2019年11月20日 (水)

勝ち名乗り

勝ち名乗り

https://www.youtube.com/watch?v=Pc-lb4UbH-I&fbclid=IwAR0pqAJUqjSSELR2Oj4WltSiP8g64dReNkvmGBbttcwUxBgps1sOy5X-mwM

 

広河原の火祭り

広河原の火祭り

 

白洲正子の名著に「かくれ里」(1991年4月、講談社)がある。その中に「山国の火祭り」という随筆があって、次のように書いている。すなわち、

『 京都は花背原地町の峯定寺の前に、美山荘という料理旅館があって、おいしい山菜料理を食べさせてくれる。(中略)部屋のすぐ前を小川が流れているが、この辺では寺谷川と呼んでいるが、原地の部落で本流(嵐山を流れる桂川の上流)と一緒になり、今夜の火祭りはその二つの川が寄り添う「河内」で行われる。(中略)ドライブと山登りの後のお酒はおいしかった。十時頃にはいいご機嫌になって、暗闇の中を「河内」まで、どことどういったのかさっぱり記憶がない。突然、目の前が開けて夢のような光景が現れた。正面の山から、前の田圃へかけてまばゆいばかりの火の海である。その間を松明をかかげて、おそろしい勢いで火をつけて回る人影が、まるで火天か韋駄天のように見える。夢ではないか、狐につままれたんではないかと、私は何度も目をこすった。』

『 こうして書いていても、あの夢のような風景が、今もって現実のものとは思われない。私はまだあの夜の酔いがさめないのであろうか。それとも狐に化かされたのか。』

『 観光とはまったく関係のない自分たちだけのお祭り、太古のままの火の行事は、私が見た多くの祭りの中でもっとも感動に満ちた光景だった。大文字や、鞍馬の火祭りに失われたものが、ここには残っていた。いささかも仏教臭のない、健康な喜びと感謝の祈り、そこには人間が初めて火を得た時の感激がよみがえるかのように見えた。』

『 つい最近まで、同じような火祭りが、各部落で行われていたいうが、現在残っているのは、原地と広河原だけで、ついでのことにそちらの方へまわってみることにする。広河原は、原地からは上流にあり、着いた時は、ちょうど「松上げ」にかかったところであった。原地とはちょっと違った雰囲気で、山はないかわり、広い河原が見渡す限り地松で埋められ、炎が水にうつってきれいである。やがて、めでたく火がつき灯籠木が倒されて、すべてとどこりなく終わった。このような火祭りが、方々の部落で行われた頃は、さぞかし壮観だったことだろう。火の祭りは、同時に、水の祭りであることもよくわかった。してみると「拝火」より「火伏せ」の方に重きがおかれたに相違ない。二月堂のお水取りにも、火天と水天が出るが、その時用いられる籠松明が、灯籠木を模していることも注意していい。山国に発生した火祭りは、そういう風に形をととのえて、仏教に取り入れられ都会へ運ばれていったのであろう。』・・・と。

 

 

東大寺二月堂の火祭りは、実忠によって始められたということは、多くの人の知るところであるが、白洲正子が言うように、二月堂の火祭りの起源が京都市左京区花背原地町や広河原能見町の火祭りにあるなどということは、誰一人言った人はいない。花背原地町や広河原能見町の火祭りは、上述のように、白洲正子は「夢のような風景」と言っているので、私はずっとそのことが気になっていた。そこで、今回、花背原地町や広河原能見町の火祭りについて調べることとした。

では、花背原地町や広河原能見町の火祭りがどのようなものか、その点を見てみたい。
まず、花背原地町の火祭りについては、いくつかのYouTubeがあるのでそれらをご覧いただきたい。
https://www.youtube.com/watch?v=NN4xlI3JV6k

https://www.youtube.com/watch?v=C7-7R71oz2w


これでおおよその感じはつかんでいただけると思うが、火祭りの詳細は判らない。しかし、広河原の火祭りについて、詳細の判る素晴らしいホームページがあるので、それを紹介しておきたい。
http://blog.livedoor.jp/ken3m_kyoto/archives/cat_46763.html

 

凄いでしょう。凄い!凄いの一言に尽きる。

シャングリラ(その10)

シャングリラ(その10)

第1章 シャングリラという所(その8)
第2節 梅里雪山(その6)

