2019年5月25日 (土)

最初の日本人について(その1)

最初の日本人について(その1)


NHKの「日本人はるかな旅」という特集番組(第1集「マンモスハンターシベリアからの旅立ち)は、ロ シアのバイカル湖地方マクソホン村のマリタ遺跡についての取材もあって、さすがNHKならではの素晴らしい特集番組である。その番組がNHKオンデマンドで見ることができるので、まずそれを見てもらいたい。(註:NHKオンデマンドで見るためには、会員になり料金を払うなど所定の手続きが必要です。)
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2010021817SA000/index.html

 

しかし、それを見ていると私たち日本人のルーツがあたかもロ シアのバイカル湖地方にあると思ってしまう。これは真っ赤なウソである。シベリアが日本の遠い祖先であることに間違いないが、それ以前に・・・南方から黒潮に乗って、日本列島にやってきた海洋民族がいたのだ。

 

私は、すでに論文「邪馬台国と古代史の最新」の第2章第2節に書いたが、 「ヨーロッパ人」と別れて東に向かったホモサピエンスの一団は、大きく二つのルートに分かれる。故郷アフリカの温暖な気候を求め進んだ「南回廊」と、極寒のシベリア平原を進んだ「北回廊」である。 二つの道を別々に歩んだわれわれの祖先たちは、それぞれ旅の途中で人類史上に燦然と輝く偉大な記録 を残している。北回廊を歩んだ人々は、温暖地方でしか生きられなかった人類にとって初めての「寒冷地克服」という快挙を成し遂げた。そして南回廊にコマを 進めた人々は、陸地しか移動できなかったヒトが、初めて海を渡るのに成功するという「海洋適応」を果たしたのである。

 

北回りのモンゴリアンは主としてロ シアのバイカル湖地方に向かい、南回りのモンゴリアンは日本列島に向かい、それぞれ自然条件をうまく克服した結果、人口を急激に増やしていく。そして、ロ シアのバイカル湖地方の人びとは、ベーリング海峡を通ってアメリカ大陸を南下していく。人類はるかな旅の終盤である。

大将軍八神社

大将軍八神社 

平安京の建設とともに造られた道教ゆかりの神社は大将軍八神社のみである。中国は 長安の都にならって、平安遷都にともなって、平安京の西北を守護するために祀られた大将軍信仰の名残である。

大将軍八神社:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/saipaini.pdf

慈覚大師(その6)

慈覚大師(その6)
第2章 京都における慈覚大師ゆかりの地(その1)
第1節 赤山禅院(その1)

赤山禅院の公式ホームページによると、赤山禅院の由緒は次の通りである。
赤山禅院(せきざんぜんいん)は、平安時代の仁和4年(888年)に、第三世天台座主 円仁の遺命によって創建された、天台宗総本山 延暦寺の塔頭のひとつです。
慈覚大師 円仁(794年~864年)は、838年、遣唐使船で唐に渡り、苦労の末に天台教学を納めました。その行程を守護した赤山大明神に感謝し、赤山禅院を建立することを誓ったとされます。
日本に戻った円仁は天台密教の基礎を築きましたが、赤山禅院の建立は果たせませんでした。その遺命により、第四世天台座主 安慧(あんね)が赤山禅院を創建したと伝えられています。
本尊の赤山大明神は、唐の赤山にあった泰山府君を勧請したものです。泰山府君は、中国五岳(五名山)の中でも筆頭とされる東岳・泰山(とうがく・たいざん)の神であり、日本では、陰陽道の祖神(おやがみ)になりました。
赤山禅院は、平安京の東北にあり、表鬼門に当たることから、赤山大明神は、皇城の表鬼門の鎮守としてまつられました。
以来、皇室から信仰され、修学院離宮の造営で知られる後水尾天皇(1596~1680)が離宮へ行幸された際、社殿の修築と「赤山大明神」の勅額を賜っています。
現在も方除けのお寺として、広く信仰を集めている由縁です。

また、赤山禅院は、
●天台宗随一の荒行、千日回峰行の「赤山苦行」の寺
●千日回峰行を満行した大阿闍梨により「ぜんそく封じ・へちま加持」「珠数供養」「泰山府君祭」をはじめとする加持・祈祷が行われる寺
●全国の七福神めぐりの発祥とされる都七福神のひとつ、福禄寿の寺
●「五十(ごと)払い」の風習の始まりとなった、商売繁盛の寺
としても知られています。
開創以来、1100年以上もの長い歴史を経て、赤山禅院には数々の由緒が重なり、さまざまな信仰を集めています。

 

公式ホームページの赤山禅院に関する説明は以上であるが、他のいろんなホームページを見ても、公式ホームページ以上の詳しい説明がなされているものはない。公式ホームページによる説明がいちばん詳しい説明であるようだ。しかしながら、次の説明はまことに簡潔な説明になっているとはいえ、疑問に思う点がいくつかある。例えば、「円仁という人はどのような人か?」「円仁は、唐からの帰国後なぜ赤山禅院を建立することを誓ったのか?」「泰山府君とはどのような神なのか?」「日本において、泰山府君がどのような経緯で 陰陽道の祖神(おやがみ)になったのか?」「千日回峰と赤山禅院との関係?」「赤山禅院がなぜ商売繁盛の寺となったのか?」などについて、もっと詳しい解説がないと、赤山禅院の真の姿を理解したことにならないように思う。そこで、以下において、私なりの詳しい解説を試みようと思う。

まずは以前に書いた赤山禅院に関する私のホームページを振り返ってみたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/tabi/heian1.html


http://www.kuniomi.gr.jp/togen/tabi/heian2.html


http://www.kuniomi.gr.jp/togen/tabi/heian3.html


これらのホームページを見ていただければ、上記の疑問のある程度の部分は解消されると思うが、以下において逐次より突っ込んだ解説をしていきたい。

2019年5月24日 (金)

