2009年7月 5日 (日)

山の神は女性か

 狐は、狼がそうであるように、神のご眷属であり、神そのものではない。稲荷信仰では狐がご眷属というか神の使いとして極めて重要な役割をしている。狼がご眷属の神は現在それほど多くはないが、狐がご眷属の稲荷神社は全国に約3万社あり全神社数の約3分の1を占めている。1万〜2万社といわれる八幡神社もその数は非常に多いが、こちらの方はハトがご眷属である。そのほか、春日大社のシカ、日吉神社のサル、熊野大社のカラスなどが有名であるが、ご眷属で「古層の神」につながるのは狐と狼のみである。前に述べたように、柳田国男によれば、狐信仰も狼信仰も、そのルーツを辿れば山に行くようである。 山の神に対する信仰、それが狐信仰や狼信仰の原姿である。
 ところで、私は、先に書いた「 マダラ神( 地の神)と妙見さん(天の神)との結びつき」というページで、『 マダラ神は、変幻自在にいろんなものに姿を変え、宇宙のどこかから突然私たちの前に現れ出てくる。そういう意味で、マダラ神の本質はその宇宙性にある。誠に摩訶不思議な神である。』・・・と述べたが、山の神というのもあらゆる信仰の原姿であり、本来、女性的な性格と男性的な性格と両方を持っている筈である。しかし、縄文時代が進んで・・・農耕社会が始まると、次第次第に・・・山の神は女性的な神に特化して行くようである。
 柳田国男は、 昭和6年10月に書かれた「狼と鍛冶屋の姥(うば)」という論考(「定本・柳田国男全集・第8巻」、昭和44年1月、筑摩書房)の中で、次のように述べている。すなわち、
『 野洲那須郡では清水文彌翁の郷土史話に、毎年4月8日から月末までのうちに、狐様山犬様の初衣祝(うぶぎいわい)と」称して、村内各戸より米銭を集め、油揚わかさぎなどを調理して狐塚に供える。これをするのは狐山犬が、いたづらせぬようにという趣旨であったとある。この記事はちょっと混乱しているからもういちど聞き合わす必要があるが、とにかくに狐だけでなく狼にも物を送り、それを初衣祝(うぶぎいわい)と名付けていたことはあるらしいのである。陸前の狼河原(おいぬがわら)をはじめとして、狼をよく祭らぬと野獣の害が怖いといって、食物を供していた習慣は方々にあるが、それのみでは特に人間と同様に産養(うぶやしな)いの礼儀を守っていた理由は解釈し得ない。関西に広く行なわれている寒中の狐施行(きつねせぎょう)にも、稲荷下(いなりおろ)しを頼んで狐の口を寄せるとき、まずご眷属が何人いるかを尋ねて、食物の分量を多くしたり少なくするのは普通であるから、この二つの贈遺は起こりにおいて似寄ったものであったらしい。そうして自分はその起源を山の神の信仰と見ているのであるが、これも「山の人生」にあらまし述べたから、この場合にはあまり深入りしない。』・・・・と。
 柳田国男の「山の人生」におけるひとつの課題は、「何故多くの山の神が女性であったのか」ということで、その論考の中で、前に紹介した三峯神社の御産立(おこだて)の神事が詳しく述べられている。
 なお、農耕社会において地の神が女性であることは、「宗教、原始形態と理論」(監訳者柳川啓一、1976年11月、東京大学出版会)にも書かれているので、ここにそれを紹介しておきたい。すなわち、
『 (前略)農業文化ないし耕作社会の宗教においては、春の植え付けと秋の収穫の循環や、自然の再生と生産の力が強調される。この場合の中枢的な象徴は天ではなく地であり、男性ではなく女性である。そして、特に出産、生殖力、成長、成熟などが重視される。この場合には、女神が男神よりも重要な役割を担う。種々の農耕社会の宗教は、「小麦の母」や「穀物の母」などのような、大女神の象徴を対象として形成される場合が多い。文明社会の宗教を見ても、ギリシャのアルテミス、デメテル、ヘカテ、ペルセフォネ、ローマのディアナ、シピレ、インドのカリ、スメルのイナンナ、アッシリア.バビロンのイシュタル、エジプトのイシスなどの「大母神」が知られている。』・・・と。

 さああ、それでは・・・これから皆さんを・・・上野のお稲荷さんにご案内するとしましょうか。原姿の神さんです。
ここをクリックしてください!
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hanazo.html

2009年6月27日 (土)

「共生」のシンボル・狐

 縄文時代、農耕が始まるにつれ畑には野ネズミが繁殖し、それを捕食してくれる狐は、猫とともに、豊作をもたらすもっとも身近な益獣であると・・・里の人々には認識さていたと思われる。特に、狐については、狐火などの誠に不可思議な現象もあり、祟り神的な側面を持つ存在として土着の神・地の神となったのではないか。「古層の神」としての地の神・石棒に対する信仰は、ここに至ってはじめて狐信仰と習合するようになったと・・・私は考えている。
 狐と猫は野鼠を補食するという点で共通点がある。柳田国男は、 昭和6年10月に書かれた「狼と鍛冶屋の姥(うば)」という論考(「定本・柳田国男全集・第8巻」、昭和44年1月、筑摩書房)の中で、次のように述べている。すなわち、
『 猫と狼とが交わりを結んだ話はまだ知らぬが、狐とはたびたび一緒になって遊んだという噂が残っている。西田直養翁は九州の学者だが、その随筆の筱舎漫筆に、ある人、月夜に、猫と狐とが、並んで踊っているのを正しく見たという話を載せている。(さらに話は続くが省略)』・・・・と。
 また、上記の論考によれば、狼信仰より猫信仰のほうが古いので、かかる共通性を考慮すると、狐信仰も狼信仰より古いものと思われる。
 さて、前にも述べたが、今ここの脈絡で、まず小林達雄の「縄文の思考」(2008年4月、筑摩書房、ちくま新書)のなかから、私がもっとも注目している「ハラ」というものの説明を行なっておきたい。

*ハラは、単なるムラを取り囲む、漠然とした自然環境の広がり、あるいはムラに居住する縄文人が目にする単なる景観ではない。定住的なムラ生活の日常的な行動圏、生活圏として自ずから限定された空間である。世界各地の自然民族の事例によれば、半径約5ないし10キロメートルの面積という見当である。ムラの定住生活以前の600万年以上の長きにわたる遊動的生活の広範な行動圏と比べれば、ごく狭く限定され、固定的である。いわばムラを出て、日帰りか、長引いてもせいぜい1、2泊でイエに帰ることができる程度ということになる。
 つまり、ハラはムラの周囲の、限定的な狭い空間で、しかも固定的であるが故に、ムラの住人との関係はより強く定着する。
 ハラこそは、活動エネルギー源としての食料庫であり、必要とする道具のさまざまな資源庫である。狭く限定されたハラの資源を効果的に使用するために、工夫を凝らし、知恵を働かせながら関係を深めていく。こうして多種多様な食料資源の開発を推進する「縄文姿勢」を可能として、食料事情を安定に導いた。

