2019年3月20日 (水)

八坂庚申堂

八坂庚申堂

八坂庚申堂は、法観寺に隣接していることもあって、京都の観光名所になっているが、八坂にあるということもあって、祇園花街の人たちの信仰が厚い。

門を入るとすぐのところに、たくさんの「つるし猿」が吊るされている。
面白いのは、八坂庚申堂では「くくり猿」がお守りの「お札」として売られていることだ。「くくり猿」の体内には御本尊青面金剛の御札が納められ、開眼の秘法によって魂が込められている。単なる土産物では無く、八坂庚申堂の神(ご本蔵青面金剛)の霊の入った『御守』である。
この霊験あらたかな「くくり猿」は、祇園界隈では軒先に吊るす家が多い。祇園花街の舞妓さんも八坂庚申堂でこの「くくり猿」を買い求める人が多く、八坂庚申堂では、舞妓さんの姿をよく見かける。

玄奘とシルクロード(その1)

玄奘とシルクロード(その1)
はじめに(その1)

まず最初に「中国と西域との往来」について述べよう。
中国から北上して、モンゴルやカザフスタンの草原(ステップ地帯)を通り、アラル海やカスピ海の北側から黒海に至る、このルートが最も古いとみなされている交易路である。この地に住むスキタイや匈奴、突厥といった多くの遊牧民(騎馬民族)が、東西の文化交流の役割をも担った。
現在の中国国鉄集二線は、部分的にほぼこの道に沿っている。モンゴルのツァヒアギーン・エルベグドルジ大統領が同名の中露蒙経済回廊を提唱していることでも知られている。
その後、オアシスの道すなわち天山北路と天山南路が整備された。それ以降、中国と西域との交易はシルクロードが使われた。

ここに西域とは主として中央アジアを指すが、広義にはインドと中東を含む。
中国への仏教伝来は、シルクロードを通って行われたので、玄奘三蔵の意識としては、インドへ行くには当然シルクロードを行くことであった。
西安を起点とするシルクロードについての私の説明は次のとおりである。

水田農業のあり方(その5)

水田農業のあり方(その5)
第2章 水田農業の活路を探る(その2)
第2節 新たな共助・共存の仕組み
ひとくちに農村社会と言っても、いくつかの顔を持っている。
なによりも農村社会は農業や林業や関連する産業が営まれる空間であり、同時に多くの人々が暮らす生活のための居住空間でもある。多くの人々と述べたが、農村住民の職業は多彩である。
日本の農村は外からさまざまな人々が訪れる空間でもある。盆や正月には村の出身者やその家族が帰省する。一年を通じて旅行客も訪れる。現代の日本の農村では、農家民宿に滞在する機会や、体験型ツアーを楽しむ機会も増えている。これらを合わせてグリーンツーリズムと呼ぶこともある。日本の農村は人々がアクセスし、リフレッシュするための空間でもある。
このように農村社会はいくつかの顔を持っているが、以下では、農村コミュニティの生産の領域に話題を絞ることにしよう。なんと言っても、生産の領域が農村のコミュニティ形成の基軸であり、農村空間のありようを深いところで規定しているからである。

