標に向かって,私たちはまずはボランティア活動から始めなければならないのではないか。

ここで念のため,モースの贈与論を補強するものとしてわが国における縄文時代の循環の観念を紹介しておきたい。

東京都北区王子の飛鳥公園の近くにある七社神社前遺跡の土坑墓から誠に貴重な遺物(木の葉文浅鉢形土器)が出土した。小杉康(北海道大学助教授)の解釈によれば,これは回帰的威信財であって、宇宙的な円環に沿って循環し続ける「循環の象徴」であるらしい(「縄文のマツリと暮らし」、小杉康、2003年2月,岩波書店)。
 モースは贈与論の中で「(贈与財は)贈り手に,最後の受け手になった最初の贈り手に対する権威つまり権力を与える。・・・・なぜなら、誰かから何かをもらうことは,その誰かの精神的な本質つまり魂のなかのいくらかを受け取ることでもあるからだ。このようなものを保持しつづけることは危険であり,死をもたらす」・・・と言っている(「貨幣とは何だろうか」、今村仁司、ちくま新書、1994年9月,筑摩書房)。

 わが国においても,縄文時代にこういう循環の観念があったことは面白いではないか。

 ところで、私がここで言いたいのは,私が提唱する地域通貨も、またムハマド・ユヌスのソーシャルビジネスに対する資本投資も、ともに利子なり配当はないので贈与財と考えていいのではないかということと「補食の欲望」が見事に「生命の欲望」に転轍されているということだ。それらは回帰的威信財であって,宇宙的な円環に沿って循環し続ける「循環の象徴」であるということだ。「補食の欲望」が見事に「生命の欲望」に転轍されているが故に,それらは見事に循環するのである。それらが見事に循環するということは、とりもなおさず盛んに仕事が行なわれるということであろう。


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