2020年10月22日 (木)

広河原の火祭り

広河原の火祭り

 

白洲正子の名著に「かくれ里」(1991年4月、講談社)がある。その中に「山国の火祭り」という随筆があって、次のように書いている。すなわち、

『 京都は花背原地町の峯定寺の前に、美山荘という料理旅館があって、おいしい山菜料理を食べさせてくれる。(中略)部屋のすぐ前を小川が流れているが、この辺では寺谷川と呼んでいるが、原地の部落で本流(嵐山を流れる桂川の上流)と一緒になり、今夜の火祭りはその二つの川が寄り添う「河内」で行われる。(中略)ドライブと山登りの後のお酒はおいしかった。十時頃にはいいご機嫌になって、暗闇の中を「河内」まで、どことどういったのかさっぱり記憶がない。突然、目の前が開けて夢のような光景が現れた。正面の山から、前の田圃へかけてまばゆいばかりの火の海である。その間を松明をかかげて、おそろしい勢いで火をつけて回る人影が、まるで火天か韋駄天のように見える。夢ではないか、狐につままれたんではないかと、私は何度も目をこすった。』

『 こうして書いていても、あの夢のような風景が、今もって現実のものとは思われない。私はまだあの夜の酔いがさめないのであろうか。それとも狐に化かされたのか。』

『 観光とはまったく関係のない自分たちだけのお祭り、太古のままの火の行事は、私が見た多くの祭りの中でもっとも感動に満ちた光景だった。大文字や、鞍馬の火祭りに失われたものが、ここには残っていた。いささかも仏教臭のない、健康な喜びと感謝の祈り、そこには人間が初めて火を得た時の感激がよみがえるかのように見えた。』

『 つい最近まで、同じような火祭りが、各部落で行われていたいうが、現在残っているのは、原地と広河原だけで、ついでのことにそちらの方へまわってみることにする。広河原は、原地からは上流にあり、着いた時は、ちょうど「松上げ」にかかったところであった。原地とはちょっと違った雰囲気で、山はないかわり、広い河原が見渡す限り地松で埋められ、炎が水にうつってきれいである。やがて、めでたく火がつき灯籠木が倒されて、すべてとどこりなく終わった。このような火祭りが、方々の部落で行われた頃は、さぞかし壮観だったことだろう。火の祭りは、同時に、水の祭りであることもよくわかった。してみると「拝火」より「火伏せ」の方に重きがおかれたに相違ない。二月堂のお水取りにも、火天と水天が出るが、その時用いられる籠松明が、灯籠木を模していることも注意していい。山国に発生した火祭りは、そういう風に形をととのえて、仏教に取り入れられ都会へ運ばれていったのであろう。』・・・と。

 

 

東大寺二月堂の火祭りは、実忠によって始められたということは、多くの人の知るところであるが、白洲正子が言うように、二月堂の火祭りの起源が京都市左京区花背原地町や広河原能見町の火祭りにあるなどということは、誰一人言った人はいない。花背原地町や広河原能見町の火祭りは、上述のように、白洲正子は「夢のような風景」と言っているので、私はずっとそのことが気になっていた。そこで、今回、花背原地町や広河原能見町の火祭りについて調べることとした。

では、花背原地町や広河原能見町の火祭りがどのようなものか、その点を見てみたい。
まず、花背原地町の火祭りについては、いくつかのYouTubeがあるのでそれらをご覧いただきたい。
https://www.youtube.com/watch?v=NN4xlI3JV6k

https://www.youtube.com/watch?v=C7-7R71oz2w


これでおおよその感じはつかんでいただけると思うが、火祭りの詳細は判らない。しかし、広河原の火祭りについて、詳細の判る素晴らしいホームページがあるので、それを紹介しておきたい。
http://blog.livedoor.jp/ken3m_kyoto/archives/cat_46763.html

 

凄いでしょう。凄い!凄いの一言に尽きる。

慈覚大師(その9)

