2019年10月13日 (日)

今宮神社

今宮神社


今宮神社は、平安遷都以来、京都では災厄や疫病が増え、それを祓うため建立された。

四月の第二日曜日に行われる「やすらい祭」は、京都三大奇祭のひとつとして有名。今宮神社の「やすらい祭」は、1987年(昭和62年)に、国の重要無形民俗文化財に指定されている「地域に根差した民俗行事」である。

大徳寺側の横の入り口の門の手前には「あぶり餅」の店がある空間がある。灯篭もあったりしてなかなかいい空間である。江戸時代の時代劇にも出てくるお馴染みのところである。

境内には、本殿のすぐ脇に、七夕伝説の織り姫に機織りの技術を伝えたとされる、栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)が祀られ、織姫社は織物の神様として西陣の人々に深く信仰されています。

 

今宮神社: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/imamiyajin.pdf

 

天山(その11)

天山(その11)
第5章 葡萄溝

1、第5章の要点:

人を魅惑する葡萄溝は火焔山地方の「ユートピア」である。

葡萄溝(ぶどうこう)中国語で葡萄沟と書き、英語ではGrape Valleyという。葡萄溝は、トルファンにおけるブドウや他の果物を育てている地域である。市内から東へ約10キロメートルのところにあり、幅約600~2000m、長さは約8キロメートルに及ぶ。トルファンは本来灼熱地帯であるが、天山山脈からの川や地下のカレーズなどを水源として使ってブドウやその他の果物を育ててきた長い歴史がある。葡萄溝は火焔山の西側の峡谷で、布依魯克川が雪解け水を運んでいる。マーナイツ(馬奶子)というタネなしブドウでも知られる。また、レーズンやその他の干し果物も売っている。


2、第5章のキーワード:

火焔山の水:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kaenzanno.pdf


3、第5章の本文:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/siruten5.pdf

 

水田農業のあり方(その1)

水田農業のあり方(その1)
はじめに


ニーチェは、当時のキリスト教団体を含むキリスト教の価値観と戦い、人間の尊厳を取り戻そうと悪戦苦闘した大哲学者であるが、東洋の神に憧れを持ちつつも、結局は神を信じなかった人である。ニーチェは、ニヒリズムに陥ると人間の尊厳はなくなるとして、ニヒリズムの何たるかを哲学的に深く考えたが、神を信じることができなかったので、結局は発狂して狂い死にしてしまう。神は存在するのか存在しないのか? そのことが大きな哲学の課題になっていたが、その後、ホワイトヘッドは神の存在を哲学的に明らかにした。さらに後年になって、ハイデッガーは、神の存在する(「神とのインターフェース」の多い)「故郷喪失」こそニヒリズムに陥る原因であると、哲学的思考を深めた人である。以上のことは、私の「故郷論」に書いたが、故郷は、実際の故郷のみならず、心の故郷も含めて、ただ単に懐かしいという思いを抱かせるものにとどまらず、哲学的意味を持ったものであり、絶対に守りとおしていかなければならなものである。

そのためには、地域のやるべきことと国がやるべきことがある。

私の故郷論:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hurusatoron.pdf


地域の役割については私の「故郷論」の中で一応具体的なことを書いたが、国の役割については、「ふるさと創生」の本質をよく考えて欲しいと述べただけで、その具体的な内容を書くことができなかった。新たな「ふるさと創生」を考える上で、林業の再生と水田農業の再生は二つの大きな柱かと思う。林業のあり方については、先般、梶山恵司の「日本林業はよみがえる」を紹介することで、日本林業のあり方について具体的な課題が明確になったかと思う。問題は農業のあり方である。

幸いにもこのたび、生源寺真一の「農業再建」(2008年1月、岩波書店)という本「日本の農業の真実」(2011年5月、筑摩書房)いう二冊の本が見つかった。梶山恵司の「日本林業はよみがえる」もそうだが、それらの名著を読まずして「故郷論」を書くなどお恥ずかしい限りである。梶山恵司の「日本林業はよみがえる」はすでに紹介したので、今回は生源寺真一の「農業再建」と「日本の農業の真実」を読みながら、彼のもっとも言いたいところを紹介したいと思う。今後、それに基づいて私の「故郷論」を加筆修正したい。

生源寺真一は、東京大学農学部教授、名古屋大学農学部教授を経て、現在は福島大学教授
。これまでに日本フードシステム学会会長、日本農業経済学会会長、食料・農業・農村政策審議会会長などを歴任。多くの著書がある。

生源寺真一は、「日本の農業の真実」のなかで、『ひとことで農業政策といっても、その範囲は実に広い。しかし、日本農業最大の問題は水田農業にある」と述べている。そこで、ここでは水田農業に焦点を絞って、「農業再建」と「日本の農業の真実」を読んでいくこととしたい。日本農業のあり方は、「日本の農業の真実」でわかりやすく論ぜられている。