日本の土地利用型農業、とくに水田農業は二つの層から成り立っっている。二つの層のうち農業に固有の要素は基層である。上層が市場経済にしっかり組み込まれているのに対して、基層の機能は、農業水利施設や維持管理活動に典型的なように、コミュニティの共同行動によって支えられている。ここに農村の良さがある。身の回りの環境や施設は自分たちの手で保全し、自分たちのルールのもとで利用する。これが農村の伝統である。
戦後の経済成長の過程で農家の兼業化が進む一方で、少数ながら農業経営の規模拡大をはかる農家が出現した。野菜や果樹や畜産などの成長部門に活路を見出した農家も少なくない。かくして農業の規模と品目の幅が広がった。農業を中止した場合も、多くは地域に住み続けている。つまり元農家である。逆に、退職を機に農業に精を出すことになった定年帰農組もいる。近年は、外部から転居して、農業を始めるケースも見られるようになった。Iターンである。というわけで、現代の農村のコミュニティは著しくヘテロ化(異質なものの状態に変化)している。等質的なメンバーで構成された農村社会は過去のものとなった。コミュニティの共同活動との関わりで言うならば、メンバーがヘテロ化した状態とは、貢献と受益の関係がじめのものではなくなった状態と表現できる。それでも地域社会のさまざまな分野の共同行動は必要であり、さまざまなかたちで助け合いを欠くこともできない。つまり、現代の、そしてこれからの農村には、新たな共助・共存の仕組みが必要とされているのである。この点で筆者は、農村の現場の知恵として、従来とはひと味違う関係が生み出されていることに注目したいと思う。
現代でも多くの農村に共通しているのは、用水路や農道などの維持管理については、メンバーの等しい貢献が求められるスタイルである。このかたちのもとでは、小規模な農家や元農家にしてみれば、貢献の度合いに比べて小さな受益ということになる。逆に、広い面積を耕作する専業農家からみれば、地域の多くのメンバーの貢献によって生産基盤が支えられているわけである。けれども、専業農家は専業農家で、大型機械による作業を請け負うなど、小規模農家を支える機能を果たしている。不整形で作業効率の悪い農地も、集落の納期あの依頼であれば多少無理してでも引き受ける。これもよく聞く話である。技術面では、環境保全型農業の取り組みで専業農家や法人経営が一歩も二歩も先を歩んでいることが統計上にも確かめれれている。小規模農家にとっては身近にお手本が存在するわけである。同じ農業技術の面でも、園児や児童・生徒の体験学習の現場では、ベテランの高齢農家が活躍しているケースが少なくない。
まだいろいろな関係がある。生活面を含めれば、共助・共存のネットワークの種類は実に多彩である。それぞれのメンバーが、それぞれのポジションに応じてコミュニティの活動に参画し、同時にコミュニティの機能に支えられる関係である。以前の等質社会の共助・共存の仕組みよりも複雑になったと言えるかもしれない。加えて、かっての共同行動には、暗黙の合意の元で、あるいは決まりごととしての強制力によって遂行されていた面が強かったのに対して貢献と受益のバランスが自明のものとは言えない新たな共同の仕組みについては、メンバーが納得の上で参画する傾向が強まることであろう。そうしたなかで、集落のメンバー間の意識的なコミュニケーションの機会が従来にもまして大切になるに違いない。
苦戦組の代表であった水田農業にも、新しい姿へと発展する道筋がないわけではない。その道筋とは、基層のコミュニティに新たな共助・共存の仕組みが形成されることであり、上の層には専業・準専業の農家や法人経営に牽引される農業生産が定着するかたちである。
モンスーンアジアにおいて、どうやら先頭のランナーの役割を終えつつある日本。そんな日本にも胸を張って外の世界に発信できるモデルは少なくないはずである。農業についても然りである。今後のモンスーンアジアにおいて生業的な零細農業は激しく変容を迫られ流に違いない。そんな近未来を展望するならば、装いを新たにしつつある日本の二層の農業構造は、アジアの農業・農村のありようにひとつのモデルを提供するに違いない。また、そのような役割を自認することは、農業・農村みずからが好ましいかたちで成熟を遂げていくよすがにもなるであろう。

佐渡おけさ

北陸の民謡 佐渡おけさ

秋田音頭

東北の民謡 秋田音頭

2019年3月18日 (月)

法観寺

京都・法観寺

伝承によれば五重塔は592年に聖徳太子が如意輪観音の夢告により建てたとされ、その際仏舎利を三粒を収めて法観寺と号したという。
聖徳太子創建の伝承は信憑性に疑いがあるものの、平安京遷都以前から存在した古い寺院であることは確かとされており、朝鮮半島系の渡来氏族・八坂氏の氏寺として創建されたという見方が有力である。
法観寺(ほうかんじ)は清水寺の近隣に位置する。街中にそびえ立つ五重塔は通称「八坂の塔」と呼ばれ、周辺のランドマークとなっている。

法観寺:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/houkanji.pdf

チベットというところ(総括)

チベットいうところ(総括)

インドの仏教は、401年、鳩摩羅什によってシルクロードを通じて中国に伝えられたが、上に述べたように、シルクロードとは別ルートでチベットに入ってきて中国とは異なるチベット独特のチベット仏教として発展した。チベットは、古来、交通の要所であった。インドやシルクロードとも繋がっていた。

そういうチベットというとこについて書いたのが、次の報告書である。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tibettoto.pdf

水田農業のあり方(その4)

水田農業のあり方(その4)
第2章 水田農業の活路を探る(その1)


日本農業のうち、畜産や施設園芸などの集約型農業は健闘している。対照的に土地利用型農業の衰退には歯止めがかかっていない。特に高齢化の進んでいる水田農業のゆくえが気がかりである。そこで水田農業の活路を具体的に探ってみたい。


第1節 農地の規模拡大について

小規模な水田農業は日本だけのことではない。モンスーンアジアの農業規模は概して零細である。歴史的には、収穫が安定的で栄養バランスにも優れたコメの人口扶養力の高さに支えられて、人口稠密な農耕社会が形成された。人間を養うのに大きな面積を必要としなかったのである。零細な農業には、水田とコメに象徴されるモンスーンアジアの風土と歴史が刻み込まれている。