それでは、再度、梅里雪山の最高峰・カワカブを見ておこう。

京都大学学士山岳会・小林 尚礼(こばやし なおゆき)君の説明によれば、カワカブ(漢語名:太子雪山、標高6,740m)は、伝説上の山群の主(あるじ)である。仏教が伝わる以前、カワカブはロンツェン・カワカブと呼ばれ、災いをもたらす鬼神だったという。それは9つの頭と18の腕をもつ恐ろしい姿をしていた。 やがて、チベット仏教ニンマ派の開祖グル・リンポチェによって調伏され、仏教の守護神ネンチン・カワカブに変わったと伝えられている。

なお、京都大学学士山岳会・小林 尚礼(こばやし なおゆき)君のホームページには、
梅里雪山の巡礼についても詳しい説明があるので、それをこの節の最後に転記させていただくこととする。
南北につらなる梅里雪山の山群を、長大な巡礼の道が一周している。一周約300km、徒歩で10日以上かかる道である。瀾滄江(メコン川)の本流から、標高4,000mをこえる分水嶺をこえて怒江(サルウィン川)へいたり、再び分水嶺をこえて瀾滄江へ戻る。
 谷底はサボテンが生えるほど暑く乾燥し、分水嶺の峠は一年の半分近くを雪に覆われる。最低所の標高は1,700m、最高所は4,815m。多くの上り下 りを繰りかえす山道であり、とくに登下降の厳しい峠が5つある。その長く過酷な巡礼の道で、命を落とす人もいるという。この巡礼路をチベット仏教徒は毎年 数多く訪れるが、外国人で歩いた者は数えるほどしかいない。この過酷な道を、チベット人はなぜ巡るのか。 

 彼らは、回るという行為に重きをおく。お経の入ったマニ車を回し、寺院の周囲を回り、聖山や聖湖の周りを回る。回る行為は、お経を読むことと同じ価値が あるという。彼らは、聖山を巡礼する目的を「現世の幸せのため」、そして「よりよい来世のため」だという。過去に犯した罪を帳消しにするためや、病気がち の体を治すために巡礼するという人もいる。

 梅里雪山の巡礼はいつごろ始まったのか。
 巡礼路沿いの岩には、ロンツェン・カワカブを退治したとされるグル・リンポチェの「足跡」が残されている。グル・リンポチェは8世紀に実在したとされる人物だ。梅里雪山の巡礼は千年以上前から行われているという話があるが、その数字は大げさなものではないかも知れない。カワカブの巡礼は、一生に3度行くことが望ましいと言われている。一度は父のため、一度は母のため、一度は自分のためである。
西側から見た梅里雪山:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/syan111.jpg
梅里雪山一周の巡礼路:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/syan112.jpg

地方創生の成功のために(その5)

地方創生の成功のために(その5)
第1章 国が持つべき問題意識(その4)

宮中の新嘗祭は本来、祭祀に先立って前夜に、「忌火御膳の儀」(新たに切り出された清浄な火で炊かれた御飯などの御饌を御神前に御供えする)と「鎭魂祭」(嚴重な潔齊の上、歴代天皇をはじめとする皇族の御魂を鎭め賦活する)が神嘉殿で行われている。なお、新嘗祭の神饌(しんせん)は、全国各地から献納された新穀が用いられる。

新嘗祭は、宮中と同時に伊勢神宮に於いても執り行われているが、民間に於いても五穀豐穰の感謝の祭りとして、毎年11月23日に全国の神社でも、それぞれに御祭が執り行われている。一言で言えば、「新嘗祭」は五穀を中心とした、新穀の収穫を神々に感謝し、祝う祭りである。 

新嘗祭は、夕刻から深夜にかけて齋行される「夕の儀(ゆうのぎ)」と、深夜から明け方にかけて齋行される「暁の儀(あかつきのぎ)」から構成される。

祭祀当日、身を清められた 天皇は、綾綺殿(りょうきでん)に出御され、純白の絹の御祭服を召される。夕刻になると 天皇は、神嘉殿に進まれ、外陣の御座に著御される。
この間、膳舎(かしわや、神饌を調進する殿舎)から神嘉殿に神饌が運ばれてきます。

神楽歌が演奏される中、 天皇陛下は内陣にお進みになられ、御座に著御され、御手づから箸を取られ、柏の葉を重ねて竹のひごで結った葉盤(ひらて)と言う御皿に神饌を御親供(ごしんく、天皇御自ら神に供物を捧げること)される。新穀から調進した神饌を 天皇御自ら御勧めし、神々に御召しあがり戴くのである。