政治の役割および行政の役割の重要性は絶大である。国は、生源寺真一の「日本の農業の真実」にしたがって、水田農業の再生、地域再生のために全力を尽くすべきである。

再度申し上げるが、故郷は、実際の故郷のみならず、心の故郷も含めて、ただ単に懐かしいという思いを抱かせるものにとどまらず、哲学的意味を持ったものであり、絶対に守りとおしていかなければならなものなのである。

美しい日本の歌(その8)

美しい日本の歌(その8)
村の鍛冶屋

https://www.youtube.com/watch?v=kphnvoE62Ms&list=PLrw8btfus_oVvN5sx4-LQx3kCEmOwPXRM&index=2

2019年10月10日 (木)

京都とねね

豊臣秀吉の妻・「ねね」は、素晴らしい女性である。彼女がいなければ、木下藤吉郎の出世はなかったし、秀吉になってからの出世もなかったし、天下人になることもなかった。秀吉を支え続けた彼女ではあるが、お茶目で、賢く、また度胸もあった。こんな素晴らしい女性は歴史上いなかったと思われる。

その豊臣秀吉の妻・「ねね」(「おね」と呼ばれることもある)は、秀吉の死後、何故京都に住むようになったのか?

ねねが秀吉とともに過ごした地で思い出深いところはいくつかあるであろうが、秀吉の行った事業を目の当たりに見て、しかもその跡(あと)が色濃く残っているところといえば、京都である。したがって、ねねは、秀吉の死後、秀吉を偲ぶために京都に住んだのである。その頃、ねねは北政所と呼ばれていたが、北政所は秀吉を偲びながら彼の霊を弔っていたのである。


「京都とねね」:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kyoutotonene.pdf

高台寺

高台寺

秀吉が死んで、豊臣政権は、加藤清正、福島正則、黒田長政らおねのグループと石田三成のグループに別れて、内紛状態になっていく。そして、徳川家康の実力を認めるおねは、政権安定のため徳川家康に力を貸すのである。徳川家康自身の配下にも力のある武将は少なくないけれど、加藤清正、福島正則、黒田長政らおねのグループが力を貸したこそ徳川家康は天下を手中にすることができた。

秀吉が作り上げた政権を引き継いだ徳川家康は、寧々に感謝し、寧々の晩年の生活を助けるのである。そして創建されたのが高台寺である。
北政所ねねが、秀吉を偲び、また秀吉の霊を慰めながら晩年を過ごした所である。

高台寺: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/koudaiji.pdf

 

天山(その10)

天山(その10)
第4章 トルファンとカレーズ

1、第4章の要点

トルファンは、古代におけるシルクロード、天山北路と天山南路の一大拠点であり、歴史的な観光として

雅爾湖(ヤールホト)古墳群(交河故城)
アスターナ古墓群
洋海墓群(火焔山)
高昌故城
ベゼクリク石窟寺院
蘇公塔
ベゼクリク千仏洞
トルファン博物館

などがあるが、何と言っても観光の見所は、カレーズと市内の葡萄棚ならびに葡萄溝その他点在する葡萄畑である。

現在なおカレーズは生きていて、トルファンの人々は、そのお陰で、大変豊かな生活をしている。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/mizutorufan.pdf

したがって、人々はそれぞれ地域に関係するカレーズの維持管理を自主的にやっているようだ。 トルファンでは、市民に対して、技術的指導をする専門家が何人かいるらしい。
BSフジの特別番組『日中共同制作 天山を往く~氷河の恵み シルクロード物語~』では、 その様子を放映していたが、残念ながらその写真はネットで見つけることができなかった。
したがって、私たち一般の人間は、「カレーズ博物館」で地下水路の中に入って、その様子を想像するほかはない。カレーズ博物館は、中国語で吐魯番坎儿井乐园または吐魯番坎児井博物館というが、英語でTurpan Karez Paradiseというので、ウィキペディアでは「 トルファン・カレーズ楽園」と言っている。トルファンの地下水利施設であるカレーズをパノラマ展示で理解し、カレーズも実際に見ることができる。


2、第4章のキーワード:

火焔山:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E7%84%94%E5%B1%B1

カレーズ博物館:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/karehaku.pdf

 