しかしながら、現代の日本は途上国段階の農耕社会ではない。経済発展が目覚ましく、高所得の魅力ある職業は数多くある。したがって、まず所得の面でそれなりのものが得られないようでは、水田農業の後継者は育たない。水田農業も他産業なみの所得を得ることが必要である。しかし、農地面積の規模拡大なしに他産業なみの所得をうることは難しい。だから、水田農業における面積の拡大が必要なのである。

戦後の土地利用型農業の技術革新には目を見張るものがある。機械化の進展である。稲作であれば、田植機の発明であり、収穫用のコンバインの普及である。1960年ごろの稲作には10アールあたり年間150時間もの労働が投入されていたが、現在は27時間にすぎない。10ヘクタール程度の経営になると、15時間まで削減されている。労働生産性に劇的な変化が生じているのである。言い換えれば、家族で耕作可能な面積が飛躍的にアップした。このような技術革新があったからこそ、少数ながらとはいえ、10ヘクタール、20ヘクタールの家族経営が成立しているのである。

第1章で確認した通り、高齢化の進展とともに貸し出し希望の農地が増加することは間違いない。水田農業の規模拡大には好適な環境が出現していると言ってよい。では、その好適な環境を活かすために必要なことは何か?

それは農地制度を利用優位という理念に沿って適格に運用することである。土地利用型農業の規模拡大の一番の難しさは、まとまった農地の確保にあると言ってよい。新たに確保する農地がすでに耕作している農地から遠く離れていては使いものにならない。農地制度は、農地がまとまったかたちで担い手に集積されるように機能しなければならない。

農地法の理念はよい。しかし、理念のもとにある法律や制度の枠組みに改善の余地がないわけではない。農地の貸借・売買の領域に限定すると、最大の問題は法制度が複線化した状態になっていることである。もともと農地法一本であった農地の権利移転の制度的なルールには、農地法の改正や新たな法律の施行などの経緯を経て、現在では農業経営基盤強化促進法による権利移転、同法のもとで農地保有合理化事業によって仲介される権利移転が加わってる。大きく三つのルートからなっているわけである。そして、それぞれのルートの運用は別々の組織に支えられている。もともと農地法のルートは農業委員会である。委員の大半は選挙で選ばれた農家の代表である。農業経営基盤強化促進法による権利移転は市町村、農地保有合理化事業h農地保有合理化法人である。農地保有合理化法人は農地の一時保有機能を持つことで、貸し手(売り手)と借り手(買い手)の仲介を行う機関であり、都道府県レベルに設置することができる。

このようなややこしいことになっているので、複線化した組織の機能をひとつの傘のもとに統合すべきである。ワンフローアー化である。


農地制度の運用上の問題点として、第三者によるチェック機能を欠いていることも指摘しておきたい。こんなケースがある。5年間の利用権を設定して農地を耕作していたところ、3年を終えるところで相手の所有者から解約を求められた。借りていた農家はやむなく解約に応じたという。なぜならば、かりに解約に応じないとすれば、そのことが知れ渡り、返さない借り手だとの悪評で次の借地が難しくなるのではないかと考えたからである。このエピソードは、農村の現場で必ずしも利用優位の理念が徹底されていないことを物語っているが、中途で解約を要求すること自体が理不尽な行為であることは言うまでもない。こうした事態について、農地制度お運用する組織自体が毅然とした姿勢を取る必要がある。そのためにも第三者機関によって、制度の運用の適否についてチェックが行われるべきである。

2019年3月16日 (土)

大覚寺

大覚寺

延暦13年(794)、桓武天皇は「山背」を「山城」と改め、新都・平安京に遷都する。桓武天皇ののちに即位した平城天皇は、病身のため弟の嵯峨天皇に在位わずか3年で譲位するが、平城上皇の平城古京への復都、薬子の乱などの政変によって政局は動揺していた。
遷都から15年、大同4年(809)に即位した嵯峨天皇は、律令よりも格式を中心に政治を推し進め、ようやく平安京は安定をみる。 一方で嵯峨天皇は、都の中心より離れた葛野の地(現在の嵯峨野)をこよなく愛され、檀林皇后との成婚の新室である嵯峨院を建立、これが大覚寺の前身・離宮嵯峨院である。


大覚寺: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/daikakuji.pdf

チベットというところ(その9)

チベットというところ(その9)


ラサと結ぶ川蔵公路の拠点都市・成都については、次をご覧ください。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/seitosi.pdf

«水田農業のあり方(その3)