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2011年1月25日 (火)

「違いを認める文化」と「わび・さび文化」

 

「違いを認める文化」と「わび・さび文化」

 

 

 私は先にも述べたが、 少しそれを補強し、哲学的には「違いを認める文化」と「わび・さ び文化」とが同じことであることを説明しておきたい。

  日本人がこれほどまでに自然の造形にこだわった理由はいったい何であっただろうか? それは、日本における四季折々の自然又は気象、そして複雑 な地形や地質といった自然・・・・、それらに順応した生活に起因するのであろう。日本人は、そういう生活の中で、豊かな自然の姿や形に美を見いだし、人の 手で再び自然を写し取ったり「見立て」や「借景」といった日本人独特の自然に対する接し方を会得して、やがて日本人独自の美意識を育み、日本文化を支える 美学が成立したのである。自然を観察する日本人の細やかな情緒性が野辺に咲く山草、雑草や小動物にも目を向け美の対象とした。すべて自然のお陰である。 

 そういった「日本人の感受性」をフラクタル幾何学によって分析すれば、自然における「非対称アシン メトリー原理」にあることが判っている。西洋の美意識が左右対称、いわゆる対称シンメトリーであるのに対し、日本のそれは左右非対称、非対称アシンメト リーであるといわれる。一分の隙もなく完成された左右対称ではなくあえてセンターをはずすことで、完成ちょっと手前の状態にするのが良いとされる。完璧に つくってしまえば、あとは崩れてゆくだけでその先がないから。思えばこの「もうちょっと感のある完璧」は、人にも当てはめられるような気がする。隙のない 完璧を目指す必要はないし、目指したとしてもどだい無理なこと。「ここがもうちょっとだなぁ」をいくつか抱えながらも凛として、地に足のついた自分でいら れれば成功といえるのではないだろうか。人として目指すべきは「日本的完璧」である、

 自然の構造はフラクタル構造であり、そこには「非対称アシンメトリー原理」が働いているのである。 茶の湯文化の茶室の曲がった柱、形がいびつ、ひび割れたうわぐすりが均一でない陶芸作品などは、すべて、非対称アシンメトリーであり、フラクタル構造で表 現できる。

 ちなみに、地球上の自然がすべてフラクタル構造であるのはもちろんだが、宇宙の構造がどうもフラクタル構造らしい。竹内薫は、その著書「宇宙フラ クタル構造の謎(1994年5月、徳間書店)」で、『 世の中すべてフラクタルになっていると言っても過言ではない。(中略) 我々の住んでいる巨大な銀 河宇宙だってフラクタルになっている。それどころか、万物の根源であるミクロの素粒子だってフラクタルになっている。』と言っている。

 フラクタルの発見は20世紀最大の発見と言う人もあるぐらい、フラクタルに関する科学はすばらしい。そのフラクタル理論が「日本人の感受性」の秘 密を解きあかしてくれるのである。フラクタルには、黄金比に深い関係があり、結果として非定形の美にも黄金比が含まれていると言われている。日本文化は、「非定形アシンメトリー文化」であり「フラクタル文化」といってよい。

 

 日本人は、古代から、その中沢新一のいう「流動的知性」によって、ありのまま自然と響きあって、日本人独特の感性を育ててきた。感性だけではな い。考え方、すなわち思考もそうだ。レビーストロースの「野生の思考」といっていいだろう。

 私は、日本の「歴史と伝統・文化」の心髄は・・・・、「違いを認める文化」だと言ってきている。「違いを認める」ということは、上記の文脈でいえ ば、「非対称アシンメトリー原理」が働いているということであり、「流動的知性」が働いていることである。「流動的知性」が働いているという点から言え ば、「わび・さび文化」と言っても或いは「イキの文化」と言っても、それらは同じことでもある。それが「日本人の感受性」である。