*縄文人による、ハラが内包する自然資源の開発は、生態系的な調和を崩すことなく、あくまで共存共栄の趣旨に沿うものであった。食料の味わい一つとっても、我々現代人と同様に好き嫌いがあったに相違ないのに、多種多様な利用を旨としたのは、グルメの舌が命ずる少数の種類に集中して枯渇を招く事態を回避する戦略に適うものであった。これは高邁な自然保護的思想に基づく思いやりというのではない。好みの食料を絶滅に追い込むことなく連鎖によって次々と他の種類に波及して、やがて食料だけでなく、ひいては自然を危なくするという事態を避けることにつながる。多種多様な利用によって、巧まずしてこのことが哲学に昇華して,カミの与えてくれた自然の恵みを有り難く頂戴させていただくという「縄文姿勢方針」の思想的根拠になったとみてよい。ハラそのものを食料庫とする縄文人の知恵であり,アメリカ大陸の先住民の語り口にも同様な事情を窺い知ることができる。

*西アジア文明につらなるヨーロッパにおいて,ハラの主体性を認めず,農地拡大の対象と見なす思想とは対立的である。

*ハラを舞台として,縄文人と自然とが共存共生の絆を強めていくのは,(中略)1万5000年前に始まり,1万年以上を超える縄文の長い歴史を通じて培われ,現代日本人の自然観を形成する中核となった。

*森には森の精霊がいる。縄文人がハラと共存共栄するというのは、ハラにいるさまざまな動物,虫,草木を利用するという現実的な関係にとどまるのではなく,それらと一体あるいはそこに宿るさまざまな精霊との交換を意味するのである。


 「縄文の思考」である「ハラ」についての小林達雄の説明は以上であるが,日本の農村集落の構造は,中心にムラがあって,その周囲にノラがある。さらにその向こうがハラであるが,そういうムラ構造の起源は縄文時代までさかのぼるのである。

 「ハラ」は、狐の主たる棲息地である。鼠は家との関係が強い。狐は猫より野性的であり、その生息地が「ハラ」であること、さらには狐火など神秘的な面が多いことなどを考えれば、私は、「共生の思想」のシンボルに狐はなり得ると考えている。両義性のシンボルでもあり、マダラ神や摩多羅神ともイメージがダブって来る。狐信仰を語る時、私たちは、「古層の神」として狐を語らねばならない。「後戸の神」としての狐を語らねばならない。「ハラ」における狐の繁殖を図らねばならない。と同時に、私たちは、「野」や「ハラ」に出かけて行って大いに狐に騙されなければならないのである。

 さあ、ここで、私の狐に関する自慢のホームページを見ていただきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kituneuti.html

2009年6月16日 (火)

妙見信仰と狼信仰

 私は前に、ハイデガーの概念である「過在、現在、将来」という言葉を使いながら、『 将に来たらんとする近い将来を少しでも良くするために、大昔ではあるがその痕跡が今なお残っている過在をよくよく調べながら、それを活かして現在を生きていかなければならない。現在を生きるということは、過在を生きることでもあり、将来を生きることでもある。かかる観点から、私は、妙見信仰やマダラ神などの「古層の神」に焦点を当てて、宗教の問題とも取り組んでいきたい。』・・・と述べた。
 ところで、大昔の痕跡は、現在、昔話の中にその痕跡が残っているが、その過在をよくよく調べながら妙見信仰につながる「古層の神」のことを考えた最初の人は柳田国男であるらしい。柳田国男によれば、山の人の妙見信仰が里に下りてきて狼を神のご眷属とする狼信仰に変じたらしい。秩父地方では、今なお、狼を神のご眷属として祀る信仰が息づいている。
 柳田国男には、昭和6年10月に書かれた「狼と鍛冶屋の姥(うば)」という論考がある(「定本・柳田国男全集・第8巻」、昭和44年1月、筑摩書房)が、それには次のような記述がある。すなわち、
『 いわゆる千疋(せんびき)狼の説話の起こりに関しては、すでに南方熊楠氏がいろいろの類型を挙げて、そういう口碑の発生し得べく、また流布し得べかりし事情を説いておられる。説話の移動ということは日本一国だけでも、十分これを信ずべき証拠があるが、ただその根源を記録の古今のみによって、推定することは無理だと思う故に、自分らは翻って末端の方の現実から、逐次にその渡来の方角を考えて行こうとしているのである。土佐の東の境の山地に、千疋狼の説話が分布しているということは、まずその理由を極めねばならぬ眼前の事実であるが、これには幸いにして必ずしも普通でない三通りの特徴を具(そな)えている。そのひとつは被害者が産婦であってしかも最後に難を免(まぬか)れて平産したこと。第2には狼が化けていたのは鍛冶屋の姥(うば)で、その家址(いえあと)は今でも遺(のこ)っていること。第3はもっとも重要な点で、ここでは(注:柳田国男は「ここ」という字に「援」の作りを使っているが、自分の手繰り寄せた・・・今ここで論考しようとしている問題は、・・・というニュアンスがある。)この説話が伝説と化し、杉の樹の根株を削って安産の護符にする習俗と結びついて、今もかってあったことのように考えられていることである。私の新たに考えてみようとするのは主としてこの点で、それだけは未だ南方氏も触れていなかった。』・・・・と。
 千疋の狼の首領については、この種の説話ではほとんどの場合姥(うば)に化けて里の人間社会に住んでいるのだが、狼が化けている場合と古猫が化けている場合がある。「狼と鍛冶屋の姥(うば)」という論考で柳田国男の言いたいところは、そのような狼や古猫は、化け物になったりする怖い動物ではあるが人間社会に欠くことのできない益獣でもあるが農業または養蚕などの被害をなくすためにそれらを祀るために狼の宮や猫の宮を創るという事例も少なくないということだ。そして、柳田国男のすごいところは、その狼の宮や猫の宮と妙見山との位置関係を調べ、狼の宮や猫の宮における信仰が妙見信仰に繋がっていることを見抜いたところだ。
 なお、狼の宮や猫の宮の話とは別に、「狼と鍛冶屋の姥(うば)」という論考では、「狼の産見舞(さんみまい)」の話が述べられているので、ここに紹介しておきたい。すなわち、
『 (前略)狼の産見舞(さんみまい)と名付けて一年に一度食物を器に入れて、山に持って行って狼のおりそうなところにおいてくることであった。これが狼に逢って手渡しするのでもなければ、また実際に安産のあることを確かめての上でのなかったのは、少しくその言い伝えを注意してみればわかる。東京の近くで有名なものは、武州秩父の三峯さんであるが、これは三峰山誌にも、また十方菴遊歴雑記(三篇中巻)にも詳しく出ていて、近頃まで行なわれていた式であった。ある夜狼の異様に吠える声を聞くと、それでお産のあったことを知って、翌日は見舞いに行くのだといい、また山中に特に清浄に草木を除いた一地のあるのを見つけて、そこに注連を張って、酒と食物を供して来るともいい、これを御産立(おこだて)の神事と言っていた。(後略)』・・・・と。