御親供の後、 天皇は御拝禮なされ、次いで皇祖(こうそ、天皇の祖先)への御告文(おつげぶみ)を奏される。御告文が終わると 天皇は、神々に捧げられたものと同じ神饌の米と粟との御飯、御酒(白酒・しろき、黒酒・くろき)を御召しになられる。此の儀を「御直會の儀(おんなおらいのぎ)」と言う。 皇祖と飲食を共にされることは、新嘗祭の核心ともいうべき嚴肅な儀である。

御親祭を終えられた 天皇は、神嘉殿を御退出される。続いて 天皇は、同じく神嘉殿で、深夜から暁にかけて「暁の儀」 を御親祭される。このように、 天皇は、夜を徹して最高の丁重さを以て神々をおもてなしされるのである。
「 故郷は、実際の故郷のみならず、心の故郷も含めて、ただ単に懐かしいという思いを抱かせるものにとどまらず、哲学的意味を持ったものでもあり、絶対に守りとおしていかなければならなものである。」ということ、「日本は歴史的に瑞穂の国である」ということ、この二点が国が持つべき問題意識である。

美しい日本の歌(その19)

美しい日本の歌(その19)
スキーの歌

https://www.youtube.com/watch?v=KNWI19yTOPg&list=PLrw8btfus_oVvN5sx4-LQx3kCEmOwPXRM

美しい日本の歌(その19)

美しい日本の歌(その19)
スキーの歌

https://www.youtube.com/watch?v=KNWI19yTOPg&list=PLrw8btfus_oVvN5sx4-LQx3kCEmOwPXRM

2019年11月17日 (日)

回峰行

回峰行


白洲正子の「私の古寺巡礼」(2000年4月、講談社)で回峰行について次のように書いている。すなわち、

『 それを紹介する。NHKテレビの「行」という番組では、けわしい山道を、阿修羅のごとく走って歩く回峰から、堂入りを終了するまでのきびしい行を、数ヶ月にわたって克明に映して見せたが、特に感銘をうけたのは、断食に入るまでは、元気のよかった坊さんが、終わった時には憔悴しきって、人々に支えられて出堂する場面であった。9日間の断食といえば、人間にとって極限の苦行である。生死の境を超えて復活した人間は、もはや前の人間とは同じ人間ではない、肉体とともにもろもろの欲情は克服され、仏と一体になる。或いは大自然と同化するといってもいい。実際にも、出堂した時の坊さんは、神々しいまで崇高な姿をしており、まわりに集まった人々は、思わず手を合わせて拝んでいた。』

『 光永澄道師に「ただの人となれ」(1979年5月、山手書房)という著書があるが、その中で「断食行」の体験を実に美しく述べていられる。「断食をしてお堂に籠っていると、先ず聴覚が異常なほど敏感になってくる。不審番の衣ずれのおと、線香の灰が落ちる音などが、ドサッとひびく。中でも野鳥の声は、光永さんの内面に、大きな衝撃を与えた。山を歩いている時は、歩くことが精一杯で、鳥の声は単なる「音」でしかなかった。「間も山に在りながら、その妙音を聴き流していたのである。聞くとは正しくこれでなければならない。身内の心が動かされねばならない。・・・おや、おれが啼いている。そう聴こえたのである。・・・チチと啼けば、こちらの胸の内もチチと啼いている。そう聴こえたのである。そしてその鳥は、(無動寺の)明王堂の屋根の上には止まらず、比叡の峰々へ飛翔して行くであろう。その時こそ、自由に翔べるのである。鳥が光永であり、光永が鳥であった」』・・・と。


「堂入り」はまさに千日回峰行のハイライトである。凄いの一言に過ぎる。凄い!

回峰行の詳しい説明は次をご覧ください。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kaihougyouni.pdf

 

 

シャングリラ(その9)

シャングリラ(その9)

第1章 シャングリラという所(その7)
第2節 梅里雪山(その5)

これらのホテルから飛来寺も歩いてすぐのところだ。飛来寺については、次のホームページに詳しい説明がなされているので、その説明を転記させてもらう。
http://www.arachina.com/shangri-la/attraction/feilaisi.htm


