2019年12月16日 (月)

平野神社

平野神社 


高野新笠の祖神として平城京に祀られていた神祠が今の位置に祀られ、格式の高い、また広大な神社となったのは、今の桓武天皇の意思によるものである。

桓武天皇は、高野新笠の一族に大事に育てられ、道教の思想という新知識を身につけていく。その新知識がなければ、平安遷都はありえなかった。母親思いの桓武天皇は、母親に感謝しながら、平野神社の創建に力を注いだようである。

平野神社 :http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hiranojinjya2.pdf

シャングリラ(その18)

シャングリラ(その18)
第2章 中国という国(その5)
第2節 宗教について(その3)
2、道教の盛衰(その2)

明・清の時代には道教や仏 教は急速に衰退し、教団も発展せず腐敗した。
明の太祖朱元璋は、白蓮教・摩尼教(明教)などの民間宗教組織の農民による反乱からやがて政権の座についた人である。彼はその利害をよく知ってい たので、宗教活動に対して厳しく制限する政策を取った。 朱元璋は、首都に道 録司を置いて天下の道士を管理させ、府には道紀司を置き、州には道正司を置き、県には道会司を置いてその管理を分担させた。彼は僧侶・道士の組織が造反す ることを恐れ、僧侶・道士を非常に警戒した。40歳以下の人の出家を禁止して政府が度牒を発給するようにし、州や県の寺や観の数量を制限し、勝手に建てる ことを許さなかった。また、各府・州・県に宮観を一か所だけにして僧侶や道士を集中管理し、そのほかの場所に住む僧侶や道士を重罪として処罰した。

清の貴族は、その出身が満州ということもあってもともとチベット仏教を信仰していた。彼らは山海関以南に入ると、基本的には明代と同じように道教を制限・管理・保護する政策を 取った。だから、明の時代に引き続き、道教の衰退と世俗化という流れも依然として続いた。 清代の最も大きな社会問題は、民間の秘密宗教が起こったことである。 清代におけ る民間の秘密宗教の数は215種にも達し、ごたごたと連なって地下秘密王国ともいえるものを構成した。
明・清以降には正当な道教は衰退したが、 それは民間宗教が信徒を奪い、その地盤を占拠したこととも関係がある。
明・清の時代から、第二次世界大戦を経て、中華人民共和国の時代に入るが、道教の衰退は続く。特に、文化大革命の時期には他の宗教同様に攻撃の対象となり、道士は還俗し、多くの道観が破壊された。しかしながら、1980年代になると徐々に宗教活動が認められ、中国道教協会が運動して「全国重点道観」21箇所が国務院宗教事務局から指定されるなど、道教は復興を果たした。

 

地方創生の成功のために(その13)

地方創生の成功のために(その13)
第4章 東京一極集中の是正(その3)

法人の儲けに係る税金は、「法人税」、「法人住民税」、「法人事業税」の3種類から構成されている。 1つ目の法人税が、その他の2つの税(「法人住民税」と「法人事業税」)と異なる点が「国税」であるという点である。その他の2つは「地方税」となる。そして重要な点は、法人税は、法人(会社)の「所得」に課税される税金であり、ここでのポイントは、「所得」=「利益」ではないという点である。つまり、法人税というのは、その会社が儲けていようがいまいが、必ずかかる国税である。それが、東京に本社を置いてままでは高く、移転すれば安くなるとなれば、企業は移転の意志決定を行う行う動機になる。そういう観点から言えば、地方拠点強化税制や地方再生法の改正では不十分で、国税に関する税制上の特別措置(特別立法)が必要なのである。

法人が負担する実質的な税の負担率のことを、法人実効税率と呼ぶ。企業が納める税金は、法人税だけでなく、地方税・事業税等多岐にわたる。それら全てを加味し、税の一部が税制上損金に参入されることも考慮して、算出されているのである。

 

山岳部で歌った歌(その1)

ピレネエの山の男

山岳部の時代、雨や雪に降り込められて2〜3日テント生活をすることがよくありました。そのような時昼間は退屈ですることがないものですから、雪山賛歌のほかいろんな歌を歌ったものです。誰かがどこかで仕入れてきた歌をみんなで歌ったのです。一般的には知られていない歌が少なくないのですが、もちろん中には有名な歌もあります。それら私たち山岳部の愛唱歌をこれから紹介していきたいと思います。