慈覚大師(その9)
第2章 京都における慈覚大師ゆかりの地(その4)
第1節 赤山禅院(その4)

それでは、チャンポコの故郷というか本拠地・山東半島の赤山を覗いて、京都の赤山禅院との繋がりを見てみよう。京都に創建された赤山禅院には、本来の泰山の神・泰山府君の性格と赤山法華院の神・泰山府君の性格という二つの性格を有しているのである。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tyanhuru.pdf

 

 

山の再生(その2)

山の再生(その2)
低林林業と奥山林業の区別を!
私たち京都大学山岳部の先輩であるも四手井綱英さんは森林学の大家であるが、四手井綱英さんがその著書「森林はモリやハヤシではない(2006年6月10日、ナカニシ出版)」のなかでおっしゃっている。森林とは単なるモリやハヤシではない。頂上までぎっしりと森林に覆われた山のことである。そこには,本来,神がおられるのだ。私は,そういう森林の生態系を人工林で壊してしまうことは神を冒瀆する以外の何ものでもないと思う。早急に奥山を本来の森林に改修しなければならない。本来の森林とは人工林でなく,伐採後も天然更新でなければならない。植林をしてはならないのだ。  問題は伐採の費用とその費用負担の問題だが,私は,現在の間伐に対する助成制度をもとに若干の見直しをすれば良いのではないかと考えている。
 なお,念のため言っておくと,奥山林業のあり方としては,天然更新が原則で手入れはしないのである。管理費が要らないということだ。木が大きくなってくると,もちろん用材としての価値が出てくるので,一山いくらで買いにくる人が出てくる。そのときに売れば良いのである。要するに,奥山は財産として持っていて,買い手がついたときに売れば良いのである。四手井さんの考えによれば,それが本来の奥山林業であって,低林林業とはそもそも考え方が違うべきなのである。もちろん低林林業も,人工更新を行わず,萌芽更新を原則とする。したがって,奥山林業も低林林業も,現在のスギやヒノキの人工林を,択伐を進めながら逐次広葉樹に切り替えていく訳だが,伐採後の人工植林という考えを捨てなければならない。そうでないと森林生態系は本来のものに戻らない。山は良くならない。それが四手井さんの考え方だ。

美しい日本の歌(その5)

美しい日本の歌(その5)

https://www.youtube.com/watch?v=8G1EKV9ASjU&list=PLC8k8iTMSZQ0b8KTUsBgvT0l5FBZOzTpl

2020年10月19日 (月)

赤山禅院(参拝日記)

赤山禅院・・・私の参拝日記

比叡山延暦寺や京都御所の守護神・泰山府君を祀った赤山禅院では、赤山法華院の信仰と陰陽道の信仰が習合されている。赤山禅院はまことに不思議なところである。寺院といえば寺院、神社といえば神社である。

そういう誠に不思議なところ赤山禅院に参拝した私の「参拝日記」を紹介しておきたい。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sekisanpai.pdf

 

慈覚大師(その8)

慈覚大師(その8)
第2章 京都における慈覚大師ゆかりの地(その3)
第1節 赤山禅院(その3)
さて、比叡山延暦寺に、あまり知られてはいないが「張保皐(チャンボコ)」の碑がある。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tyanpoko1.jpg
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tyanpoko2.jpg
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tyanpoko3.jpg

張保皐(チャンポコ)という人は、800年ごろに、新羅、唐、日本にまたがる海上勢力を築いた人物である。朝鮮語でチャンボコと読む。張保皐とは漢名であり、本名は弓福(又は弓巴)だった。
張保皐(チャンボコ)は790年頃に新羅南部の海岸地帯に生まれ、810年中国の山東半島に渡り、その地の軍閥勢力であった徐州武寧軍に入って、高句麗人出身の北方軍閥・李正已と戦った。徐州節度使配下の軍中小将の地位を得た後、828年頃に新羅に帰国し、興徳王に面会して新羅人が中国で奴隷として盛んに売買されている実情を報告し、兵1万を授けられて清海鎮大使に任命された。清海鎮は現在の全羅南道莞島郡に相当し、任務は奴隷貿易禁圧である。