飛来寺は、1614年に創建された385年の歴史を持つチベッ ト寺院である。敷地面積は1500㎡あり、正乙山の地形にしたがって階段状に建てられています。曲がりくねった川、木漏れ日輝く松の森、さわさわとした葉ず れの音、心の和む風景が楽しめます。寺の正門に「古寺無灯凭月照、山門不鎖寺雲封」と書かれ、寺の幽静さを語っています。
飛来寺は子孫殿、関聖殿、海潮殿、両廂(部屋のように仕切られた所)、両耳(廂と同じ)、四配殿からなり、儒教、道教、仏教の三つを合一させて巧みに配置 されている。海潮殿は中心的存在でその建築と彫刻は最も優れている。本堂は「単檐懸山頂、七檀抬梁式」(中国古代建築の様式、日本で言えば切妻屋根 で、大平が1層、陸梁(ろくばり、屋根の重さを受けて下へ伝わる役割)が7本)で、棟と柱はすべて太い丸太を採用し、広々として荘厳な雰囲気が漂っている。軒の支える柱の下に大きな須弥壇(仏像を安置する台)の石台座があり、上に人物や花、装飾文様などが彫られ、軒下の華美な木彫り、窓や門、木格子に施 された花鳥風月の彫刻などと相まって、精美を極めたものとなっている。
海潮殿は山を削って造られ、岩壁が本堂の壁となっている。今なお頑丈で壮観だ。御本尊の「竜王娘の嫁入り図」は、職人によって岩壁から彫り出されたものである。その左は十八羅漢、右は西遊記の物語、彫刻は緻密で神業と賞賛されている。
寺の前に一筋の泉があり、これを飲めば歳を取らないと言われている。これを飲み、持ち帰る観光客のため廻りは賑わっている。 展望テラスへ出ると、梅里 雪山の絶景に圧倒される。天を突く頂は一年中雪に覆われ、普段仰向けに見る雲は山の腰辺りにふわふわと浮いていて、そこに人を寄せ付けない、聖地ならで はの神秘によって凛とした雰囲気が漂っている。

飛来寺は、釈迦とこの寺を開いたインド人学僧パドマサンババを祀っており、本堂の壁画に宗喀巴大師、勝楽金剛、天人、及び周辺寺院の活佛(化身ラマ)、寺 の創建者などが描かれている。飛来寺には、以前霊峰に面して日中合同隊遭難慰霊碑があっただが、新しい展望デッキの建設と共に取り除かれ、今は明永 氷河の入り口に新しく設置された。立ち並ぶチョルテン(チベット語で仏塔を意味する)は、十世パンチェン‐ラマが徳欽県を視察したことを記念して建 てられたと言われている。
飛来寺の説明は以上であるが、次に飛来寺の画像が掲載されたホームページを紹介しておきたい。

https://pixta.jp/tags/%E9%A3%9B%E6%9D%A5%E5%AF%BA%E3%82%88%E3%82%8A

地方創生の成功のために(その4)

地方創生の成功のために(その4)
第1章 国が持つべき問題意識(その3)

日本では、奈良時代、律令国家が成立した頃から、著名な神社を中心に稲作が奨励され、稲の神霊の宿った種(もみ)が神社から配られ、秋に実った初穂が神社に奉納された。

やがて、神宮寺が建てられ神仏習合の時代になると、そういう形態の稲作は無くなってしまうのだが、現在なお宮中や伊勢神宮などでは、稲作の儀式が行われている。豊作を祈願し、秋の収穫に感謝するという儀式、それは神の国・日本ならではのことであろう。

新嘗祭とは、古くから国家の行事であり、瑞穂の国の祭祀(さいし)を司る天皇が、国民を代表して農作物の恵みに感謝する式典で、その年の新穀や新酒を神々に供える。 毎年、皇居宮中で行われる新嘗祭には、全国各地からその年に獲れた新穀が納められ、その斎田(さいでん)を「献穀田」という。

新嘗祭(にいなめさい)は宮中祭祀のひとつ。収穫祭にあたるもので、11月23日に、天皇が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に勧め、また、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する。宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われる。また、天皇が即位の礼の後に初めて行う新嘗祭を大嘗祭という。
新穀を得たことを神さまに感謝する新嘗祭は、五穀の豊穣を祈願した2月17日の祈年祭と相対する関係にある祭祀で、この日、宮中では天皇が感謝をこめて新穀を神々に奉ると上もに、御自らも召し上がりになる。 新嘗祭の起源は古く、『古事記』にも天照大御神が新嘗祭を行ったことが記されている。 現在では「勤労感謝の日」として、国民の祝日となっているが、一説によると、命の糧を神さまからいただくための勤労を尊び、感謝をしあうことに由来しているといわれている。私たち日本人は、「勤労感謝の日」の本来の意味を忘れてはなるまい。

 

美しい日本の歌(その18)

美しい日本の歌(その18)
雪やこんこ

https://www.youtube.com/watch?v=aIIuUOl-n8Y

«京都の法観寺