 狼は、怖い面がない訳ではないが、何となく親しみの持てる動物ではある。山における生態系の頂点にいて、日本の山を良くするためにその復権を果たさなければならないのではないか。日本には、「日本オオカミ協会」というのがあって、私もその会員である。そこで、私は、この際、その「オオカミ協会」の呼びかけを紹介しておきたい。すなわち、
『 ほんの100年前まで、日本の森にもオオカミが住んでいました。オオカミはサルやシカやイノシシなどと共に森の重要な構成メンバーでした。農耕民族である日本では、江戸時代まで、オオカミは田畑を荒らす獣を退治してくれる守護神でした。一方、牧畜民族である西洋では、オオカミを憎み、誤った恐怖心を募らせて徹底的に虐殺して来ました。

20世紀、人は人の利益のためだけに自然環境を改変し、産業を発展させ、爆発的に人口を増やして、おびただしい生物を滅ぼしてきました。そして、かつて北半球の広域に分布していたオオカミを、絶滅の危機にまで追いやりました。しかし、1970年代からは、オオカミを保護し回復させる運動も、世界各地で活発化しています。

オオカミがいなくなった日本の森では、シカやイノシシの数が殖えすぎて、森林生態系にひずみが生じ、その破壊が進んでいます。これは生きとし生けるもの全てに関わる重要な問題です。オオカミが森で果たしていた役割を、もう一度考え直そうではありませんか。

小鳥がさえずり、シカが飛び跳ね、サルやクマが木の実を探す昼間の森、キツネやタヌキが渉猟し、オオカミが遠吠えする夜の森。森のメンバー全員がそろっていなければ、完全な生態系とは言えないのです。

アメリカでは、近年、複数の州でオオカミを再導入しました。今では徐々に定着して繁殖し、大勢の人々がウルフ・ウォッチングに集まって、人との共生が始まっています。新しい文化の創造です。

1993年、「日本オオカミ協会」は、オオカミに対する誤解と偏見を解いて、その生態を科学的に正しく伝え、世界中のオオカミの保護と復活ために活動を始めました。ここに集い、情報を分かち合って、「森・オオカミ・ヒトのよい関係」を考えましょう。 』・・・・と。
http://www.japan-wolf.org/

2009年6月 8日 (月)

文化としての宗教

 日本は世界で唯一の原爆被爆国であり、世界平和への貢献が国是であると思う。世界の貧困問題とどう向き合うかという問題などさまざまな課題があるが、まず、日本は、世界の人々に日本というものを知ってもらわねばならない。日本人というもの、日本の文化というものを知ってもらわねばならない。かかる観点から、私は、文化面に重点を置いた文化観光に国として力を入れていかねばならないと考えている。文化観光の眼目はいうまでもなく「歴史と伝統文化」をどう見せるか・・・である。

89434276ここで歴史とは、どこまで遡ったものをいうのか? 私は前に次のように書いた。すなわち、
『 アナール派の代表的な存在として鶴見和子がつとに有名であるが、彼女の考えていたように、歴史の主体をエリート ではなく常民にみる点、行為を駆動するものとしてイデオロギーより情動に注目する点、歴史が進化や段階を経ると見るのではなく、古いものの上に新しいもの が積み重なっていくと見る視点(「つららモデル」)は誠に大事である。人生もそうであるが、歴史というものは、過去、現在、未来とつながっており、その繋 がりというものを考えねばならない。過去は未来のためにある。ところで、「つららモデル」を持ち出すまでもなく、人々が行き来する道というものは石器時代 から相当永く続いているのだと思う。「つらら」の痕跡がまだあちこちに散らばっている。それを拾い集めなければならない。

Aa115そして、私たちは、アースダイバーと なって、万年前のことに思いを寄せなければならないのである。旧石器時代の湧別技法という最先端技術が北海道からこの日本列島をどのように南下していった か。下北半島から、鹿角、角館、大曲、横手、湯沢、新庄、山形、米沢、会津に行く場合、うまく山脈を避けながら、野山を比較的容易に歩くことができる。会津からが大変なのだ。たびたび言っているように、集落のまだ発達していない旧石器時代は、河川のほとりに船があるわけではないので、大河川はその上流でし か渡れない。湧別技法集団が日本列島を南下するには、会津から越後に出るのがもっとも良い。そして、千曲川の右岸を遡(さかのぼ)り、八ヶ岳は野辺山に向 かうのである。その難所が只見川の源流ということになる。したがって、会津は北の文化の集中するところとならざるを得ない。私は、会津は旧石器時代から東 北でもっとも進んだ地域であったと思う。雄物川の右岸の河岸段丘にある塩坪遺跡( 高郷村 )は福島県を代表する旧石器時代の遺跡であり、今から15,000〜14,000年前のものと考えられている。笹原 山遺跡は、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、奈良時代、平安時代のものが重層的に出土している全国的にも数少ない複合遺跡 である。
http://inoues.net/club/aizu_museum.html

 また、前に述べたように、只見川の流域は縄文文化のメッカである。会津は、このように 旧石器時代から東北でもっとも進んだ地域であり、ここを中心として北の文化が日本各地に拡散していったし、稲作文化もここを中心として東北各地に拡散して いった。会津は日本文化にとってかけがいのない地域である。東北を勉強するにはまず会津を勉強しなければならない。』・・・・と。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/aitenkai.html

 ここで、ハイデガーの考えを取り入れ、この際、上の文中、過去は過在、未来は将来と訂正しておきたいが、過在は少なくとも縄文時代であり、「古層の神」についても、その痕跡を求めて東北地方を旅しなければならない。
 さて、将に来たらんとする近い将来を少しでも良くするために、大昔ではあるがその痕跡が今なお残っている過在をよくよく調べながら、それを活かして現在を生きていかなければならない。現在を生きるということは、過在を生きることでもあり、将来を生きることでもある。かかる観点から、私は、妙見信仰やマダラ神などの「古層の神」に焦点を当てて、宗教の問題とも取り組んでいきたい。
 宗教は必要か??? 必要に決まっている。私はそう思うのだが、国としての取り組み、都道府県としての取り組み、市町村としての取り組みは極めて希薄ではないか。私は、文化観光の旗を降っている。技術や芸術と並んで、宗教も文化の重要な要素である。
 ところで、「宗教は必要か」という立派なホームページがあって、そこに宗教の定義が紹介されている。ここに再掲しておく。
岸本英夫:「宗教とは、人間生活の究極的な意義を明らかにし、人間の問題の究極的な解決にかかわりをもつと、人々によって信じられているいとなみを中心とした文化現象である」
柳川啓一:「世界には日常の経験によっては証明不可能な秩序が存在し、人間は神あるいは法則という象徴を媒介としてこれを理解し、その秩序を根拠として人間の生活の目標とそれを取り巻く状況の意味と価値が普遍的、永続的に説明できるという信念の体系をいう」
http://homepage3.nifty.com/bunmao/0214.htm

