2020年8月 6日 (木)

清水寺の地主神社

清水寺の地主神社


地主神社には、平安時代に清水寺が創建された時よりはるかに古い信仰の歴史があった。つまり、清水寺の谷筋は、縄文時代からの死者埋葬の地であり、縄文人の祈りがあったのである。

大谷本廟から清水寺にかけての尾根筋が「鳥辺山」である。比叡山から東山に続く主尾根にある阿弥陀峰から発して、清水寺を経て大谷本廟に続く枝尾根が「鳥辺山である。そして、その北側、すなわち阿弥陀峰から発する谷が「鳥辺野」である。
伏見稲荷の場合は伏見山から発する谷筋に埋葬地の中心「御膳谷(ごぜんだに)」があり、「六道の辻」の場合は阿弥陀峰から発する谷筋に埋葬地の中心にそれがあったという訳である。

地主神社の公式ホームページによれば、地主神社の創建年代は縄文時代とされ、近年の研究により「恋占いの石」が縄文時代の遺物であることが確認された。また、周囲が湖であった時代にも、地主神社の境内地は島となっており、不老長寿の霊山「蓬莱山(宝来山)」 あるいは、「蓬莱の島」として古代人の信仰をあつめていた。地主神社の東隣下の崖には今も 「船着き場」の跡が残っている。

ところで、時代が進んで、強者と弱者が出て来ると、堪え難いひどい仕打ちを受ける人も出て来る。そういう人の願いは相手がいなくなることであり、「呪い」という「祈り」とはまったく逆の信仰形態も発生して来る。清水寺の谷筋では、「祈り」の他にさかんに「呪い」も行なわれたようだ。その名残が清水寺の地主神社に残されている。 


清水寺の地主神社:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jishujin.pdf

沖縄の歴史(その17)

沖縄の歴史(その17)

第5章 琉球が日本国に併合されるまでの経緯(その2)
第1節 琉球藩の設置(その2)

明治維新の目的は、日本の西洋列強の植民地化の回避であり、その最前線は琉球(現在の沖縄)であった。植民地化の回避を実現したのは「中央集権国家の建設」であり西洋諸国に負けない国家の軍隊「日本軍の創設」である。そして、それを実現する政策が「富国強兵」だった。つまり、中央集権国家体制で富国強兵政策を推し進めたのが明治維新の本質と捉えて間違いない。
明治維新において中央集権国家をつくるために行った最大の改革は廃藩置県である。さらにその廃藩置県の中で最も困難で最もエネルギーを費やしたのは、沖縄県の設置であった。まず琉球を藩にして直ちに廃藩置県を琉球でも行う。それが明治の基本的な認識であったのである。そして、英断を持ってそれが実行された。
しかし、明治政府のこの英断は、その重要性にもかかわらず、琉球国王・尚泰はまだ十分な理解をしていなかったようだ。もちろんん中国の認知するところではない。中国の認識としては依然として琉球国は中国の朝貢国である。琉球国王・尚泰自身も「皇国と支那の御恩」に感謝し、両国を「父母の国」と仰ぎ奉っているとして、日清「両属」の現状維持を要請し、清への朝貢を続け、王位を名乗り続けた。そんな矢先にいわゆる「琉球島民殺害事件」が起きたのである。


琉球が日本国の一つの藩であることを中国並びに琉球に認めさすに至る重大な事件が起こったのだ。

 

 

人はなぜ狐に騙されなくなったのか(その1)

人はなぜ狐に騙されなくなったのか(その1)

はじめに

「木遣りを歌う狐」というむかし話があります。これなどは「化かすといえば化している」のですが、人間に悪いことをするというものでなく、むしろ、人々の生活に潤いを与え、災いから人々を守るという神様の使者のような働きを狐の話です。では「木遣りを歌う狐」というむかし話を紹介しておきましょう。


昔、木曾福島のお城に狐の一族がすんでいました。
木遣り歌を歌うのがとても上手な狐で、月の良い晩などには、狐の歌う木遣り歌が城下の町にもよく聞こえてくるのでした。

狐の木遣り歌は、聞こえ始めてしばらくすると、だんだん遠くなるように聴こえて・・やがて消えてゆくのでした。そして、その歌がだんだん遠くなる時は何事もないが、近づいてくる時は、町に災いが起きると言い伝えられていました。

村の婆さまなどは、狐を見かけると
「狐さ、狐さ・・今夜はひとつ、木遣りを聞かせておくれ~」っと声をかけたりしました。
すると、そんな夜には山から木遣り歌が聞こえてきます。
「エ~ヨイショト~・・エンヤラヤ~
 エ~~ちからな~揃えてヨ~~ゥ・・・・」