3、第4章の本文:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/siruten4.pdf

日本らしい農業・農村のあり方を考える

日本らしい農業・農村のあり方を考える

http://www.jice.or.jp/cms/kokudo/pdf/tech/reports/12/jice_rpt12_01.pdf

農業を一つにまとめて議論するのはあまり適切ではないため、大きく二つに分けて考えたいと思います。一つのグループは、ハウスや畜舎で行われている施設園芸や加工型畜産、または高品質の果物を作るなど、集約的で付加価値型の農業。言い換えると、土地をあまり使わない農業です。もう一つは、農業らしい農業と言いますか、稲作を典型とする土地利用型農業です。集約型、付加価値型の農業は健闘していて、アジアに輸出しようとする勢いもあります。一方、米、芋、豆といった土地利用型農業は後退してきています。米、麦類、豆類、芋類は全般的に縮小しています。米や芋は消費量も減っていますが、麦類や豆類は外国からの輸入に置き換わっているのです。

但し、国土のあり方という意味では、この土地利用型農業の方が重要な意味を持つ面もあります。

競争力の比較的弱い土地利用型農業を大事にすることは、食料の安全保障の意味を持ちます。また、減ったとはいえ農地はまだ全国土の13%でありますから、土地利用型農業の健全なあり方は、国土のあり方に大きく貢献します。貢献できないとなれば、非常にまずい状況が起こります。土地利用型農業は、まさにいま、再建を考えなければいけない状態にあると言えます。

土地利用型農業、特に水田農業の担い手不足は本当に深刻です。今のところ、平地ではきちんと米ができているように見えますが、これは昭和1けた生まれの世代の方の踏ん張りでもっていると言っていい。農作業だけではなく、例えば農業用水路の維持管理などを中心的に支えているのもこの世代の方です。ただ、昭和1けた世代は一番若い方でも今年73歳になります。もう10年も経てば一斉にリタイアして、水田農業は本当に危機的な状況になる可能性があります。

今は農地が余り始めていますから、農業をもう少し本格的にやろうという人、これから始めようという人にとっては、非常にいい状況が生まれていることも事実です。ある意味でチャンスと言っていい。そこで政府は2007年から、地域農業の核となる担い手や、集落営農というグループ農業を認定して、集中的に助成する新たな農政を本格化させています。助成対象の基準は、都府県の水田農業で農地面積が4ヘクタール以上です。所得の半分以上を農業から得ている農家を主業農家と言い、その最少規模に相当するのが4ヘクタール。ここに支援を集中しようという考え方です。倍の8ヘクタールあれば、農業だけで食べていけます。政府は今、とにかく規模の大きい農家をつくろうとしていますが、これは過去の半世紀の間に失敗した規模拡大の埋め合わせをしているというのが、私の受け止め方です。

もちろんある程度の規模は必要ですが、私は日本の農業者の強みは、土地を丁寧に耕すことにあると思います。したがって、規模拡大と同時に、経営の厚みを増すことを考える必要があります。これが土地利用型農業の再建につながる道です。農業経営の厚みを増す方法は三つあります。一つは、生産物の品質を高めること。例えば現代の米は差別化の最たる農産物で、同じコシヒカリでも魚沼産は60キロで2万5,000円くらいするのに、産地によっては半額になります。産地や品種だけでなく、環境保全への取り組みを付加価値として消費者にアピールすることもできます。同じ土地利用型農業でも、倍の価値の違いが生じるのです。二つめは、土地利用型農業に、集約型、付加価値型農業を組み合わせることです。水田農業の労働生産性はかなり向上していて、ずいぶん長い農閑期もあるわけですから、水田農業だけで農業経営を支えていくのは少し虫のいい話でもあります。では農閑期をどう活用するか。例えば私の知っている、北陸の水田農業で優れた成績をあげている農家は、イチゴのハウス栽培を組み合わせています。あるいは、北海道の空知の水田地帯は、20~30年前は見渡す限り米と転作の麦だけでしたが、今はトマトを作ってジュースに加工して販売したり、イチゴのもぎ取り農園を開園するケースなどが出ています。三つは、産業上の農業の定義を超えて、経営を多角化していくことです。農産物を自分で販売したり農家レストランを営むなど、加工、流通、外食といった農業の川下にある食品産業に越境して経営を拡大していく。あるいは、ツーリズムや体験学習など、異なる産業系列を取り込んでいく。今は、修学旅行生などを受け入れて農作業体験のサービスを提供する農家やグループも結構います。このように狭い意味での農業を超えていく動きが非常に大事です。また、こうした動きによって、若い人にとっても、農業がおもしろくなると思うのです。日本の農業者はたいへん熱心で、技術的にもすばらしいものを持っています。一所懸命の言葉どおり、土地を丁寧に耕すDNAを持っていますが、若い人を引きつけるには、単なる土地利用型農業だけでは、なかなか困難かと思います。