 そして、そのホームページの作成者、立派な大学教授らしいがその方は、次のように言っておられる。すなわち、
『 岸本さんと柳川さんの違いは、岸本さんは「究極的」ということを真先に持ち出すのに対して、柳川さんは、それよりも「日常の経験によって証明不可能な秩序」という点に力点を置いていることだ。つまり、非日常的な領域を認め、それが人間の生き方の根本にかかわってくるという認識だ。「究極的」かどうかなんて、なかなか分らないから、柳川さんのように、そんなことは言わないほうがわかりやすいように思う。』・・・と。

 宗教も文化の極めて重要な要素である。そうだとすれば、文化観光において宗教とまともに向き合わねばならない。その際、私は、妙見信仰やマダラ神などの「古層の神」に焦点を当てて、宗教の問題と向き合うのがいちばん良いのではないかと考えている。その理由は、先に述べたように、 妙見信仰やマダラ神などの「古層の神」には、世界性のみならず哲学性というか宇宙性があるからである。

 ここでもういちど中沢新一の言葉を噛み締めておきたい。
『「古層の神」としての本質を持つ宿神という存在が、猿楽を日本文化のアイデンティティの向こう側に広がる、広大な人類の神話的思考の領域に連れ出して行くのと一緒に、それを東北アジアの古代文化に、さらには環太平洋神話学の広大な世界へといってしまうのである。』

 日本型ジオパークなど「歴史と伝統文化」に重点を置いた文化観光においては、人類の神話的思考の上に立って日本の「歴史と伝統文化」を考えねばならないだろうし、東北アジアの古代文化との繋がり、環太平洋神話学との繋がりを十分意識しなければなるまい。

2009年5月30日 (土)

マダラ神と妙見さん(天の神)との結びつき

 ここしばらくオバマ大統領に対する私の期待を述べてきましたが、ふたたび「古層の神」の話に戻ります。今日は5月5日のブログ「妙見信仰の世界性」の続きです。

 先に述べたように、中沢新一は、 金春禅竹の考えを推し量り、『宿神である「翁」は北極星』と言い切っているが、山本ひろ子はその著書「異神」(1998年3月、平凡社)の中で、摩多羅神=非北極星説を唱えている。どちらが正しいのだろうか。なるほど、金春禅竹はその著書「明宿集」のなかで、「翁」=宿神と言い、『 太陽、月、星宿(星宿神=北極星)の意味を込めて、宿神・・・・云々。「宿」という文字には、星が地上に降下して、人間に対してあらゆる業を行なうという意味が込められている。』・・・と言っているので、中沢新一の解釈はごく自然である。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/maramyou.html

 しかし、縄文の神・星の精(神)がなぜ摩多羅神と結びついているのかという説明はできていないように思われる。また、山本ひろ子の非北極星説も、天台密教の儀式にもとづいて論を展開しているので、これもまた縄文の神・星の精(神)が摩多羅神と結びついているのかいないのかという論考にはなっていないように思われる。
 摩多羅神の原姿は、先にいろいろ勉強したとおり、縄文の神のうち、「天の神」=星の精(神)と対極的に存在する「摩訶不思議な神」=石棒である。この「摩訶不思議な神」=石棒がどのようにして「天の神」=星の精(神)と結びつくのかという説明がなされないと、摩多羅神=北極星ということの説明にはならない。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/seireo00.html

 石棒など摩訶不思議な神々について、次に掲げるページは、私の旅のページであり、面白いので是非ご覧頂きたい。

●胞衣(えな)信仰

●柳田国男と胞衣(えな)信仰

●富士見町・井戸尻遺跡

●須玉町歴史博物館

●日光の陰・礼讃

 さて、今ここで私のいちばん言いたいことは、柳田国男と胞衣(えな)信仰に出てくる「富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏」において、ミシャクジは、古くから信仰されてきた土着の神であり、石棒や丸石などが御神体とされる・・・ということである。このご神体は、土地精霊と見られている原姿の神で、諏訪大社によって祀られてきた神としてもよく知られている。
 次に、諏訪大社といえば、御柱(おんばしら)が有名であるが、 御柱(おんばしら)は神が降臨する依代(よりしろ)といわれている。神が降臨する依代(よりしろ)としての 御柱(おんばしら) ・・・・、これが二番目に言いたいことだ。
 伊勢神宮にも心御柱というのがある。心御柱を伐り出す「木本祭」は、神宮の域内で、夜間に行われ、それを建てる「心御柱奉建祭」も秘事として夜間に行われる。すべて、非公開で、しかも、夜間にのみ行われるというのは異常だ。もし心御柱が精霊(神)だとすれば、異常な神、すなわち異神であり、山本ひろ子の言う異神・摩多羅神と同じではないか。しかも、猿田彦神社の宇治土公宮司に聞いた話によると、伊勢神宮でもっとも重要な行事であり、猿田彦神社の宇治土公宮司がそれを司祭するのだそうだ。隠れているということで摩多羅神とイメージがだぶり、猿田彦ということでシャクジンとイメージがだぶっている。誠に不思議な心御柱ではある。

 私は、祭祀として立てる柱は、環状木柱列遺跡の柱なども含め、神が降臨する依代(よりしろ)であり、縄文人の観念としては、天の神と地の神をつなぐ通路であったと思う。その通路によって、天の神と地の神は合体し威力はさらに強大なものとなる。私は、縄文人はそんな観念を持って柱を立てたのだと思う。
 上述のように、金春禅竹は、「星が地上に降下して、人間に対してあらゆる業を行なう」と考えていたが、その通路が柱であったり、先に述べた堀田総八郎のいう「天文祭祀線」であったりしたのであろう。いずれにしろ、星が地上に降下して、地の神と一体になって人間に対するあらゆる業を行なったのである。

 かくして、マダラ神は、天の神・妙見さんと結びつくのである。 マダラ神は、変幻自在にいろんなものに姿を変え、宇宙のどこかから突然私たちの前に現れ出てくる。そういう意味で、マダラ神の本質はその宇宙性にある。誠に摩訶不思議な神である。妙見さんは、本来、私たちの生活に直接役に立つ身近な存在であり、庶民的である。そして、その世界性に本質的な特徴を持っているのだが、マダラ神と結びつくことによって、さらに奥行きを増し、哲学性というか宇宙性を帯びるようになる。マダラ神はまさに妙見さんにとっても「後戸の神」なのである。

2009年5月22日 (金)

拝啓 オバマ大統領 様

 私は、ここのところ一連のブログを書いてきました。
2009年5月 9日 (土)には・・・「ドンキホーテ」のように!
2009年5月13日 (水)には・・・「平和の論理」をどう語るか 
2009年5月18日 (月)には・・・インディアン的なもの
2009年5月20日 (水)には・・・オバマ大統領への私の大いなる期待

というテーマで、それぞれ主として日本人向けに書いたものであります。
 そして今回は、これらの見解をふまえながら、やむにやまれない思から・・・・オバマ大統領に直接、私の考えをお伝えする次第であります。誠に失礼の段・・・お許しください。