木遣りの声は・・だんだん遠ざかって消えてゆきます。
「やあやあ、よいものを聞いた・・声が遠くへ行ったで、今宵は何事もないだろう」っと。山の町は静かに更けて行くのでした。


ある夜のこと、深夜 木遣りの歌が聞こえてきました。声はだんだん近づいて来るようです。とうとう・・町も真中で歌っているように響き渡り・・突然消えてしまいました。
町の人は・・何事かと・・外へ飛び出してきました。

すると・・一軒の家から、煙が上がっているのが見えました。
「それ!火事だ・・・火事だ・・・」
町中総出でで消しにかかりましたので・・大火事にならずに消し止められました。

「狐が、教えてくれたんじゃ・・有難い、ありがたい・・」

庄屋さんの家へ泥棒が入った時も・狐の知らせで捕らえることができました。


狐の木遣り歌が、のどかに聞こえ、だんだん遠ざかってゆくのを聞きながら・・
「今夜も御狐様が、町を見回ってくださっている」っと安心して眠りにつくのでした。
「木遣りを歌う狐」というむかし話は以上の通りですが、狐のむかし話の多くは狐が人々を化かす話です。その代表的なものを紹介しておきましょう。

https://www.youtube.com/watch?v=co9_-LbLbHQ

https://www.youtube.com/watch?v=dcP_Ev99DUU

https://www.youtube.com/watch?v=8j33guN__cQ

https://www.youtube.com/watch?v=5_7Ive_P1fQ

 

さて、昔の人は時として狐に化かされていました。しかしながら、現代はそんなことはありません。では、なぜ現代の人は狐に化かされなくなったのか、今日は、その話をしたいと思います。また、それはいいことなのかどうか、そんな話もしたいと思います。

山岳部で歌った歌(その3)

山岳部で歌った歌(その3)

Im Wald, im grünen Walde

https://www.youtube.com/watch?v=rTE-skRU4Ps

2020年8月 3日 (月)

京都とねね

京都とねね


私は、秀吉の行った事業について聚楽第や高台寺については、すでに部分的ではあるがすでに書いた。

聚楽第: 2017年9月10日
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jyurakudai.pdf
高台寺: 2018年8月10日
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/koudaiji.pdf

しかし、それらについては足らざる部分を補足する必要がある。

また、秀吉の業績の一つである方広寺については何も書かなかった。さらにねねが秀吉の死後なぜ京都に住んだのか、その理由についても何も書かなかった。そこでこの度、「京都とねね」というタイトルで、聚楽第、高山寺の補足文章を書くとともに、方広寺の詳しい説明をした。


豊臣秀吉の妻・「ねね」は、素晴らしい女性である。彼女がいなければ、木下藤吉郎の出世はなかったし、秀吉になってからの出世もなかったし、天下人になることもなかった。秀吉を支え続けた彼女ではあるが、お茶目で、賢く、また度胸もあった。こんな素晴らしい女性は歴史上いなかったと思われる。

その豊臣秀吉の妻・「ねね」(「おね」と呼ばれることもある)は、秀吉の死後、何故京都に住むようになったのか?

ねねが秀吉とともに過ごした地で思い出深いところはいくつかあるであろうが、秀吉の行った事業を目の当たりに見て、しかもその跡(あと)が色濃く残っているところといえば、京都である。したがって、ねねは、秀吉の死後、秀吉を偲ぶために京都に住んだのである。その頃、ねねは北政所と呼ばれていたが、北政所は秀吉を偲びながら彼の霊を弔っていたのである。


「京都とねね」:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kyoutotonene.pdf

沖縄の歴史(その16)

沖縄の歴史(その16)

第5章 琉球が日本国に併合されるまでの経緯(その1)
第1節 琉球藩の設置(その1)


琉球藩の設置は、第一次琉球処分と呼ぶこともあるが、処分というのは手段であり、目的ではない。したがって、琉球藩の設置を第一琉球処分として語っては、その目的が見えなくなってしまう。なぜ明治政府は、琉球藩の設置を行ったのか、そこが一番大事であり、それをこれから語りたいと思う。その際に大事なのは、歴史観であり、基本的に正しい歴史観を持っていないと、琉球藩の設置を行った明治政府の動機も見えてこない。歴史観というのはまことに重要である。第1章から第4章まで縷々述べてきたように、琉球に対する正しい歴史観は、琉球に人々はもともと日本民族であり、琉球王国の国王の出自は北九州豊後菊池の名和一族であるという歴史観である。基本的にそういう認識を持っていただいて、これからの私の説明を聞いてもらいたい。