張保皐(チャンボコ)は、海賊達を平定するに当たって、武力での鎮圧ではなく、奴隷貿易よりも安定して高収入が得られる海運業・造船業の仕事を与える方策を用いたといわれる。
現在の全羅南道莞島に根拠地を置いた張保皐(チャンボコ)は、新羅南部の群小海上勢力を傘下に収め、唐・日本と手広く交易活動を行い、中国沿海諸港に居住するイスラーム商人とも交易を行った。このため、張保皐の勢力は東シナ海・黄海海上を制覇し、東アジア一帯の海上王国に発展し、その名前は日本でもよく知られるようになった。

 

張保皐(チャンボコ)は北九州の官人や入唐僧などと貿易を通じて深くかかわっていたことが記録されている。張保皐船団が交易を行った福岡(当時の筑前国)の太 守・文屋宮田麻呂は退任後も本家がある京都に戻らず、同地に残り、 張保皐(チャン・ボゴ) と取引をしたほどだという。何であれ、張保皐(チャン・ボゴ)が日本との取引を重 視していたことが大きい。

 

9世紀前半、山東半島の港町・赤山には、当時、多くの新羅商人が居留していた。彼らのために、 張保皐(チャンボコ) は赤山法華院を寄進した。また、 張保皐(チャンボコ) 、短期で帰国しなければならなかった円仁が不法在留を決意したのを見て、円仁のために、地方役人と交渉して長期滞在を可能にした。さらに、 張保皐(チャンボコ) 円仁の9年6ヶ月の求法の旅を物心両面にわたって支援した。円仁の日本帰国時には 張保皐(チャンボコ) 自身はすでに暗殺されていたが、麾下の将・張詠が円仁の帰国実現に尽力した。円仁の『入唐求法巡礼行記』には、 張保皐(チャンボコ) の名前が数箇所登場している。

これらのことは、比叡山延暦寺にある「張保皐(チャンボコ)」の碑の説明文に書いてある。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tyanpoko4.jpg

山の再生(その1)

山の再生(その1)
地域再生はこれからの日本の最大の課題です。故郷が喪失し、日本全体がニヒリズムに陥っているからです。
故郷は、実際の故郷のみならず、心の故郷も含めて、ただ単に懐かしいという思いを抱かせるものにとどまらず、哲学的意味を持ったものである。その哲学とは、私たちの行動の行く先を指し示すものであって、現在の科学技術文明を修正するものでなければならない。現在、そのような哲学がある訳ではなない。私は、哲学者でないので、もちろんそのような哲学を構築することはできない。できないが、その方向性を指し示すことはできる。その方向性を書いたのが私の故郷論である。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hurusatoron.pdf

美しい日本の歌(その4)

美しい日本の歌(その4)
一年生になったら

https://www.youtube.com/watch?v=pn09Zo7INWw

2020年10月13日 (火)

回峰行

回峰行


白洲正子の「私の古寺巡礼」(2000年4月、講談社)で回峰行について次のように書いている。すなわち、

『 それを紹介する。NHKテレビの「行」という番組では、けわしい山道を、阿修羅のごとく走って歩く回峰から、堂入りを終了するまでのきびしい行を、数ヶ月にわたって克明に映して見せたが、特に感銘をうけたのは、断食に入るまでは、元気のよかった坊さんが、終わった時には憔悴しきって、人々に支えられて出堂する場面であった。9日間の断食といえば、人間にとって極限の苦行である。生死の境を超えて復活した人間は、もはや前の人間とは同じ人間ではない、肉体とともにもろもろの欲情は克服され、仏と一体になる。或いは大自然と同化するといってもいい。実際にも、出堂した時の坊さんは、神々しいまで崇高な姿をしており、まわりに集まった人々は、思わず手を合わせて拝んでいた。』