 さて、私は先に、『 贈与に関する哲学的並びに実践的研究を世界的に進める必要があるのではないか。そして、そのことが「貨幣発行自由化論」の再検討と相まって、ネオ・リベラリズムの欠陥を埋めることになる。それをやる必要があるのは、ネオ・リベラリズムの本家であるアメリカであるし、またそれができるのも最初のアメリカ人の地域コミュニティを持つアメリカである。 これは、オバマ大統領への私の大いなる期待である。』・・・と述べましたが、要するに、私は、「現在のネオ・リベラリズムは、「貨幣」についての致命的な欠陥を二つ持っている」ということと・・・それを解決し得るのはオバマ大統領だということを日本人の皆さんに言いたかった訳であります。

 現在のネオ・リベラリズムは、「貨幣」についての致命的な欠陥を二つ持っております。ひとつは、言うまでもなく金融機関に対する厳しい監視態勢がないということであり、もうひとつは、地域コミュニティが崩壊してしまっているということであります。

 ところで、私は先に、私の「地域コミュニティ論」において、地域通貨に関する玉野井芳郎の考えを紹介しました。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/6jisanti.html

12338773すなわち、
『 一国の中に複数の通貨が流通するという形は、地域主義の考えから当然出てきますが、経済学者の中でもたとえばハイエクなどがすでに主張しているところです。通貨の発行を中央が独占しないで、いくつかの地域に分散させる。そして、その交換割合は各地域にそれぞれ決定させるというやり方は、理論的にもすでに何人かの人々によって提唱されている訳です。
 また、通貨をなるべく交換手段として使う、つまり貨幣の資金化をコントロールするということは、上から包括的に市場の一般理論として考えた場合には不可能に近い。地域市場と全国市場がフラットに結びついて一つの国民経済になっているような場合には、如何しても貨幣は利子を生む資本になってしまう。やはり、各地域の自立および地域内の経済循環が進展してくるにつれて、そういう問題の扱い方もはっきりしてくるのではないかと思います。(中略)
 通貨の地域内循環を拡大させていくということが、さきほどの通貨発行権の分散化と併せて重要な問題だと思いますね。』・・・と。

 なお、地域通貨につきましては、参議院議員時代に随分勉強して、「愛の通貨」というテーマでホームページに一連のページを書きました。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/ai/index.html

また、最近も「地域通貨の哲学」と題して最近の考えを書きました。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yokubous.html

 これら私の主張そのものは極めて未熟だと思いますが、地域通貨の問題は地域コミュニティの再生を図る上で極めて重要な問題であるということはオバマ大統領も是非ご認識いただきたいと思います。

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私の尊敬する中沢新一とともに玉野井芳郎についても、オバマ大統領のご指示でオバマ政権につらなるどなたか適当な学者に勉強させていただけませんでしょうか。私がそのように言うのは、中沢新一と玉野井芳郎を勉強することが、アメリカが世界のリーダーとして引き続き発展していくために不可欠であり、アメリカの建国の精神「自由」がさらに発展していくために不可欠であると信ずるからであります。

 

19839170実は、オバマ政権に注目してもらいたい学者は、日本にはもう一人おります。見田宗介でございます。彼は著書「現代社会の理論」(1996年10月、岩波書店)のなかで、「最初のアメリカ人」のコミュニティは、もともと静かで美しく豊かであったが、近代化の流れのなかで崩壊し、現在彼らは新しく不幸になり、貧困になったと言っております。この根本原因は、貨幣の問題であるということのようであります。彼は、「貨幣からの疎外」ということと「貨幣への疎外」という言葉を使っていますが、要するに彼の言いたいことは、「自由」を守ることは基本的に大事であり、そのためには地域コミュニティの再生を図らなければならないということのようであります。
 アメリカにおいて、地域コミュニティの再生を図るべきは、必ずしも「最初のアメリカ人」に関わるコミュニティだけではないと思いますが、アメリカ建国の歴史を思うとき、オバマ政権は最優先で最初のアメリカ人のコミュニティの再生を図り、それをテコに政策の拡大を図っていくの良いのではないかと存じます。

 先の世界恐慌のとき、オーストリア・チロル地方の成功事例を目(ま)の当たりにして、アメリカの議会筋でもそれなりの動きがあったようでありますが、ルーズベルト大統領の反対もあって国レベルで地域通貨を実施するに至らなかったと聞いております。その辺の事情についてはオバマ政権でお調べになれば詳しく判るでしょう。

 今回の危機においては、言うまでもなくアメリカの財政危機は極めて深刻であり、「地域コミュニティの底力」に頼らざるを得ないのではないかと考える次第であります。オバマ大統領には アメリカの建国精神「自由」を守るために 全力で地域通貨の問題と取り組んで欲しい! それが私の切なるお願いであります。

                                                                                                            敬具

 

2009年5月20日 (水)

オバマ大統領への私の大いなる期待

Kevinrudd 雑誌「世界の5月号」に「世界金融危機からの脱出・・・社会民主主義以外に道はない」と題して・・・、オーストラリア首相ケヴィン・ラッドの特別論文が掲載された。彼の切なる思いがひしひしと伝わって来るとても良い論文である。私たち日本人はこの論文をもとに「今の世界金融危機を以下に乗り越えるか」を考え、日本のできることを真剣に考えねばならない。彼の主張のほとんどはそのとおりだが、肝心要(かんじんかなめ)のところが私の見解と違うので、今日はその点について書いておきたい。

 彼は「世界金融危機からの脱出・・・社会民主主義以外に道はない」というが、はたしてそうだろうか? ネオ・リベラリズムにしろ社会民主主義にしろ、どんな経済社会システムをとっても、100点満点ということはない。長所もあれば欠点もある。問題は基軸となる思想である。ネオ・リベラリズムと社会民主主義とは、その政策面でほとんど違いはなくなって来ているが、それが依って立つ思想はまったく違う。社会民主主義が下部の階級層というか弱い人々の立場に立って経済社会制度のあり方を考えるのに対して、ネオ・リベラリズムは、弱い人々のみならず強い人も含めて、「人間の積極的自由」という思想の上に立って経済社会制度のあり方を考える。私は後者の立場に立つ。
 ネオ、リベラリズムは悪いのではない。今までは、ネオ・リベラリズムを基軸としながら、ほとんど自由放任主義のような経済社会システムになっており、金融機関の暴走をチェックできなかったところに問題があったのであり、そこを改善すれば、現在のシステムに欠けている半分は解決する。自由経済には、「神の見えざる手」も働くけれど「悪魔の見えざる手」も働くのである。放任はダメ。
 オバマ大統領は、大統領就任演説のなかで 「市場が正しいか悪いかも、我々にとっての問題ではない。富を生み出し、自由を拡大する市場の力は比肩するものがない。だが、今回の金融危機は、注意深い監視がなされなければ、市場は制御不能になり、豊かな者のみを優遇する国は長く繁栄することはできないことを我々に気付かせた。」と言い、「注意深い監視」をすることの意思を鮮明にしている。彼はやるだろう。自由放任主義は是正されると思う。

 現在のネオ・リベラリズムに欠けているもうひとつは、通貨の多様性である。私がまず言いたいのはネオ・リベラリズムの元祖であるハイエクの「貨幣発行自由化論」である。私は、ネオ・リベラリズムの立場に立つ経済学者は、ハイエクの「貨幣発行自由化論」の是非について真剣に議論して欲しい、もし欠点があれば、その改善案を示して欲しい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/ai/kaheji01.html