 フラクタルから「日本人の感受性」を説明している人はそう多くはないが、ここでは、三井秀樹の語る「日本の美意識」と・・・・藤原歳久の語る「日本の美意識」を 紹介しておきたい。私が言いたいのは、日本の「歴史と伝統・文化」の心髄は・・・・、「違いを認める文化」だが、それは「わび・さび文化」でもあり、また 山折哲雄のいう「無情の旋律」でもある。「日本人の思考」や「日本人の感性」といいうものは、自然がそのまま現れるのである。自然がそうあらしめるのであ る。そう、それが流動的知性というものだ。

 

 それでは、山折哲雄のいう「無情の旋律」を思い起こすために、前に書いた「歴史は終わるか?」と いうページを再掲しておく。山折哲雄のいう「無情の旋律」についてもう一度じっくり考えてみよう。

 私は前に、『 けばけばしい看板や傍若無人な電柱は、少なくとも観光の「道行き」ではただちに排除 しなければならない。日本人のこころというか「日本人の感受性」が正しく伝わるかどうかは、中沢新一の「モノとの同盟」を進める上で、つまり世界平和を実 現する上で、基本的な大問題なのである。』・・・・と述べ、『 21世紀になり、日本人がかつて美意識の拠り所にしていた「わび」、「さび」、「風流」な どといった、造形的な美しさに加わった感受性の重要性が問われている。私は、現代社会において・・・そういった「日本人の感受性」がよみがえる事が世界平 和をつくり出していくし、フランシス・フクヤマがいうような「歴史の終わり」ではなく、未来の世界文明を切り拓いていくと考えている。』・・・・と述べ た。

 また、中村雄二郎は、その著「エッセイー集2・哲学的断章(1993年9月、青土社)」の中で、 『 日常化された社会生活のリズムの彼方に、文化のリズム、自然のリズムを再発見して行くのが、芸術(art)というものであろう。そして、狭い意味での 芸術だけでなく、思想も学問も哲学も、自分自身の中での、文化のリズムや自然のリズムの新たなる接触なしには、真に創造的であることはできない。空間的な もの、視覚的なものに囚われたイメージ論は、時間的なもの、聴覚的なもの、さらにはその他の身体的諸感覚の働きを考慮に入れたリズム論によって、解放さ れ、深められ、展開されるはずである。また、リズムというものがイメージを含んだものであれば、自然のリズム、文化のリズム、社会生活のリズムの重層的な 構造から成り立っているリズムの問題、しかも集団面と個人面とをともに持っているリズムの問題は、その点からも言語の問題と重なってくる。 』・・・・・ と言っている。

 

 以上のように、「わび」、「さび」、「風流」、「粋(イキ)」などといった「日本人の感受性」の問題は、日本の歴史的な大問題であるばかりでなく、未来の世界文 明が切り拓かれるかどうかの人類の大問題なのである。こういうと、誇大妄想的な・・・と思われる方も少なくないであろう。そこで、以下において、山折哲雄 の著書「日本文明とは何か・・・パクス・ヤポニカの可能性(平成16年11月、角川書店)」

 

 フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」という問題意識が、急激に歴史の上に登場してきているが、 山折哲雄はこれに関して次のように述べている。

 『 私の疑問というのは、こうだ。フクヤマ氏のいう通り共産主義の崩壊と冷戦構造の消滅によって、 たしかに「リベラルな民主主義」が最後に生き残りうる統治形態として歴史の最後の段階に浮上してきた。それはそれとして認めるとしよう。しかしながら氏の いうその「リベラルな民主主義」は、これまでの多くの歴史観がしばしば主張してきたように、はたしてこの地球上の各地に噴出してきた「民族」的な紛争要因 と「宗教」的な紛争要因までをも克服し、制圧することに成功するであろうか。近代文明が発展し、近代化のための諸装置がととのえられていくにつれて、それ らの紛争要因を、完全に根絶するところまではいかないにしても、せめて馴致(じゆんち)しコントロールすることに成功するであろうか、という疑問である。