地域再生・イタリアに学ぶ(その18)

地域再生・イタリアに学ぶ(その18)

第2章 逆境がまちを強くする(その8)
第3節 スローシティ(その1)


志子田徹(しこたとおる)は、「ルポ 地域再生」(2018年2月、イースト・プレス)の中で、「スローシティ」についていろいろと詳しく述べている。それを適宜ピックアップしてみよう。

サトゥルニーさんのグレーヴェ・イン・キャンティでの取り組みの集大成が「チェッタスロー」だ。日本では英訳された「スローシティ」と紹介されることが多いので、ここでは「スローシティ」という言葉を使う。「スローシティ」は経済成長や開発よりも、人間らしい暮らしを守ることや、量より質を重視した生活の実現を最優先するまちづくりの運動である。
サトゥルニーさんがイタリア国内の四つのコムーネ(基礎自治体)に呼びかけ、1999年に「スローシティ協会」を設立した。本部はイタリア中部の観光都市オルヴィエートに置き、サトゥルニーさんは今でも名誉会長を務めている。
設立すると瞬く間に世界中から注目された。2017年12月現在で30カ国、236都市が加盟し、年々増え続けている。日本では宮城県気仙沼市が加盟第1号で、2017年5月に群馬県前橋市赤城地区が加盟した。


註: キャンティー(Chianti)地方は、前節で述べたように、 Greve in ChiantiやCastellina in Chianti、Radda in Chianti ならびにその周辺を含めた地域の総称であるが、
「アグリツーリズモ」発祥の地であり、「アグリツーリズモ」のもっとも人気のある地方である。

サトゥルニーさんは、その中のGreve in Chianti(グレーヴェ・イン・キャンティ。人口1万4000人の町。)で生まれ(1950年)、町長をやった人で、志子田徹(しこたとおる)は、「ルポ 地域再生」(2018年2月、イースト・プレス)の中で。『 サトゥルニーさんは1990年から14年間、町長を務め、1999年には景観を保全する独自の規制条例を条例をつくった』と紹介している。


「スローシティ協会」の呼びかけ人はグレーヴェ・イン・キャンティ町長のサトゥルニーさんである。それなのに「スローシティ協会」の本部が何故オルヴィエートにあるのかよく判らないが、オルヴィエートがグレーヴェ・イン・キャンティより人口が倍近くの大きな町であること、オルヴィエートがグレーヴェ・イン・キャンティより有名な観光都市であること、グレーヴェ・イン・キャンティがもともとスローシティ運動の盛んなとことなどが考えられる。

ヨーデル(その3)

スイスヨーデル祭り

https://www.youtube.com/watch?v=l5kJzajgavQ

2019年5月22日 (水)

大覚寺

大覚寺

 

延暦13年(794)、桓武天皇は「山背」を「山城」と改め、新都・平安京に遷都する。桓武天皇ののちに即位した平城天皇は、病身のため弟の嵯峨天皇に在位わずか3年で譲位するが、平城上皇の平城古京への復都、薬子の乱などの政変によって政局は動揺していた。
遷都から15年、大同4年(809)に即位した嵯峨天皇は、律令よりも格式を中心に政治を推し進め、ようやく平安京は安定をみる。 一方で嵯峨天皇は、都の中心より離れた葛野の地(現在の嵯峨野)をこよなく愛され、檀林皇后との成婚の新室である嵯峨院を建立、これが大覚寺の前身・離宮嵯峨院である。


大覚寺: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/daikakuji.pdf

 

慈覚大師(その5)

慈覚大師(その5)
第1章 入唐求法巡礼行記(その3)

帰国の旅の苦難
当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安も悪化、不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁の長安暮らしを支えた長安在留の新羅人たちが主であった。情け として絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島の新羅人の町・赤山まで歩いて戻った。
この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。
「円仁が無事生きている」という情報は日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に砂金弐両と大坂腰帯 を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』承和14年(847年)9月19日条)。日本政府は円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の記述を終えている(『行記』承和14年(847年)12月14日条)。54歳。

地域再生・イタリアに学ぶ(その17)


地域再生・イタリアに学ぶ(その17)

第2章 逆境がまちを強くする(その7)
第2節 まちやど協会(その3)

「まちやど」の判りやすいイメージは次のようなものである。

http://machiyado.jp/about-machiyado/

 

なお、「日本まちやど協会」のホームページは次の通りである。

http://machiyado.jp/

 

志子田徹(しこたとおる)は「ルポ 地域再生」(2018年2月、イースト・プレス)の中で2017年9月の設立記念イベントについてもふれ、理事の一人、香川県高松市郊外でまち全体を旅館に見立てる「仏生山まちぐるみ旅館」に取り組む岡昇平さんの挨拶を紹介している。

岡昇平さんは『 観光のためのまち、利益を優先したまちは、かえって自分たちの暮らしを犠牲にする』と話し、暮らしの豊かさを大切にするまちづくりを訴えた。


では最後に、岡昇平さんの進める「仏生山まちぐるみ旅館」のホームページを紹介しておこう。

https://colocal.jp/topics/lifestyle/renovation/20151014_55280.html

 

ヨーデル(その2)

サンドオブミュージックより人形劇

https://www.youtube.com/watch?v=aQ0MI_ilkGE

2019年5月20日 (月)

船岡山

船岡山

船岡山は、平安遷都の際、都市計画の起点になったところで、風水思想での「竜頭」に当たる大変意味のあるところだ。
ぜひ、船岡山の頂上に立つと同時に、建勲神社の摂社である船岡妙見社と命婦稲荷社に訪れてください。


船岡山:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hunaokayama.pdf

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