Official

 オバマ政権は、こういうやり方で貨幣の多様性を創りだすことができるが、この際「最初のアメリカ人」の叡智を活かすこともできるだろう。「最初のアメリカ人」の叡智・・・、それは「ポトラッチ」である。中沢新一がその著『狩猟と編み籠』(2008年5月、講談社)の中でそのことを書いているので、その要点をここに紹介しておきたい。

Nakazawa 『 経済活動でさえ、この神話的思考の影響に深く浸透されていました。これらの社会では贈与が、物品をとおした人々のあいだのコミュニケーションを実現していました。
 贈与は何かを人から贈られたら、それにたいするお返しをする、という暗黙の定めにしたがっておこなわれる互酬システムです。しかしそこでは交換の場合のように、ある価値を持つものを受け取ったら、それに等価の価値をお返しするという、等価交換の規則は働いていません。等価の価値を受け渡していくことよりも、贈与で重要なのは、贈り物をとおして社会全体を見えない霊力が動いていくことである、そして贈り物について霊力が動いていくにつれて、人々は大きな「環」につながっていくようになる、と考えていました。彼らは商品交換は人々を互いに分離してしまうけれど、贈与はその逆に人と人とを結びつけるものである、と考えていたようなのです。(略)
 これらの社会では、「ポトラッチ」という盛大なお祭りが、首長の葬式のような特別なときにおこなわれます。ポトラッチは贈与のお祭りです。ホスト役になった首長が別の村の人々をゲストとして自分の村に招待して、豪勢な宴会を開き、たくさんの贈り物をします。この場合の贈り物は普通は貴重品の毛布とか毛皮とかですが、首長はそれよりももっと貴重な品物を抱えて、みんなの前に登場します。それは大きな鋼板で、表面に何かの顔のようなイメージが打ち出しされています。
 この鋼板こそ、あらゆる品物の中の最高の貴重品で、それがゲストに呼ばれた村の首長に贈り物として手渡されることもありますが、しばしばそれは「お返しもできないほどに貴重な品物」であり、そんな貴重品にさえ執着しないほど自分は気前がよいのだということを表現するために、ホスト村の首長の手によって破壊されたり、海に投げ込まれてしまうというのです。』

『 ポトラッチのクライマックスに海中に投ぜられる銅板のように、原初の貨幣は贈与や交換の環を破って、その外に突き抜けていこうとする衝動を宿しています。それはまた、人の身体の滑らかな表面に穴を穿って、深層心理への通路を開く力を持っています。「新石器型」社会の初期にすでに出現を果たしていた原初の貨幣は。経済的であるばかりか、それよりもいっそう精神分析的存在であり、人間の心を不可視の暗い空間につなぐ力を持っていました。そう考えてみれば、(中略)ジョルジュ・バタイユの「一般経済学」とは、貨幣が仮面と一体である原初的な経済学の別名なのではないかという気がしてきます。
 貨幣を経済的合理性のカテゴリーだけで理解しようという考えは、間違っています。』・・・・と。

 ポトラッチとは「食物を供給する」とか「消費する」を意味するチヌー  ク語であるという。それは贈与・消費競争の儀式である。アメリカ北西部の「最初のアメリカ人」 の酋長たちは、多くの部族民のいる「マツリ」の場において、①  相互に交換する贈物の量で、②部族民に対する贈物の量で、③破壊する財の量  で、競争し合う。もし同等あるいはそれ以上の贈物を返せない時、また、部族民に  同等あるいはそれ以上の物を贈れない時、また、同等あるいはそれ以上の財産  を壊せない時、その酋長はポトラッチの敗者となり、相手に「従属し、家来や召使  になり、、小さくなり、より低い地位(従僕)に落ちる」のである。それ故、酋長たち  は「負けじ」と競争するのである。
 私は前に、回帰的威信財という題で拙文を書き、新石器時代に日本で行なわれていた・・・贈与の「マツリ」のことに触れておいた。すなわち、東京都北区王子の飛鳥公園の近くにある七社神社前遺跡の土坑墓から誠に貴重な遺物(木の葉文浅鉢形土器)が出土したのである。小杉康(北海道大学助教授)の解釈によれば,これは回帰的威信財であって、宇宙的な円環に沿って循環し続ける「循環の象徴」であるらしい(「縄文のマツリと暮らし」、小杉康、2003年2月,岩波書店)。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/6jisan13.html

 要は、中沢新一が言うように、貨幣を経済的合理性のカテゴリーだけで理解しようという考えは、間違っているのである。この点を上の回帰的威信財との脈絡で補足説明をしておこう。 小杉康は、その著書「縄文のマツリと暮らし」の中で次のように言っている。すなわち、
『 先に民俗誌の事例を引いて、交換とはいかなるものかについて考えた。さらに交換とは人間のいかなる営みであるかについての事例を求めるならば、それは単に経済的な利益をもたらすだけのものではなく、交換を行なうもの同士の間に友好的で安定した関係を生み出す働きがあることに気付かされる。そのような交換は儀礼交換と呼ばれるものである。
『儀礼交換では交換される器物どうしが、その場で同時に交換される必要はない。一方から他方へ器物が贈答され、しばらく時間を隔てた後にその返礼がなされる。むしろ返礼がなされるまでの間、交換は終了しておらず関係は持続されることとなる。このようないくつかの儀礼交換が時間差を持って同時に実施されることによって、交換を行なう当事者の間の友好的な関係は安定して持続されるのである。またその際の交換対象は、実用的な用途がある生存財よりも象徴的器物である威信財であることが望ましい。
 儀礼交換がこのようなものであるならば、次のような解釈ができるであろう。諸磯式土器圏の人たちと北白川下層2式土器圏の人たちは、威信財のカテゴリーに属する象徴的器物である木の葉文浅鉢形土器とその複製である木の葉文浅鉢形模造土器とを儀礼交換することによって、双方の間に友好的で安定した関係を生み出していた、と。』

 以上日本の例にも触れたが、贈与に関する哲学的並びに実践的研究を世界的に進める必要があるのではないか。そして、そのことが「貨幣発行自由化論」の再検討と相まって、ネオ・リベラリズムの欠陥を埋めることになる。それをやる必要があるのは、ネオ・リベラリズムの本家であるアメリカであるし、またそれができるのも最初のアメリカ人の地域コミュニティを持つアメリカである。 これは、オバマ大統領への私の大いなる期待である

2009年5月18日 (月)

インディアン的なもの

 インディアンという言葉は必ずしも差別用語ではないが、より丁寧には、アメリカンネイティブとかファーストアメリカンズ(最初のアメリカ人)と呼ぶらしい。ここでは「最初のアメリカ人」と呼ぼう。
 最初のアメリカ人は、アメリカ独立戦争のとき、ワシントンらの革命軍を助けた。