土地利用計画上は、効率的で大規模な農業を展開する農家と、兼業や趣味による小さな農家の圃場が混在すると、さまざまな非効率の原因になります。ドイツのクラインガルテンのような市民農園的な農区を、日本の農村部にも設けるべきです。趣味の農区とプロの農業者の農区とを分けるような工夫が必要です。これも土地利用調整の問題です。ここで大事なのは、プロと趣味の農家の関係です。趣味の農業と言っても、そう簡単にできるわけではありません。虫にやられて作物が全く収穫できないケースなど、農業には難しい部分が多い。米作りでも、例えばアマチュアが、イモチ病が出そうになる天候の条件や、実際に発病する状況を識別して対策を打てるかと言うと、それはできません。技術的にしっかりした農家が中心にいるからこそ、趣味の農業も支えられる関係にあるのです。小さな農家や趣味の農家が農村にたくさんいること自体は、決して悪くありません。ただ、その方々だけで農業を持続できるほど農業は甘くはない。数集落に1人、あるいは1グループぐらいは本格的な農業をやる農家や組織があって、その周辺にいろいろなタイプの農業者がいる。こういう農村の像を描いていく必要があります。

限界集落については、長期的な維持の難しい集落が少なくないことを、冷静に考えるべきだと思います。1970年の「過疎地域対策緊急法」のように、集落移転のような形でコミュニティを維持することは、今の段階では無理だと思います。あの頃は、奥地の集落にも30代、40代の方がいたので、移転にもリアリティーがありましたし、若干の成功例もありました。今は、絶対これをやってはいけません。何をすべきかと言えば、そこに人が住んでいる限りは、サービスのフローを最後まで供給し続けることです。ただし、長期的に見て、ユーザーがいなくなることがはっきりしている地域への資本投下は避けるべきです。フローの投入とストックへの投資の線引きをきちんとすることが非常に重要です。これは最終的には集落の条件をよく分かっている地元が判断するべきことがらであり、国や県はその判断に沿ってサポートする必要があります。集落自体は守ることができても、その集落の一部の農地はとても守れないという場合もあります。問題は、そこで一種の逆線引きができるかどうか。きちんと線を引き、ここまでは守るが、ここから先は自然に戻すという判断を、地元の方の経験的な知見と、外部の専門家の知見の融合のもとで行う必要があります。どんなに小さな田んぼでも、草が生えてくればネズミの巣になり、ドミノのように周りに悪影響を与え始めます。そうならないよう、一種の防衛戦を引くわけです。今の国土形成計画は、広域の地方ごとのマクロな計画ですが、町村やもっと小さな集落、あるいは集落の中の部分的な土地利用というレベルで、マイクロな国土形成計画が求められる段階にきています。その場合に、古くからある日本の農村の特徴や、農業のこれからの可能性を踏まえて考える。これが大事であることは言うまでもありません。

美しい日本の歌(その7)

美しい日本の歌(その7)
鯉のぼり

https://www.youtube.com/watch?v=LUYEcK9zwcY&list=PLC8k8iTMSZQ0b8KTUsBgvT0l5FBZOzTpl&index=5

2019年10月 7日 (月)

下鴨神社

下鴨神社

何時のころか、葛城山麓を離れた鴨族の一派が奈良盆地を北上し、奈良山を越えて加茂町まで勢力を伸ばし、さらに現在の京都の上加茂、下加茂の辺りにまで進出して定着して鴨氏になったとされている。一方、『新撰姓氏録』によれば、応神14年に渡来したとされる秦氏も当初は「大和朝津間腋上地(わきがみのち)」に住んだようだ。腋上は秋津のすぐ近くである。秦氏も鴨族の移住と時を同じくして、京都盆地に入り込んだと思われる。

秦氏は京都盆地の鴨川、桂川などの氾濫原の開拓の中心となり、賀茂・松尾・稲荷などの神社とも深い関係を持ったのである。
上賀茂神社と下賀茂神社と・・・京都は遥か西の方、嵐山というか桂川の向こうにある松尾神社、この三つの神社が秦氏が祀った三所大明神と言われている。上賀茂神社と下賀茂神社とは言うまでもなく一体のもの。したがって、賀茂神社と松尾神社が秦氏を通して一つになっていることは大変興味のあることである。

賀茂建角身命は、古代の京都をひらかれた神さまであう。山城の国一宮として京都の守護神としてまつられているのである。平安京が造営されるにあたって、まず当神社に成功のご祈願が行われた。
一方、秦氏も、山背(やましろ)の地方豪族として平安遷都に尽力する。その際、損野広隆寺の敷地を平安遷都のために朝廷に提供し、寺を太秦に移転させるのである。

平安遷都は秦氏と賀茂氏一体となって初めて出来た大事業であったと思う。

下鴨神社: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/simojin.pdf

 

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