 考えてみるまでもないことだが、これまでの歴史観や文明史観の多くは、それが社会主義の理論にもと づくものであれ、そうでないものであれ、「近代」の段階に入る過程で前近代的な「宗教」と「民族」の要因がいずれ克服され、極小化の方向をとるのだ、と主 張してきた。けれども、そのような歴史記述の常道は、今後もそのまま生きつづけていくのであろうか。そのような楽観的な「近代」歴史観は、その歴史解釈の 真実性をこれまでと同じように今後も維持しつづけることができるのであろうか。

 われわれは冷戦構造が崩壊したあとの世界の歴史的動向が、パレスチナ紛争、チェチェン紛争、湾岸戦 争やイラク戦争をみるまでもなく、世界の各地で民族と宗教による絶望的な対立の状況を生みだしていることを知っている。これまでの楽観的な近代史観や文明 史観が危殆(きたい)に瀕(ひん)している現場をみせつけられ、そのような歴史観を再検討せざるをえない状況に立たされているのではないだろう か。』・・・・と。

 

 『 コジェーブは、「動物性」に逆行しつつある「アメリカ的生活様式」の普遍化、世界化に警告を発 していたのだ。(中略)・・ そして驚くべきことに、そのように書きつけた直後に、かれは「日本」の問題なるものをもち出している。「アメリカ的生活様 式」とは正反対の道をすすんだ「日本の文明」のモデルをわれわれの眼前につきつけるのである。能楽や茶道や華道などの、日本特有のスノビスム(上品振舞 い)というテーマがそれである。(中略) 

 能楽や茶道や華道などの日本特有のスノビスムの頂点(これに匹敵するものはどこにもない)は上層富 裕階級の専有物だったし今もなおそうである。だが、執拗(しつよう)な社会的経済的な不平等にもかかわらず、日本人はすべて例外なくすっかり形式化された 価値に基づき、すなわち「歴史的」という意味での「人間的」な内容をすべて失った価値に基づき、現に生きている。(中略)

 最近日本と西洋世界との間に始まった相互交流は、結局、日本人を再び野蛮にするのではなく、(ロシ ア人をも含めた)西洋人を「日本化する」ことに帰着するであろう。 』・・・・と。

 

 『 眼前に迫りくる世界のグローバリゼーションの大波に抗して立ちつづけようとするとき、すでにわ れわれ自身があのサバイバル・セオリーにがんじ搦(がら)めになっている自画像がみえてくる。「最後の人間」からの脱出口を探し求めて右往左往しているわ れわれの自画像だ。 とすればわれわれははたして、かつて平安時代の三五〇年、江戸時代の二五〇年において実現されたあのパクス・ヤポニカの戦略を今日こ の手で取りもどすことができるのか。明治無血革命を可能にした思想的エネルギーを新たに回復することができるのか。そのように思い屈するとき、この時代の 強大な風圧の下からあの無常セオリーの旋律がきこえてくる。「平家物語」の無常の旋律である。(中略)

 生き残り戦略と無常戦略の対決、そして相互克服の問題である。「歴史の終わり」をのり越えていく第 三の道にかかわる問題といってもいい。それによって「最後の人間」観を塗りかえる転機をつかむことができるかどうか、ということだ。換言すれば、ここでい う生き残り戦略と無常戦略の相反する旋律が、今後はたして調和のとれた二重奏を生みだすことに成功するかどうかということである。(中略) 

 われわれは今日、まさに世紀の分岐点に立たされていると思わないわけにはいかないのである。  』・・・・と。

 

 山折哲雄が言う「無常の旋律」という ものは、私は、結局、「わび」、「さび」、「風流」、「粋 (イキ)」などといった「日本人の感受性」の問題・・・・に通底する問題であると思 うのである。そして、そういった「日本人の感受性」というかわが国の「違いを認める文化」が、世界平和をつくり出していくし、フランシス・フクヤマがいう ような「歴史の終わり」をもたらすのではなく、未来の世界文明を切り拓いていく・・・と考える次第である。

 


 

註:天皇論 の論点整理

「違いを認める文化」の象徴としての天皇

「違いを認める文化」と「わび・さび文化」

○ 天皇と民衆

○ 天皇家はなぜ永く続いたか

○ 歴史は終わるか?

 

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