Official  選挙はある意味で闘いだが、今回のアメリカ大統領選挙で、最初のアメリカ人はその闘いに早々と参加し、オバマを助けたらしい。その様子については次の「ユウーチューブ」を見て欲しい。彼らの動機は現在の悲惨な生活状況をオバマに何とかしてもらいたいということであったかもしれないが、本来、彼らは誇り高い民族であって、私たち日本人はそのことを十分認識しておくべきであろう。

http://www.youtube.com/watch?v=HuBMkjsKP2E&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=zwjd3s7UXL4&NR=1

Aa240__2  ところで、「インディアンの言葉」(1996年9月、紀伊国屋書店)という本がある。その翻訳者・中沢新一が最後に次のように言っており、私たち日本人はこれを噛み締めながら世界平和のために尽くさなければならないのではないか。
『 19世紀から20世紀にかけて、アメリカ大陸において、そういう二つのまったく相反する思想が、大地の領有をかけて、まっこうから対峙していた。いや、対峙などという言い方は、手ぬるい。インディアンは国家を繕うとはしなかった人々である。国家のようなものができあがると、自然の中で人間がふるう権力があまりに増大しすぎて、宇宙の全体運動によくない影響を持つ、と考えた人々は、国家のようなものができはじめようとするたびに、それを解体して、もともとの部族的ネットワークによる、世界の秩序のほうへ、たちもどってきたのだ。だから、そんなインディアンが、アメリカという近代国家とそれが発達させた戦争技術の前に、太刀打ちできようはずもなかった。

Paroles 打ち続く虐殺、追放、隔離によって、今世紀のはじめには、インディアンの文明は、もはや消滅の寸前に追い込まれていた。この本に収録されているのは、その頃、文字をもたなかったインディアンが、自分たちの精神を育んできた文明の全尊厳をかけて、白人の言説体系の前に、みずからの信ずることを、堂々と語ってみせた、その言葉の記録の断片なのだ。 』

『 日本人は、ここにある言葉に、多くの共感をしめすだろう。私たちの無意識の中には、インディアンの語るものの考え方の、かすかな記憶が、まだ消えずにのこっているからだ。しかし、私たちは、自分らが近代国家としての成功を収めるために、長い時間をかけて、自分たちの内部または近隣にあった、「インディアン的なもの」を滅ぼそうとしてきた人間なのだ、ということを、忘れてはいけない。自分の中にある「インディアン的なもの」を恥ずかしいと思い、自分の中からそういうものの痕跡を消してしまいたいと思い、そういう世界をみずから滅ぼすのに、大いに力をかけてきた人間の一員なのである。そういう世界の壊滅の上に、私たちの文明世界は成功裡に運営され、私たちはその恩恵を享受している。だから、インディアンを虐殺し、その世界を消滅させてきたのは、彼ら白人だけではない。それは、私たち自身でもあるぐらいに思ったほうがいい。そして、その上で、私たちが失ったものの大きさと深さを知って、未来の世代のために、これらの叡智を伝達する努力をはじめることだ。

Nakazawa 『 しかし、この本に収録されたエドワード・S・カーティスの撮影した写真を見ていると、私たちは不思議な希望を感じ取る。かってはこの写真家のような人間がいたのである。その人とその人を信頼して、カメラの前に立ってくれた「赤い人々」のおかげで、私たちは、人間という生き物が、こんなにも気高い威厳と優しさをもつことができるという事実を、確認することができるのだ。インディアンたちが残してくれた言葉は、ブツダやイエスの言行録にも匹敵する価値を持った、人間の宝だ。しかし、この世にあらわれると、いつもこんな風に、悲痛な響きを発するものなのである。』・・・・と。

 

2009年5月13日 (水)

「平和の論理」をどう語るか

Accomp01 早いもので、平成の御代(みよ)になってはや20年が過ぎた。当時の小渕官房長官がテレビで「内平かに外成る」「地平かに天成る」と「平成」の意味を説明しておられたのを鮮明に覚えている。しかし、今は、まことに内憂外患、とても内平かに外成っていると言い難いし、地平かに天成っているとは言い難い。私は、この21世紀、そう簡単に世界平和がやってくるとは思わないが、少なくとも日本は、国是として世界平和の努力をつづけなければならない。
  私は、先に、日本はドンキホーテのようにただひたすら世界平和に邁進せよという・・・浜矩子(のりこ)の考えを紹介したが、私は、 実は、 日本こそ世界平和を実現する力を持っているのだと考えている。世界のアメリカ化はしばらく続くであろうが、アメリカは日本の助けを借りないと真に世界から尊敬される理想の国にはならないのではないか。オバマ大統領が誕生し、日本さえその気になれば、アメリカは変るし世界は変わる・・・、そのような時代になった。

ところで、そもそもアメリカは、インディアンイロコイ族から手を引かれるようにして、自由と民主の理想に燃え、そして世界で始めての建国憲法をつくったのである。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/1honindi.html

 ウィキペディア(http://ja.wikipedia.org/wiki/イロコイ連邦)にも書かれているが、インディアンイロコイ族の連邦制度というものがアメリカ合衆国の連邦制度の元になっており、アメリカ合衆国が13の州で独立するときにイロコイ連邦が全面的に協力したのである。連邦制度だけではない。上述のように、イロコイ族は大統領制を始めとする合衆国憲法の制定にも関係しているのである。したがって、かつて、アメリカ合衆国大統領は就任に当たってイロコイ連邦を表敬訪問するのが慣習となっていて、近年のジョンソン大統領まで続いたらしい。イロコイ連邦はそのヴィジョンをアメリカ合衆国に託するために非常な協力をしたのである。

Kokusho  合衆国のハクトウワシの国章はイロコイ連邦のシンボルを元にしたものであり、言論の自由や信教の自由、選挙や弾劾、などがイロコイから合衆国へと引き継がれたものである。また、イロコイは事実上、最も初期に女性への選挙権を認めた集団である。

 今度は日本だ。否、イロコイ族も含めて私たちモンゴロイドが、アメリカと手をたずさえて世界平和の実現に骨を折っていかなければならない。

  問題は、アメリカが直面する財政危機の深刻さだ。それに対処するオバマ大統領の手腕に懸念を持つ人も少なくないが、私としては、何とかこの危機を乗り越えて欲しいと願わずにはおられない。

Nakazawa  私が思うに、これからの世界は、オバマ大統領を世界のリーダーとして、「ソフトパワー」を発揮していかなければならないのであって、アメリカは、ふたたびイロコイ族と手をたずさえて建国憲法をつくった・・あの原点に帰らなければならないのである。何とか今の財政危機を乗り越えて、世界に向け「ソフトパワー」を発揮できる・・・そういう余裕を持ち続けて欲しい。今アメリカの「ソフトパワー」に必要なのはイロコイ族の感性であって、そのイロコイ族と私たちモンゴロイドが連携してアメリカの「ソフトパワー」をバックアップしていくのだ。将来にわたって・・・・。それが、中沢新一のいう・・「環太平洋の環」である。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/2honjin.html