『 光永澄道師に「ただの人となれ」(1979年5月、山手書房)という著書があるが、その中で「断食行」の体験を実に美しく述べていられる。「断食をしてお堂に籠っていると、先ず聴覚が異常なほど敏感になってくる。不審番の衣ずれのおと、線香の灰が落ちる音などが、ドサッとひびく。中でも野鳥の声は、光永さんの内面に、大きな衝撃を与えた。山を歩いている時は、歩くことが精一杯で、鳥の声は単なる「音」でしかなかった。「間も山に在りながら、その妙音を聴き流していたのである。聞くとは正しくこれでなければならない。身内の心が動かされねばならない。・・・おや、おれが啼いている。そう聴こえたのである。・・・チチと啼けば、こちらの胸の内もチチと啼いている。そう聴こえたのである。そしてその鳥は、(無動寺の)明王堂の屋根の上には止まらず、比叡の峰々へ飛翔して行くであろう。その時こそ、自由に翔べるのである。鳥が光永であり、光永が鳥であった」』・・・と。


「堂入り」はまさに千日回峰行のハイライトである。凄いの一言に過ぎる。凄い!

回峰行の詳しい説明は次をご覧ください。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kaihougyouni.pdf

 

 

慈覚大師(その7)

慈覚大師(その7)
第2章 京都における慈覚大師ゆかりの地(その2)
第1節 赤山禅院(その2)

まず、円仁、すなわち慈覚大師については、私の書いたページが随分ある。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/usimatur.html

そのほか、人にはあまり知られていないが、私が慈覚大師最大の功績と考える立石寺創建の話がある。その話は、私の論文「邪馬台国と古代史の最新」の第8章に書いてあるので、それをここに抜書きしておきたい。

大和朝廷の時代、会津は大和朝廷の前線基地であった。その後、出羽の柵と多賀城の柵が
設けられるが、この山寺というところは、会津と出羽の柵と多賀城の柵を結ぶ一大交通拠
点であり、朝廷の指示で立石寺が創建された事は間違いない。その任に当たったのが慈覚
大師円仁であるが、そのバックには藤原内麻呂の次男・藤原冬嗣がいた。朝廷の大戦略の
もと、立石寺は創建されたのである。なお、念のために申し上げておくと、慈覚大師円仁
は新羅と実に縁の深い人であるということ、そしてまた当時の東北の技術者集団を統括し
ていたのが秦一族である。したがって、慈覚大師円仁は、藤原冬継の権力をバックに、秦
一族の力を借りることができた。東北の人びとの心をつまむには、当時、慈覚大師円仁が
最適の人物であったのである。また、延暦寺としても、東北という新たな希望の地に、天
台宗の普及を図る事は最澄の夢でもあったのだ。朝廷と天台宗が一体になって、立石寺の
建立と東北地方における人心の安定を図るために全力を投入したのである。


慈覚大師は、下野国の生まれであるにもかかわらず、立石寺に円仁の入定窟という霊窟がありそこに円仁の遺体があるという伝承があるのも、慈覚大師と立石寺との繋がりの深さを表しているものと思われる。


円仁は慈覚大師のことだが、ほとんどの人は大師といえば弘法大師を頭に描くのではなかろうか。しかし、本来、大師という称号は、天皇からいただくものだ が、慈覚大師が一番最初である。慈覚大師が日本ではじめて大師という称号をもらって、後年、慈覚大師がもらったのなら何とか最澄や空海にも貰えないだろう かという動きがあって伝教大師や弘法大師が誕生したのである。私は、最澄も偉かったけれど円仁のほうがもっと偉かったと思っているぐらいだ。

その慈覚大師の宗教上の功績については、次を参照されたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/ennin.html
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/esin-in.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/eros12.pdf

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