山岳部で歌った歌(その1)
https://www.youtube.com/watch?v=mbUE4NdPpRc

2019年12月13日 (金)

八瀬や大原

八瀬や大原

 

八瀬や大原とは、比叡山の西側の麓・高野川の沿岸地域をいう。この地域は、京都の中でも歴史も古く特別の地域である。

大原には、寂光院や三千院などの歴史的な寺院が多くの観光客を集めているし、慈覚大師創建の寺もある。また、京都の風物詩として大原女でも有名だ。しかし、私が是非みなさんに知ってもらいたのは八瀬である。

八瀬には、八瀬天満宮、かま風呂旧跡、八瀬平八茶屋などぜひ訪れて貰いたい場所もあるが、何と言っても、八瀬は「八瀬童子」の故郷であるということだ。八瀬童子は、日本古来の伝統・文化を色濃く伝承してきた部族の子孫であり、しかも少なくとも後醍醐天皇のとき以降天皇と密接な関係にあった人たちである。

ということで、京都の特別の地域「八瀬と大原」を紹介したい。

八瀬や大原: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yaseyaoohara.pdf

シャングリラ(その17)

シャングリラ(その17)
第2章 中国という国(その4)
第2節 宗教について(その2)
2、道教の盛衰(その1)


宗教というものは、その時の権力者の意向によって、盛んになったり衰退したりする。日本の神道と仏教は、多少の揺らぎはあるものの、歴史を通じておおむね安定的に発展してきた。それに比べて、中国の道教と仏教は、その盛衰が激しい。以下において、道教の盛衰についてその歴史をざっと見て見よう。


中国史における南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。
南北朝時代の華北の国・北魏は、100年ほど続いたが、その後、東魏と西魏に分裂した。東魏(とうぎ、534年 - 550年)は、函谷関の東側の国であり、西魏(せいぎ、535年 - 556年)は、函谷関の西側である。そして、西魏から北周へ、東魏から北斉へと政権が変わるが、その北周の第3代皇帝・武帝宇文は 仏教を弾圧し道教を盛んにした。

さらに、589年、隋の文帝楊堅は即位すると、引き続き道教を盛んにした。 楊堅は幼いとき尼の智仙に育てられたので、自ら「私は仏法から興った」と称していた。だから、隋のはじめには、三教の順位は仏教が先、道教が次、儒教が末と定められ たが、道教もそれなりに盛んだったのである。
さらに、隋末には、道教は隆盛を極める。
道士たちは群雄の中から未来の帝王を予測した。「天道は改まり、老君の子 孫が世を治めようとしている」といった道教の予言が当時の社会に大きな影響を与えたのである。著名な道士の多くは、予言された帝王は李淵と李世民のことであり、彼らは老君の子孫なので、天子になると道教を盛んにする だろうと言った。

李 淵(り えん)は、唐の初代皇帝。隋末の混乱の中で長安を落として根拠地とし、恭帝侑を隋の正統として立てたうえで、その禅譲により唐を建国した。李世民は、父である初代皇帝・李淵を助けて多大な功績があり、実質上な建国者と見なされる事も多い。自身が即位してからは「貞観の治」と呼ばれる善政を敷き、後漢末以来の断続的な動乱を収めて、唐定刻300年の礎を築いた。

李唐の建国後、太上老君が唐帝の祖先であると称し、太上老君が羊角山などの地に現れたという政治神話はさらに 多くなった。唐朝の王室は公然と老子を「聖祖」として尊び、自ら老子の子孫であると称した。そのようにした理由の一つは、符命という予言を借りて李氏が帝 を名乗ることの合理性を論証するためであり、政権を神聖化しようとしたのである。もう一つの理由としては、士族の門弟を重んじる社会環境だったので、老子 の名声と人望にあやかり帝王の宗族の社会的地位を吊り上げようとしたのである。
このように、道士の予言通り、 唐朝の王室は公然と老子を「聖祖」として尊び、自ら老子の子孫であると称したので、道教は嫌が応にも隆盛を極めたのである。
唐の高祖は道教が先、儒教が次、仏教が末という三教の順位を確定して道教を尊ぶ国策を宣布した。武徳九年(626年)の「玄武門の変」では、法琳を はじめとする仏教徒が太子の李建成(李 建成は、唐の初代皇帝高祖李淵の長子。高祖の即位に伴い皇太子に立てられたが、玄武門の変にて弟の次弟の李世民に殺された。)を支持し、王遠智をはじめとする道教徒が秦王の李世民を支持した。その結果、李世民が建成を殺して帝を称し唐の太宗(二代目の皇帝と なった。唐の太宗は貞観十一年(637年)に仏教と道教の優劣を定めるために双方に議論をさせ、引き続き道教を推奨して仏教を抑圧する政策を宣布した。