  日本の「歴史と伝統・文化」の心髄が「違いを認める文化」にあり、そういう意味では、日本では歴史的に見て「平和の原理」が働いてきたといえる。それを「平和の論理」として世界の人びとに語って行かなければならない。私が「劇場国家にっぽん」と言ったり「文化観光」の重要性を訴えているひとつの理由はそのためだ。そして、私が、わが国の「ジオパーク」を推進しようとしているのは、その演劇性にあり、万年前からの「歴史と伝統・文化」をビジュアルに見せるためである。私が「劇場国家にっぽん」と言っている所以である。私が「劇場国家にっぽん」と言ったり「文化観光」の重要性を訴えているもうひとつの理由は、地域の活性化のためできるだけ多くの外国人観光客に来てもらうためである。
 地域の活性化に役立つと同時に世界平和のためにもなる。それがわが国の観光である。外国人観光客を意識した観光開発こそ21世紀におけるわが国の最優先課題でなければならない。

 できるだけ多くの外国人観光客に来てもらうためには、観光資源として、これからの新しい文明を創造するために役立つ、或はこれからの生き方に重大な示唆を与えうる・・・文化的価値の高いものが必要である。しかもそれが唯一日本にしかないとなれば、外国人向けの観光資源としては最高のものとなる。それが私の考える「ジオパーク」だが、そこには世界的な説明がビジュアルになされていなければならない。外国人にも判り易くなければならないし、若い人にも判り易くなければならない。つまり、「演劇性」がもっとも大事な点だ。演出家の出番だ。 
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/geo/index.html

 「ジオパーク」については、地質学、地理学の知見を駆使しながら、そしてまた「芸術人類学」の助けを借りながら、風土哲学と土木技術の融合が図られなければならないと・・・私は考えている。そうでないと、真に有意義で、かつ、ドラマチックな「演劇性」というものを生み出すことは不可能であろう。
http://www.tamabi.ac.jp/iaa/toptopic/index.html

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2009年5月 9日 (土)

「ドンキホーテ」のように!

Official 世界日報は、5月5日の社説で、『 オバマ氏はプラハ演説で「核兵器なき世界」を唱え、ロシアとの軍縮交渉による核兵器の大幅削減を目指すことを明らかにした。意欲は結構だ。しかし、米露の核軍縮が進めば核保有数で劣勢の中国の立場が強まる。ロシアが削減するのは老朽化が激しく維持費の負担が問題となっている旧式の核戦力が主だ。西側の指導国家としての米国の責任感の欠如が心配である。』・・・と書いた。そこで私が思うに、「核兵器なき世界」は日本の国是であり、日本はその実現に精一杯の努力をしなければならないのに、世界日報は何を考えているのか? 米国のスーパーマン的な力に頼る時代ではなくなってきており、日本は集団的自衛権を行使できるよう憲法を改正するなど、日米同盟を真に日米対等なものにしなければならないときに来ているのに、世界日報は何を考えているのか・・・ということである。集団的自衛権についてはなかなか国民のコンセンサスが得られないかもしれないので、私は前に憲法改正について書いたように、第9条はそのままにして第1条を含む最小限の改正は是非ともすべきであるという見解をとっていた。しかし、最近は違って来ている。オバマ大統領になって話し合い路線を貫くために相対的に米国の力が落ちて来ると、日本はそれをカバーする必要があり、どうしても集団的自衛権が行使できるようにしなければならない。そのために憲法改正が必要であれば、第9条も改正すれば良い。そう思うようになっているのである。要は、世界平和のためである。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/ku/index.html

 オバマ大統領は、就任演説のなかで次のように言っている。すなわち、
『 我々を今見ている他の民族や政府に対して言いたい。巨大な都市から、私の父が生まれたような最も小さな村まで、米国は「平和で尊厳ある将来」を求めるすべての国々とすべての男女、そして子どもの友人であり、もう一度、指導力を発揮する用意があることを知ってほしい。』・・・と。
 米国は「平和で尊厳ある将来」を求めるすべての国々とすべての男女、そして子どもの友人であり、もう一度、指導力を発揮する用意があると、オバマ大統領は言っているのだから、日本国民は、マスコミも含めて、オバマ大統領を全面的に支持しなければならない。 要は、「平和で尊厳ある将来」を築くためである。その点、世界日報も日本のリーダーは判って欲しい。

Hamanori
 ところで、浜矩子(のりこ)がその著書「スラム化する日本経済」(2009年3月20日、講談社)の中で次のように言っている。すなわち、
『 かって、スーパー・ヒーロといえば、そのイメージはスーパーマンだった。若い。たくましい。そして、迷いも恐れも知らない。思えば、これはかってのアメリカのイメージそのものだ。・・・中略・・・だが、今のアメリカにその面影はない。そしてまた、今日の時代状況が求めているヒーロは、スーパーマンではないだろう。・・・中略・・・では、グローバル時代が求めるヒーロは、スーパーマンではなくて誰なのか? それは「ドンキホーテ」なのではないかと思う。・・・中略・・・・彼の勇気は優しさに満ちている。彼の知性は理想の高さにおいてとどまるところを知らない。この若武者ならぬ老雄の魂は、謙虚な騎士道精神で一杯だ。無謀にも、純真にも、風車に向かって命知らずの闘いを挑む。』・・・・と。私はヒョッしたら彼女に「集団的自衛権」などとんでもないと言われそうなきもするが、「ドンキーホーテ」だって、槍を引っさげて闘うんですからね。

Donkiho

 さて、彼女は引き続いて、次のように言う。すなわち、
『グローバル恐慌の嵐が吹き荒れるなかで、我々はどこに行くのか。我々は資本主義の暴走でもない、グローバル全体主義が支配する世界でもない、「第三の道」を見つけなければならない。それを可能にしてくれるのが21世紀のヒーローだ。そのヒーローのイメージが、ドンキホーテである。このヒーロ役を果たせるものは誰か。もしかすると、その可能性をかなりの程度まで秘めているのが、日本なのではないかと思う。』
『だが、勝負はこれからである。実り豊かで緑深きグローバル・ジャングルをどう再生するか。グローバルな全体主義をどう排除していくか。それが今、我々に問われている。』・・・・と。
 彼女は答えを書いていない。しかし、応えは決まっている。地域コミュニティの再生だ。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/6jisanti.html

 人は一人では生きていけない。人々とのつながりの中で生きていく訳だが、そのつながりがコミュニティである。そのコミュニティを地域コミュニティと地域に立脚しないある活動目的でできている一般的なコミュニティに大別して・・・、私は、コミュニティのあり方を考えている。一般コミュニティでは生活の自立は難しい。地域コミュニティの生活というものが複合的であるのに対し、一般コミュニティでは、そもそも活動目的が単目的であって複合的でないからである。その点地域コミュニティは、いろんな仕事があるし、まあいろんな人がいて地域活動も複合的である。だから、生活の基本は地域コミュニティという「場所」にある。そういう「場所」の再生を図らない限り、今の市場経済の下では、国民の生活はどうしても不安定にならざるを得ない。今いろいろ言われているセーフティーネットでは、国民生活の不安定は解消されないと思う。これからの世界経済はどうなるか。そして日本経済はどうなるか。政治もあまり当てにならないようだし、国民生活の安定を図るには、私は、どうしても地域コミュニティの再生が不可欠だと考えている。

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