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2011年5月26日 (木)

第2章第1節 中国山地の小京都

第2章第1節は,今西錦司とのご縁に感謝しながら書いたものです。

2、1 中国山地の小京都

私は今,「<100匹目の猿>が100匹」・・・「リズム人類学のすすめ」を書き終えて,あらためて今西錦司に対する尊敬の念を禁じ得ない。そしてまた、今西錦司の系譜の末席に席を置くことができたありがたさを噛み締めている。京都大学山岳部に席を置いたありがたさのことだ。そんな今西錦司とのご縁を感じながら,そのご縁を得るに至った経緯を第1章の(おわりに)に少し書いたが,ここでは建設省に入ってからの山のご縁を書いておきたい。
私は,建設省に入ってしばらくの間は山に行っていたが,次第に職責が大きくなるにつれて山に行けなくなってしまった。九州の河川部長の時代にもずいぶん九州の山に登ったが,京都大学の山岳部であったことのありがたさを実感したのは広島時代である。岳人の知り合いもたくさんできたし,中国山地は私のふるさとのような感じがする。今西錦司と同じように私も京都の北山に登りながら,自分の住まいの近くに山がないと落ち着かないくらい山が身にしみている。京都は盆地であって山が身近かにあるから落ち着くのだが,中国山地も盆地が多く,何となく居心地が良い。ここではそれら盆地に寄せる私のロマンを語っておきたい。

私は中国建設局長時代、中国地方の地域づくりと取り組んで、中国山地になんどとなく足を運んだ。そして、中国山地がことのほか好きになり、京都と イメージをダブらせながら、中国山地の盆地に強い憧れを持つようになった。いま憶うと、それら小京都とも呼ばれる中国山地の盆地は、ひっそりと落ち着いた 雰囲気を醸す、桃源境の趣きがあった。
私は、京都に生まれ、京都に育った。小学四年生まで安井小学校である。安井小学校というのは、花園と太秦との間にある。蚕の社というのが学校のす ぐ近くにあって、そこの湧水池でよく遊んだ。水泳も嵐山で覚えた。嵐山は歩いて行ける距離にあるので、夏は、毎日のように嵐山に泳ぎに行った。嵐山のあの 付近は、一般的には桂川であるが、地元では大堰川と言う。渡月橋のすぐ上流に今も立派な堰があって、その水面が嵐山の風景を殊のほか引き立てているが、そ の付近には古くから堰があってその名が生じたのであろう。
京都に都が移ったのは1200年少々前。さらにその昔、秦の始皇帝の子孫と言われる弓月君(ゆづきのきみ)が、大勢の人を引き連れて京都に 入ってきたと言われている。それが秦氏の祖先である。秦氏というのは、よく知られているように、機織り、養蚕、潅漑、酒造など、殖産の技術をもって全国に その勢力を拡大していった氏族だ。酒の神様松尾神社は、嵐山のすぐ近くにあるが、秦氏縁りの神社である。嵐山の堰も、勿論、秦氏の造営に始まる。蚕の社 も、秦氏縁りの神社で、松尾神社と同様その歴史は誠に古い。蚕の社で遊び、大堰川で泳いで育った私である。私の歴史好きの源流はこの辺にあるのかも知れな い。
 ちなみに、太秦の広隆寺(蜂岡寺)について言えば、あの弥勒菩薩は、秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から拝領してお祀(まつ)りしたものであ る。秦河勝は、聖徳太子の側近だが、物部守屋との戦いで守屋の首を打ち落とす功績を上げたと言われている。弥勒菩薩はその功績によって拝領したのかもしれ ない。小説「斑鳩の白い道のうえに」に描かれている守屋との戦いに挑む聖徳太子のあの勇姿は、また河勝の姿でもあったであろう。
 京都は、身近な所にごろごろ歴史が転がっており、歴史好きにとっては堪らない。いろんな想像をかき立ててくれる。何となくロマンを感じるのは私だけではなかろう。今も京都に帰ると私は、何となしに落ち着く。それは京都の地形が盆地で、常に周りの山が見えるということもあるが、空気にさえ歴史の重み が感ぜられ、それゆえに落ち着くということがあるのかもしれない。中国山地の盆地、津山、三次、新見、津和野、山口もみなそうだ。
 広島時代、京都の北山に今西錦司さんのレリーフができたことを聞いた。今西さんはこよなく北山を愛しよく出掛けられていた。私など今西さんを引き合いに出す のも畏れ多いが、私も北山が好きで、北山が私の身体にしみついている。私の登山も原点は北山だ。北山の良さは、勿論山の高さでもなく、原生林と言うような 深山の趣でもない。裏山・里山としての気楽さがあり、七重八重と遥かに続く山並みの風景がある。十分ロマンをかき立ててくれる。山高きが故に貴からずとい うところか。
 盆地というものは、そこに古くからの歴史と文化があり、身近な自然がある。京都がそうだし、中国山地の盆地、津山、三次、新見、津和野、山口すべてがそうだ。
 特に津和野は、交流会の仲間がいるせいもあって、とても身近な存在だし、西周(あまね)が我が国における哲学の源流だということもあって、私には ロマンの地だ。津和野は、山陰の小京都として有名である。文化財や神社・仏閣、名所・旧跡が非常に多い。世に珍しいあの鷺舞(さぎまい)は、京都の祇園祭に合わせ行わ れている。私が訪れたちょうどそのとき鷺舞が行われていて、交流会の仲間伊藤龍一郎君が羽織袴を着て、厳かに行列の先頭を歩いていたのを夢のように想い出す。鷺舞は、誠に幻想的なお祭りだ。
 西周、森鴎外、柳田国男も鷺舞を見て、そして近くの神社・仏閣や津和野川で遊んで育ったことであろう。伊藤君のことはだ1章の第13節でも少し触れたが,伊藤君の家は、幕藩時代、「御合薬 所」を営んでいたようで、今も薬局をやっている。彼の家に代々伝わる「一等丸」は、百草丸のようなものだが、私の体質に合っているのか本当によく効く。森鴎外は、戦地では軍医監としてこれを多用してたそうで、兵隊はこれを知らないから、たいがいの病気はこれで治ったのだそうだ。
 津和野には今も歴史が息づいている。津和野の町の空気も、京都と同じように歴史の重みが感ぜられる。こういう落ち着いた雰囲気の盆地に暮らしてい ると、自ずと歴史・文化や自然が身にしみつき、それらと一体になれる。何かが身体の中で静かに発酵しているその音が聞こえる。おそらくは地籟を聞き、天籟 聞いているのだろう。地域思想が生まれ、育つ土壌というものは、こういう閉鎖的で内面的なところではなかろうか。大都会も地域であるには違いないが、騒音の中からは地域思想は生まれにくい。大都会にはコミュニティというものの形成が難しいということがあるが、何よりも、自然を生き、歴史・文化を生きるとい うことが難しい。また、盆地の小都市と同じように自然と歴史・文化に恵まれている小都市も少なくないが、やや雰囲気が異なるのはどうしてだろう。私は、ど の都市に過ごしても、周りが山で囲まれていないと何となく落ち着かない。これはどういうことだろう。閉鎖性と何か関係があるのだろうか。中国山地の盆地の ような小都市こそ、閉鎖的、内面的に落ち着いた雰囲気のなかで、自然を生き、歴史・文化を生きることができるのではなかろうか、私は、そんな気がする。

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