 

地方創生の成功のために(その12)

地方創生の成功のために(その12)
第4章 東京一極集中の是正(その2)

「地方創生を超えて・・・これからの地域政策」(2018年7月、岩波書店)では、東京一極集中に関連して、企業の「本社」について次のように述べている。すなわち、

『 2011年の東京都産業連関表における産業別生産額を見ると、「本社部門」の生産額が27兆4526億円となっており、産業連関ベースでの東京都の生産額の16.8%を占め、サービス産業に次ぐ東京都の第2位の「基幹産業」となっている。東京都においては、生産機能を持たない本社の活動が都市の経済活動を支えている実態が浮かび上がってくる。日本の各地域から多くの資金が実体的な生産活動を伴わない組織管理の間接的な収益として東京に吸い寄せられ、それが東京の「本社」産業となり、本社から多くの税金が東京にある税務機関に納められ、政府の財政資金となっていくマネ^フローの姿が見えてくる。』・・・と。

企業の「本社」は、東京の基幹産業であるという。アメリカではNYやワシントンに本社がある企業は少ないと言われている。日本で企業の「本社」が東京に集中したのにはそれだけの理由があるとは思うけれど、東京一極集中是正という観点から言えば、企業の本社は、その企業の創業の地に帰るなり、どこか環境の良い地方都市を見つけてそこに移転すべきである。

東京の集積構造は、企業の「本社」によるものだけではない。東京中央市場には、全国から生鮮食料品が集まってくる構造になっているし、鉄道・航空も東京を中心とするネットワークとなっている。サービス産業も東京は盛んだし、多種多様な仕事があるので、そういう面からも東京は集積構造になっている。したがって、企業の「本社」が地方に移転したからといって、東京一極集中が解消されるというわけではない。しかしながら、多くの「本社」が地方に移転すれば、東京一極集中是正にある程度の効果はある。このことは間違いない。したがって、国は、「まち・ひと・しごと創生基本方針2018」(平成30年6月15日閣議決定)のなかに「地方への企業の本社機能の移転・拡充の促進を図る」ことが明確に示された。そして、その裏打ちのために、地方拠点強化税制や地域再生法が、平成30年に改正されている。

地方拠点強化税制というのは、安定した良質な雇用の創出を通じて地方への新たな人の流れを生み出すことを目指し、地方活力向上地域において本社機能を有する施設を整備する事業を地域再生計画に位置付け、当該事業に関する計画について都道府県知事の認定を受けた事業者に対し、課税の特例等の優遇措置を講ずる制度である。

地方再生法とは、地域経済の活性化や地域における雇用機会の創出など、地方公共団体の自主的・自立的な取り組みによって、地域の活力の再生を総合的かつ効果的に推進することを目的とする法律で、平成17年(2005)に制定された。それが、平成30年に改正され、本社機能の移転を行う企業に対する国税の優遇措置が実施されるようになったのである。

しかしながら、これらの優遇措置というのは、東京23 区から地方に本社機能を移転する場合、移転先で必要となる施設整備や雇用に対する優遇措置であって、企業が移転の意志決定を行うときの動機にはなり得ない。企業が移転の意志決定を行うときの動機になり得るためには、東京に本社機能を置いておくよりも地方に移転した方が安上がりになるということが必要で、そのための国税に関する税制上の特別措置が必要である。

 

 

大学時代の愛唱歌(その6)