当時、中国は、諸外国もそうだが、琉球は独立国で日本のものではないという認識に立っていた。そういう状況のもとではあったが、明治政府は重大な決意を持って琉球藩の設置を行った。明治政府は、日本本土の廃藩置県の翌年、1872年(明治5年)に、琉球国王・尚泰を、明治政府により「琉球藩王」とするとともに大日本帝国の華族の身分を与えた。これが琉球藩が設置である。このことは、私は明治政府の大英断だと思うのだが、人によっては不合理な断行と見えるかもしれない。そこでまず私の考えを申し述べたい。

1842年、イギリスはアヘン戦争で清国に勝利すると、南京条約締結し、清国に香港を割譲させ、寧波、厦門、福州、広東、上海を開港させた。イギリスに遅れをとったフランスや米国は、東アジアに残された最後の未開国、日本に狙いを定める。フランスや米国もイギリスに続いて、清国と同等の条約を締結し、これら大陸沿岸の港を自由に使えるようになった。それから2年後の1844年には、フランスの艦隊が琉球に姿を表し、その情報が即座に薩摩に伝わったのである。それら西欧列強は日本開国の拠点として琉球(沖縄)を狙っていた。薩摩の志士はそれを単なる琉球の危機ではなく、薩摩藩の危機、そして日本国全体の危機と認識し行動を開始したので会う。だからこそ、明治維新は薩摩藩から始まっていったのだ。

 

 

水田農業のあり方(その7)

水田農業のあり方(その7)
おわりに


生源寺真一は、「日本の農業の真実」のなかで、『ひとことで農業政策といっても、その範囲は実に広い。しかし、日本農業最大の問題は水田農業にある」と述べている。そこで、水田農業に焦点を絞って、「農業再建」と「日本の農業の真実」を読んだ。そして、危機的状況にある水田農業にも大いなる希望があることを私なりに理解した。

しかし、水田農業を生源寺真一の描く姿にまで持っていくには、やはりいくつかの課題があるように思われる。

例えば・・・、生源寺真一は、『 農業経営の厚みを増す戦略のひとつは、土地利用型農業の生産物自体の付加価値をめることである。例えば、環境に配慮した減肥料・減農薬の生産物を提供する。有機農業も付加価値をアップする取り組みとして有効であろう。これら環境保全型農業のポイントのひとつは、的確な情報発信を伴っているということである。情報発信の手段はいろいろある。表示による伝達もあれば、インターネットを利用する発信もある。あるいは、例えば生協の産直は産地との交流をひとつの条件にしているが、交流の場におけるコミュニケーションによって生産プロセスの工夫を伝えることもできる。このような多彩な情報発信の取り組みはそれ自体として若い人材を引きつける要素であり、かつ、若者が得意とするジャンルの仕事である。』・・・と言っているが、

そのような農家の取り組みだけに頼っていては、実効がなかなか上がらないのではないか。そこで私が思うには、国直営の研修制度を作って、全国あちこちで行われている魅了的な先進事例を若い担い手に学ばさせるというようなことができないか。

生源寺真一の提案には、個々の農家や農村集落の自主的な取り組みが多いが、それを支援する国の政策が必要かと思われる。

 

支援ではなく、国自らの問題もある。例えば、農地法に関連して、生源寺真一は次のように言っている。すなわち、

『 農地法の理念はよい。しかし、理念のもとにある法律や制度の枠組みに改善の余地がないわけではない。農地の貸借・売買の領域に限定すると、最大の問題は法制度が複線化した状態になっていることである。もともと農地法一本であった農地の権利移転の制度的なルールには、農地法の改正や新たな法律の施行などの経緯を経て、現在では農業経営基盤強化促進法による権利移転、同法のもとで農地保有合理化事業によって仲介される権利移転が加わってる。大きく三つのルートからなっているわけである。そして、それぞれのルートの運用は別々の組織に支えられている。もともと農地法のルートは農業委員会である。委員の大半は選挙で選ばれた農家の代表である。農業経営基盤強化促進法による権利移転は市町村、農地保有合理化事業h農地保有合理化法人である。農地保有合理化法人は農地の一時保有機能を持つことで、貸し手(売り手)と借り手(買い手)の仲介を行う機関であり、都道府県レベルに設置することができる。

このようなややこしいことになっているので、複線化した組織の機能をひとつの傘のもとに統合すべきである。ワンフローアー化である。』・・・と。


以上のように、国が農家なり農村集落なりに支援するものと国自らが取り組むものがあるのではないか。

政治の役割および行政の役割の重要性は絶大である。国は、生源寺真一の「日本の農業の真実」を奥深いところから理解の上、水田農業の再生、地域再生のために全力を尽くしてほしい。


「はじめに」にも申し上げたが、『おわりに」再度申し上げる。故郷は、実際の故郷のみならず、心の故郷も含めて、ただ単に懐かしいという思いを抱かせるものにとどまらず、哲学的意味を持ったものであり、絶対に守りとおしていかなければならなものなのである。