大学時代の愛唱歌(その6)雪山賛歌

1927年(昭和2年)1月、京都帝國大学山岳部の仲間たちと群馬県吾妻郡嬬恋村の鹿沢温泉に来ていた西堀榮三郎(のち第一次南極観測越冬隊隊長)が、冬場の雪で足留めを食らった際に、退屈を紛らわせるために仲間たちと「山岳部の歌を作ろう」を話し合い、詩を書いた。
山岳部の仲間内で気に入っていたという『いとしのクレメンタイン(Oh My Darling, Clementine)』のメロディーに言葉を当てはめ、好きなままに詩を作ったということを、西堀自身が後に著書で明かしている。
この曲が世に出た時は、作詞者不詳とされたが、桑原武夫(京都大学人文科学研究所教授)が西堀榮三郎を作詞者として著作権登録の手続きを行った。この著作権印税に拠って京都大学山岳部の財政が潤ったという逸話もある。

 

https://www.youtube.com/watch?v=o-XYEB0dSM8

2019年12月 8日 (日)

北野天満宮

北野天満宮


菅原道真が太宰府に配流(はいる)されて不遇のうちに死んだことはよく知られている。天満宮は受験生に大変人気の神社であり、そこでは、菅原道真 は学問の神様になっているのだが、天満宮ができるまでは、道真の怨霊が凄かったらしい。

遂に、その後942年になって、道真の霊は多治比のあやこという女性にご託宣を下し、道真の霊を祭らせる。天神の誕生であり、北野天神社の創建へと繋がっていく。今の位置に北野天神社が創建されたのは946年である。


北野天満宮: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kitatenjin.pdf

 

シャングリラ(その16)

シャングリラ(その16)
第2章 中国という国(その3)
第2節 宗教について(その1)

1、道教の二面性

第1節において、道教がどういう宗教なのか、その概要を書いた私の論文を紹介した。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/doukyouni.pdf

道教は、老子を教祖とした宗教であるので、そのなかに誠に奥の深い老師哲学を含んでいるのは当然としても、何故あのように面白い神が多いのか不思議である。論文ではその説明がしていないので、それをここで説明しておきたい。

道教はもともと自然発生的に生まれた宗教であるが、それが老荘思想と結びついて、いつ頃から道教という宗教団体ができ たのか、浅学の私には判らない。しかし、老荘思想は、「淮南子(えなんじ)」という書物によって、漢王朝(光武帝)の儒家思想に対抗する形で確立されるの で、その宗教団体の名称はともかく、 漢王朝(光武帝) の時代には現在と同様の「哲学的宗教」が成立していたことは間違いないと思う。その後、「太平道」や「五斗米道」、そして新天師道などの宗教団体が出てくるが、それらの 教祖はもちろん老子ではない。どうも老子が道教の教祖と言われ出したのは唐の時代かららしい。唐王朝の王室には、老子(李氏)の子孫と自認する人が多く、 道教は特別の保護を加えられ優遇されたことに起因するらしいのである。したがって、少なくとも現在は、一般に老子が道教の教祖と言われている。老子という 人物が果たして実在の人物であったかどうか、疑問視されている向きもないではないが、私は、多くの中国人の認識に従って、老子を実在の人物とし、道教の教 祖を老子としたいと考える。

中国の道教は多神教であり、日本の場合と違って、実に面白い神を多い。それは、5世紀、中国・南北朝時代に、 寇 謙之(こう けんし)が神仙思想を基にした道教を始めたからである。神仙思想を基にした道教を神仙道教と呼ぼう。道教の様々な面白い神が老荘思想から生まれたわけではない。 寇 謙之(こう けんし)から発達した神仙道教に 実に面白い神を多いのである。
では、神仙思想とは何か? 仙人とは、道教の真理である、道(タオ)を体現した人とされるが、その仙人になるための方法論が神仙思想である。中国では、歴史的にさまざまな仙人が出てきているし、その方法論も時代とともに非常に発達してきた。仙人に関わる伝説も多いし、仙人の世界というのは実に面白い。

「老荘の思想」と寇 謙之(こう けんし)の始めた道教とは、本来、関係はないが、現在、道教といえば、隋や唐の時代に発達した道教の他に、寇 謙之(こう けんし)の始めた道教も含んでおり、しかもそれら道教の教祖は老子ということになっているので、寇 謙之(こう けんし)から発達した神仙道教を含む現在の道教、それらを支える哲学は、老荘思想ということだ。道教は、詳しくいえばこういう歴史的背景があるのだが、ひとくちに言って、道教の哲学は老荘思想ということだ。

 

 

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