山岳部で歌った歌(その2)

山岳部で歌った歌(その2)

シャレコウベと大砲

https://www.youtube.com/watch?v=pK24Z-7Flj4

2020年7月30日 (木)

鞍馬寺

鞍馬寺

鞍馬寺の高い人気の秘密は、サナート・クラマ縁起や牛若丸伝説に負うところが大きいが、 くわえて「鞍馬の火祭り」、「鞍馬の竹切り会(え)」、「満月祭」などのユニークな祭りのおかげである。 なかでも満月祭は珍しい。

虎は鞍馬寺と深い関わり合いがある。金星から降臨したサナート・クマラの霊波を 受けて、鑑鵜(がんてい)上人は鞍馬山上に 導かれてきたのは、宝亀元年正月4日午前4時、つまり寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻であった。そして、 燦然と輝く太陽の中に 毘沙門天を拝したのであった。サナート・クラマが毘沙門 天の姿をとって降臨されたのだが、そんなところから、 虎は、鞍馬寺に大変関係の深い神獣となっている。金堂に安置された毘沙門天、吉祥天、ゼンニシ童子は国宝だが、「阿吽の虎」がこれらをおまもりしている。

鞍馬寺といえば、牛若丸の修行したところとして有名だが、その先生は鬼一法眼(きいちほうげん、おにいちほうげん)という説がある。鬼一法眼は、京の一条堀川に住んだ陰陽師。『六韜』という兵法の大家でもあり、文武の達人とされる。また剣術においても、京八流の祖として、また剣術の神として崇められている。鞍馬寺境内には鬼一法眼を祀る鬼一法眼社がある。

「鞍馬の火祭り」: https://www.youtube.com/watch?v=mHw-nCFcPrQ
「鞍馬の竹切り会(え): https://www.youtube.com/watch?v=1IIbaCYVTFc


5月の満月が中天にかかる頃、ろうそくを手にした大勢の参拝者が黙々と本堂に集まって、 霊水と護摩供(ごまく)を受け、月が輝きを失う未明までみんなで祈りを捧げる誠にエキゾチックな祭りである。


魔界・鞍馬山は、不気味な中にもなんとなく懐かしさがある。奥の院から貴船 神社へ・・・極相林を抜けるその参道は、荘厳そのもの。身が引き締まる。それが鞍馬寺である。

鞍馬寺について: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kuramani.pdf

 

沖縄の歴史(その15)

沖縄の歴史(その15)

第4章 鎌倉時代から明治にかけての琉球(その6)
第5節 琉球初の正史「中山世鑑」について

琉球王国の正史『中山世鑑』(1650年に成立)や、『おもろさうし』(1623年成立)、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、12世紀、源為朝(鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとされる。

日琉同祖論は、歴史的には16世紀の京都五山の僧侶等によって唱えられた源為朝琉球渡来説に端を発し、それが琉球へ伝わり17世紀に摂政・羽地朝秀が編纂した『中山世鑑』に影響を与えて、明治以降は沖縄学の大家・伊波普猷によって詳細に展開された。

琉球王国の人々と私たち日本人は同じ民族である。ただし、琉球王国の人々が正式に日本国民となったのは、琉球処分の後になってからである。琉球王国の人々と私たち日本人は同じ民族であるとの認識は、学識の高い京都五山の僧侶等にも琉球王国の識者にもあったに違いない。

琉球王国の正史『中山世鑑』を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の1673年の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている。

琉球王国の正史「中山世鑑」にはいわゆる創世神話も書かれている。
沖縄諸島地域は長らく、日本とは別の琉球王国としての歴史を歩んできたが、その中で民族の創始などを伝える神話もまた「古事記」や「日本書紀」を代表とする大和の王権の持つ神話とは別の神話を有してた。
民間レベルにおいても、それぞれの地域や島にさまざまな創世神話、宇宙開闢神話が残されている。

沖縄にこれだけ多くの神話が残されているということは、まことに特異なことで、琉球列島が大和朝廷の歴史書・古事記の影響を受けたということではなく、双方がいずれも同じ系列の下にある神話だということを示すものである。琉球列島及び大和朝廷の神話のルーツは、 黒潮文化圏( パプアニューギニア、 ハワイ、インド、ラオスとタイ、オーストラリア、 ニューへブリデス諸島)にあり、アイヌ神話と同じルーツを持っている。

北海道の有珠モシリ遺跡や虻田町の入江貝塚から、鬼界島カルデラの大噴火の際、西日本本土のみならず北海道まで逃げて行った人たちがいたことがわかる。それらの中には、そのまま北海道に居続けてアイヌの祖先となった人たちがいた。

第4章第5節の本文:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/okireki45.pdf

 

 

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